犯人との対峙

 某月某日。

 午前四時二〇分。


 昨日の夜までの雲一つない快晴が嘘のように、灰色の雲が東京の空を覆っている。


 点滅を繰り返す街路灯。

 風に揺れる木々のざわめき。

 人気のない暗がりの路地。


 この日この場所この時刻、犯人の想定していた条件が揃う。


 駅からとある団地への近道のため、男性が一人薄暗い路地を歩いていた。


 男性は警察官で夜勤明けだったが、久しぶりに酒を飲んで気分が良かった。

 前から希望していた異世界への出張派遣が決まり、さらに同期の女性警官との交際が決まったからである。


 元々彼はゲートに入学を希望していたのだが受験に失敗し、一般の大学に入学して警察になったのだが、異世界への憧れが捨てきれずに夢を追い続け、異世界の警察組織との交流行事への参加を希望し続けて二年。ついにその願いが叶ったのだった。


 同期の仲間達のおかげで異世界出張へのパスも取れたし、資格も取れた。

 異世界でもっと勉強して強くなって、下の世界でより多くの事件を解決するのが、子供の頃からの彼の夢だった。


 こちらの世界ではたった一週間の出来事だが、同棲を始めたばかりの恋人も応援してくれた。

 異世界への出張まであと二日あまり。

 それまで休みも貰えたし、ずっと事件が長引いていたから久しぶりの帰宅。

 帰れば彼女が待ってくれている幸せを噛み締めながら、男性は帰路を歩いていた。


 自宅まであと三百メートル。


 同じく夜勤明けだった彼女が、夜食を作って待ってくれているとメールが送られる。

 もうすぐ帰るよ、と最近使い始めたハートマークを添えて返す彼の顔は、誰にも見えない闇の中で惚気のあまりニヤけている。

 歩く路地裏の不気味なくらいの静寂など、今の彼にとっては気に留めることではない。

 それが意図して作られた空間であっても、彼は違和感を挟むことはなかった。


 彼がそれだけ惚気ているということもあるが、それだけ犯人の用意したこのシチュエーションが自然に感じられるほど、周到に計算されて作られたものである証拠と言える。

 男性はこのあと自身に襲いかかる猛威など予期できるはずもなく、一歩一歩悪魔の口へと自ら進んでいく。


 犯人はそれこそ陰から男性を見て、来い、来い、と彼を襲うための凶器と殺意を握り締めて潜んでいた。


 点滅を繰り返す街路灯に群がる蛾。

 不規則な点滅が一瞬、完全に沈黙して闇夜を作り出し、光を失った蛾が一斉に散らばったとき、男性は突如暗がりに放り込まれたことに動揺して立ち止まる。


 手元で光るケータイの画面だけが光源の中、立ち止まった男性に犯人はほくそ笑んだ。

 人生上今までにないくらいの握力で凶器を握り、踏みしめる。


 踏み込んで二歩。刺突はそれで届く。

 あとは刃に染み込ませた毒が、彼を殺す。

 血が抜けて死ぬか、毒が回って死ぬか。犯人にとって大きな違いはない。

 結果、奴が死ねばそれでいい。


 周到に過ぎるくらいに計画を練って、練って、練り続けた。

 人生で一番努力したかもしれない。

 それだけ彼が憎かった。彼が疎ましかった。

 彼を殺したくて、殺したくて――一歩、踏み込んだ瞬間、刹那。街路灯が再び点滅を始めた。


 男性は明かりが点いたことに安堵し、再び歩き始める。

 今まさに、自分に襲いかかろうとしていた殺意の存在になど気付きもしないで。


 二歩。


 たったの二歩だった。あとたったの二歩だったのに。

 まるでその二歩が二百海里と呼べるまでに遠くなったかのように、まるで先が見えなくなって、怖くなって、進めなくなってしまった。


 それは決して、善意からそう感じたわけでない。

 今更になって臆したというわけでもない。

 ただ純粋に、そこに障害が存在したからである。


 計算上、計画上、絶対に存在しないはずの障害が目の前に対峙していたからだ。


「夜分遅く、失礼致します。佐久間大介さくまだいすけ様、ですね」


 彼女はまるで仁王の如くそびえていて、死神の鎌をも思わせる血の気を放つ鯉口を切って威圧感を放っていた。

 街路灯の点滅が、彼女の卯の花色の前髪の下に隠れる紺碧色の双眸を照らす。

 調度、男性が通り過ぎたその地点に立っていた彼女は真っ直ぐに、佐久間大介という人間を射貫く視線を放っていた。


 ド・トゥルーズ=ロートレック・アルフォンシーノ。【魔導剣士】がそこにいた。


「何故僕の名前を?」

「あのとき名乗ったじゃありませんか。

「憶えていたとは光栄です。わずか一日で役を降ろしたというのに」


 彼はそう、若干憤りながらも平静を装って笑みを湛える。

 本当は周到に組んだ計画が完全に破綻して自暴自棄になりたいだろうに、人前ということもあって必死に堪えているのは明白であった。


 アルフォンシーノがそう見て取れるほど、彼の笑顔は力があってぎこちない。


「私を襲ったのはそのためですか?」

「襲う? 何の話です?」

「わざわざご丁寧にゴキブリまで仕込んでいたではないですか。調べは付いていますよ」

「証拠はあるのですか?」

「あなたのことを調べさせていただきました。あなた自身は特にこれと言って、目立った経歴のない普通の方でしたが、あなたのお父様には過去に二度、毒草の栽培容疑で逮捕歴がある。調べたら一致しましたよ、今回あなたが作った毒と」

「だからそれを、僕がやったという証拠があるのかと聞いているのですが? 名誉毀損で訴えますよ」


 強気、に見えるだけだ。

 内心はすごく怯えている。

 今更怖くなったのか、事実を突きつけられることに慣れていないのか、酷く震えているように見えた。


「あなたが今握っているそのナイフに塗っている毒と、仕込んだ毒の成分を調べれば一致するはずです。あなたにはお父様以外に毒を入手する経路はなく、方法もない。あなたは一種類の毒しか作れなかったために、それが証拠です」

「知らないんですか? あの毒は今どき誰でも手に入る雑草のようなものだ。つまり誰でも手に入れられるんですよ、僕でもね!」


 声を張ったのは虚勢のためか。

 動揺が手に取るようにわかる。


「ではあの日、警察寮を抜け出したことはどう説明するのですか? 宅配業者に扮して私の家に侵入したのが監視カメラに映っていたことは? それと、あなたのお父様は現在入院中だそうですね。薬物中毒と言ってあるようですが、尿検査の結果、私に盛られたものと同様の毒物反応が出ました。お父様はすでに警察の管理下にあり、毒草の栽培はできない。なのにお父様は毒で倒れた。誰かに盛られたと考えるべきでしょう。この一ヶ月以内で唯一共に寝食を共にされた息子のあなたしか――」

「もういい!!!」


 怒鳴り声が静寂に響く。

 彼は頭を掻きむしりながら、何か考えているようだ。

 そして思いつく。


「いい加減にしてくださいよ。何様のつもりですか? 警察の真似事なら余所でやってくださいよ。それこそ僕は警官ですよ?! ならここで逮捕してあげましょうか。名誉毀損、公務執行妨害で!」


 しかし、彼女は怯まない。

 静寂の中で、さらに静謐を重ねて告げる。


「何故知っているのですか?」

「何をだよ!」

「私に盛られた毒が、あなたのお父様が調合していた毒と同じ成分であるということを」

「何故って……あなたが自分で言ったじゃ――」

「私は可能性の話をしていました。あなたのナイフの毒が一致するかもしれないと。だけどあなたは言い切った。私が盛られた毒があなたのお父様の毒と同じ、。違いますか?」


 彼は言葉を失った。

 そして嘲笑を浮かべる。

 そんな言葉一つが証拠になるものかと、彼は高を括ろうとしたのだ。

 しかし、その余裕は完全に崩れ去った。


「あなたは何故私に盛られた毒の種類を知っていたのですか? 世間にも公表されていない毒の種類を、あなたは知っていた。そしてそのナイフに毒が塗ってあることも反論しなかった」

「そ、そんなの言葉のアヤじゃあ」

「ではそのナイフ、警察に提出できますか? その毒付きのナイフを」

「だから何故、見ただけで毒が塗ってあるなんてわかる――」

「その刃の形状です。刃が欠けた円形の、青竜刀に似た独特の波紋は、刃に毒を染み込ませるための形状。異世界でもよく使われる毒剣に採用される形状です。切るのではなく、毒を打ち込むために特化した形状のため、斬る、突くなどの殺傷能力に乏しい」


 刀剣に関して詳しいのは当然だ。

 彼女は【魔導剣士】の称号を持つ一流の剣士なのだから。

 刃を晒しただけで毒が仕込んでありますと語っていることに、今更になって気付いた。


「さて、ではあなたのナイフを押収させていただきます。毒が仕込まれていれば当然、あなたの家にも捜査の手が及ぶでしょう。そこにたくさん証拠があるのでしょうね。お父様を苦しめる毒の残りが――」

「なんで! ……なんで、気付いた」


 最後の声はもはや、独白に近かった。

 彼はナイフを落とし、もうダメなのだと諦めたのだった。

 無論、そう見えるだけで、実際のところはこの現状に耐えきれず崩壊したというのが、正しいのであろうが。


「ゴキブリを使ってでの仕込み毒。あれは失敗と言わざるを得ません。元々用意していたものを標的を急遽、私に変更したのでしょう。結果、毒の即効性を上げるために組んだ錬成陣を作るのに使っただろうあなたの血が混じった毒から、あなたのDNAが検出されてしまった」

「なんだ、そんなちゃんとした証拠があるんじゃないですか……」

「異世界での経験が薄い人物では気付き得ない毒殺方だったため、油断なされたのでしょう。血を用いて錬成した毒には、その方の血が含まれるのですよ。例え他の動物に仕込んでいたとしても。そう考えると、あなたも異世界の知識が乏しかった」

「それは……屈辱、ですね」

「殺害の動機は、彼が異世界派遣のメンバーに選ばれたからですか」

「僕の方が適任のはずなんだ! あいつより僕の方が知識だってあるし、実力だってある! 毒の高速錬成だってできるくらい、魔法の心得だってあるのに! なんで、なんで、僕じゃなくて……なんで、あんな、あんな野郎が……許せなかったんだよ! 僕を差し置いて、僕より能力のない奴が選ばれるなんてことは! 許せなかったんだ……!」


 朝焼けが眩しい。


 気付けばもう、そんな時間になっていた。

 男性はとっくに愛する恋人の下へと帰宅して、佐久間大介の犯行は実行不可能。

 彼の姿はすでに朝焼けと共に、明白な事実と証拠の下に晒されていた。


「さぁ、行きましょう」


 アルフォンシーノが一歩、彼に歩み寄ろうとしたそのときだった。


「あぁぁぁあぁぁぁあぁぁぁ!」

 突然上がる奇声。

 佐久間は毒ナイフを彼女に向け、威嚇し始めた。

 震える手は、微塵に残った勝算のみを狙っている。武者震い、とはまた少し違う意味合いだ。


「捕まるものか! 僕は、僕は父さんとは違う! 僕は犯罪者じゃない! 僕は犯罪者じゃない!」


 必死の咆哮からわずか二秒。彼はアルフォンシーノに背を向けて走り始めた。


 彼女に投じた毒の成分なら、佐久間は重々理解していたので、彼女にまだ毒が残っていることはわかっていた。

 短時間で解毒しきるものではないのだ。

 故に彼の唯一にして微塵の勝算は、彼女が毒の影響で動きが鈍っていることだったが、一瞬でその勝算は尽きたことがわかった。


 摺り足だ。


 日本の武道に見られる独特の歩法。

 本来毒の影響で脚が麻痺して動きにくいという不利を、唯一の勝算を滑らかに滑らされた摺り足一つで打ち砕かれた。

 彼女は一歩を踏み出したわけではない。一歩分、足を摺って出したのである。


 佐久間はそれを見て逃げ出した。

 対峙されると速い摺り足だが、逃げてしまえば追い切れまい。


 元々陸上部所属だった彼は、自分の逃げ足に絶対的な自信があった――のだが、すぐさまその自信も打ち砕かれる。


 逃げられなかったからだ。


 詳細に語れば、逃げるルートを見切られて先回りされ、待ち受けられていた。

 彼女ではなく見知らぬ青年――性格には、一度だけ見たことのある青年に。


「逃がさない……先生を襲った外道め、往生しろ!」

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