漆黒の暗殺者

 帰宅したアルフォンシーノは時計を仰ぐ。


 普段よりずっと遅くなってしまった帰りの時刻。

 勉強熱心な生徒に付き合っていたがために遅くなってしまったが、悪い気分はしない。

 むしろこれからの彼の成長が楽しみで、彼の志がどのように実を結んでいくのか応援したいという気持ちすらあった。


 今の時代、やりたいことを純粋にやろうとする若者は少ない。

 誰もがこれをやりたいと言えば、周囲から「無理だ」「おまえにそんな力はない」などと根底から否定され、諦めさせられるばかりで、今の時代、夢を追い続けるというのはとても難しい。

 だからこそ、夢を追い続けるための努力をしようとしている彼のことを、応援したいと思いたくなっていた。


 異世界に行けば何か変わるかもなどと、抽象的な内容で学んでいる学生とは違う。

 具体的で、明確な目標を持っている人は、努力しているとわかると応援したくなるものだ。

 少なくとも、アルフォンシーノはそうだった。


 彼を優遇しないと本人にも言ったばかりだけど、しかし彼を特別視してしまいそうなほど、彼と語り合った時間は長く、体感的にとても短い。

 あのときに飲んだ紅茶のほろ苦さなど、もう忘れてしまった。


 覚えているのは、刀と異世界について熱心に質問し、語らう青年の活き活きとした表情。

 講師生活の未だ短い彼女にとって、どこか、他の生徒とは違う何かを見たような気がして、彼女は青年の存在が少し気になっていた。


「……」


 と、部屋着に着替えた彼女はわずかばかりの違和感を覚える。


 洗濯物が畳まれていること、お風呂がすでに入っていること、夕食の準備がすでにされていることは、日中に雇っている家事代行の人がやってくれたことだから、そこに関しては特に何も、問題はない。

 部屋もきちんと掃除されて整っており、埃一つない。

 部屋が荒らされている、というわけでもなく、戸棚の中も金庫も手をつけられた形跡はない。


 何か視線を感じるのだ、違和感を感じる。


 自分の知らないところから、覗き込まれているようなとてつもない違和感を感じて、アルフォンシーノは周囲に一瞥を配る。

 カーテンの背後、キッチン床の収納庫、クローゼットの中――

 隠れられそうな場所を手当たり次第に探して、やはり何もないなと握っていた剣を鞘に納めると、ようやくと言った様子でソファに落ち着く。

 それでも側に刀剣を置いているのは、さすがの一言か。


 家に一応TVはあるのだが、彼女はバラエティーの類をほとんど見ない。

 時間帯的に、バラエティーしかやっていないだろうことからTVは付けなかった。

 故に静寂の中、彼女は食事を取ろうとする。


 そのときだった。


 さささっ、と擦れるような音が彼女の鼓膜に届く。

 そして背後、振り返ったときにそれはいた。


 漆黒の光沢を放つ体に二本の長い触覚。

 六本の脚で聳えるそれは、縦横無尽に壁も走る漆黒の暗殺者。

 名を、ゴキブリ。


「……」


 アルフォンシーノもゴキブリも、まったく動かない。

 互いに互いを見つけてしまったからか、指の一本――足の一本も動かさずに、ただ相手を見つめたまま動かないで、相手の初手を窺っている。


 そして互いの初手が交錯したのは、およそ十秒の硬直の後か。


 ゴキブリは羽を広げて飛び上がり、あろうことかアルフォンシーノの美しい顔目掛けて突進してくる。

 本来なら短い悲鳴を上げさせて、必死に避けようとしたところを抜け、そのまま逃げるというのが彼らの定番の逃げ方である。

 ゴキブリもゴキブリなりに、今までの経験で逃げ方を知り、それを実行しようとしていたが、今回ばかりは相手が悪かった。


 短い悲鳴も上げず、また動じることもなく、一閃。

 速過ぎて、一切の血の付着も許さない高速の居合が、ゴキブリの薄い胴体を二枚に下ろしたのだった。


 速過ぎて斬られたことに気付かないゴキブリの上部が飛び、下部が落ちてわずかに走る。

 だが二秒後には上部も落ちて、下部も完全に沈黙した。


 一応その場で血を払い、刀を収める。

 悲鳴も動揺も一切見せず、あっという間に斬り捨ててしまった彼女であるが、一拍置いた次の瞬間、静かにテーブルに寄りかかって溜め息を吐いた。

 そして胸元に手を当て、そっと撫で下ろす。


 異世界にてあれのさらに巨大な種類にも遭遇したことのある彼女だが、それでもゴキブリは小さい方が怖かった。

 怪物サイズにまで大きいと、他の怪物と大差ないので割り切れるのだが、現代のサイズを見てしまうとゴキブリだと意識してしまって、悪寒がして仕方ない。


 本当は悲鳴も上げたかったのだが、悲鳴を上げる余裕すらなく、顔に向かって飛んで来たときは悪寒のあまり気絶してしまいそうになったのを必死に堪えて、一切の躊躇なく切り捨てたのであった。


 傍目から見て、彼女の中でそんな葛藤があったなどとは誰も思うまい。

 ゴキブリを斬ってしまった刀を早く手入れして拭き取りたくて、彼女は食事をやめて刀の手入れ道具が揃っている和室へと行こうとする。


 そのときだった。彼女がめまいを感じたのは。

 頭が重く、酷くふら付く。

 足元がおぼつかず、その場に膝をつく。

 何もかもが突然だったが、アルフォンシーノはすぐに原因に気付いた。


 ゴキブリの死骸から、何かが臭っている。

 見るとゴキブリの死骸から紫色の火が上がって、妖しい色の煙を上らせているではないか。


 ただの害虫だと思って侮っていた。

 斬る刀を間違えた。


 ただのゴキブリなら、今それを斬ったただの日本刀で事足りただろうが、魔術が付与されているのなら、魔術刻印をも切り裂く妖刀で斬るべきだった。


 しかし今は、あれから放たれている毒をなんとかしなければならない。

 煙に気付いた警報が鳴り始めたが、おそらく管理人が来るより前に自分がどうにかなってしまうだろう。そのまえに何か手を打たなければ。


 とりあえず窓を開けて換気。キッチンの換気扇を回して、とにかく空気を入れ替える。


 そして問題はこの毒だ。

 毒だと気付いてから呼吸は浅くしているが、だいぶ吸ってしまっただろう。

 解毒しないといけない。


「すみません、救急車を、一台……」


 救急車は呼んだ。あとは応急処置だ。

 アルフォンシーノは再度、電話を鳴らす。


『はい私、王浩然ワン・ハオランネ。アルフォンシーノ先生、こんな夜分に何用ネ』


 電話の相手は称号持ちマスター【調理師】の王浩然ワン・ハオラン

 称号の通り、異世界を渡り歩く料理人。

 何故彼に、と思うかもしれないが、彼はあらゆる異世界の生物を料理して来たため、毒の類に関しては専門的知識を有している。


ワン先生……実は、何者かに毒を盛られたようで……ゴキブリに仕込まれていた毒を吸ってしまったのです」

『用件、了解。急を要するよだネ。毒は魔術的な仕込みかな』

「魔術は紫門、蟲毒術式……六角の、おそらくは懐古和式……」

『ゴキブリに仕込まれてた言ったネ。なら、餌に仕込んで食べさせた類のものかもしれないネ。家にアルコールはある?』

「掃除用のアルコール洗剤なら……あとは、料理酒」

『なら料理酒を加熱してから飲んで、できるだけたくさん排泄して。大量には飲んじゃダメネ。

たくさんおしっこするネ。それで毒がある程度体から抜けるはず』

「わかりました……ありがとうございます」


 その後、到着した救急車に乗り込んだアルフォンシーノは、無事に一命を取り留めた。

 ワンの的確な指示の下で行った応急処置が、生死を分けたのだった。

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