ふたたびのはじまり

「どういうことなの?」

「……君、見ていたよね。この下の窓で、僕がルルゥに何をしていたか」

 身の下に、白いシャツの胸元を寛げてルルゥの乳房を吸っていた彼の姿を思い出しシーナは、顔を強ばらせた。

「ああしているときが、僕は一番幸せなんだ。何もかも忘れられる」

 うっとりと彼は続けた。

「僕は、ルルゥにいつでも自由に触れられるようになりたかった。僕を置いてどこかへ行ってほしくなかった」

 眠っているルルゥに視線を遣り、再び強張った表情のシーナを見下ろす。

「どうしても僕だけのものにしたかったんだよ。いろんな意味で」

 いつでも優しく抱き止め、襲ってくる苦しみや悲しみを鎮め、負の感情を宥めてくれる「母」として。

 自分の持つ知識に、素直に驚き喜ぶあどけなさに快さを得、自身の庇護欲を満たすための「劣る者」として。

 そして、男としての自我を受け容れさせ、自分の半身として、永劫に同じ道を歩むための「伴侶」として。

「だって僕にはもう他に誰もいなかったから」


――この人は、激しくルルゥを愛してるつもりなんだわ。

――でもルルゥはこの人を愛してない。

――っていうか、きっと何もわかってない。


 シーナは知らず知らず嫌悪感を表情に浮かべていたが、それを推してどうしても訊きたかったことをおずおずと口にした。

「ねえ…あなたたちって何なの?…幽霊?」

「僕は元人間だけど、幽霊とは少し違う」


 言ってもわからないだろう。

 ただ、人ならざるものに近づこうと足掻いた自分。

 多くの魂魄を呪っては手当たり次第に呑み下し、伸び行く生命から知覚を奪いその力を身のうちに取り込んで人間の霊体とは異質な何かになってしまった自分。

 それは彼の「願い」のなりふり構わぬ具象化だったが、彼にはわかっている。

 自分は幽霊などという生易しいものではない。悪霊、魔物の類だ。


「ルルゥは?ルルゥもあなたと同じように人間だったの?」

「違う。彼女はこの森で生まれて、人間だったことはないらしい」

 シーナは次のヴォルフリートの言葉を待ったが、彼の口から出てきたのは意外な言葉だった。

「ルルゥは、何だかわからない」

「え?」

「本当に、僕にもルルゥが何なのかわからないんだ」

「え? だって……あなたは……ルルゥと一緒にいるのに?」

 ヴォルフリートは何か甘美な台詞でも口にしているかのように目を細めた。

「僕はルルゥが何だっていいんだよ」

 本当は、彼には本能的にわかっていた。

 ルルゥは、自分のような穢れたものとは対極にある存在だと。


 地や、木々や、水、風、そのようなものが持っている息吹が坩堝のようにひとところに集まり、気紛れに人の姿をとったもの。

 意思らしい意思もなくただそこに存在し、古の日々に「精霊」と呼ばれたもの。

 常世の存在を許さぬ一神教が世を覆ったのちは「悪魔」「悪霊」と見なされたもの。

 自然の気の流れをあの円環で断ち切り、それでやっと、数多の人間を呪い、その生命力を奪い取った自分と力が均衡したもの。


 同じ「悪霊」と呼ばれるものでも、彼と彼女はまったく性質が違っていた。


「さて」

 剣呑なヴォルフリートの眼光にシーナは後ずさった。

「知ってると思うけど、僕は君が嫌いだ。ルルゥが少しでも触れた人間はみんな大嫌いだ」

 青く、燐光を発する真っ黒な瞳。

 この小さな少女への、狂気じみた嫉視と排除の意志。

 ヴォルフリートの腕がつとシーナに伸び、手がシーナの目に翳された。

「おこがましいんだよ!僕のルルゥに触れようなんてさ!」

 彼は少女の顔の前で長い指をいっぱいに広げたかと思うと、ぎゅっと五本の指先を鉤のように曲げた。

 小さなシーナの顔がすっぽりと覆われそうなその大きな手の、掌の窪みから刺々しい閃光を走らせながら黒い霧のようなものが滲みだしてくる。

 シーナは自分の貧弱な体が空中に浮くのを感じた。

 支点を失った体は塔の屋上、石でできた縁から徐々に乗りだしていく。

「……やめて! やめて!!! ルルゥ! 助けて! ルルゥ!」

「うるさい」

「いやああああああ」

 支えを求め宙を泳ぐシーナの手から、ガラス玉がきらきらと光りながら塔の下へ落ちていった。

 それはこの塔の下、ここを組み上げた時に残ったと思われる石材の上に落ち、割れた。

「ルルゥ! 助けて!! ……たすけて!! おかあさん! きゃああああああああ!!!!!!!」

 身体が一切の支えを失くし血が一瞬慣性に従って重力とは逆に留まろうとする「落下」の感覚。

 胸元で何かの砕ける音を聞いた。

 その瞬間、赤い光がシーナの身体を包んだ。


 明るい動脈血の色。

 生命に大気の息吹を届ける神の色。

 その朱に輝く波動の奔流。


 温かく、優しく、まるで胎内を思わせるような柔らかさがシーナをくるみ込む。

 不思議な威厳をもって朗々と、歌うように繰り返される聞いたこともない言語。


――私の血 私の肉 私のただ一人の娘


 屋上からシーナを見下ろしていたヴォルフリートは、シーナの周りに赤く眩い光、そしてその中に少女の体を愛おしげに支える女の腕を視て、恐怖に凍りついた。

 己が身を抱くように腕をぎゅっと組み、震えながらゆっくりと振り向けば、背後に寝かせていたルルゥがいつの間にか目をかっと見開いていた。

 ルルゥの奥に転がっていた古い骸が、「おかあさん」と呼ぶ声に一万年近い時を超えてゆっくりと起きあがる。

 そこには彼の知るルルゥという意識体は存在していない。


 彼は、今知らず知らずのうちにこの世にある「愛」と呼ばれるもののうち最も強く厄介な部類に属すものと対峙していた。

 そしてそれは皮肉にも、彼が自分だけに向けて欲しかったものだった。


「かえせ」


 ただ一言、ルルゥの唇から言葉が発せられた。

 目の奥に閃光が走る。

 それは最初赤かったが次第に黄色味を帯びた白い光となった。

 与えられた色彩が再び奪い取られる感覚。

 どんなことをしても恬淡と笑っているのをいいことにルルゥの力を殺ぎ、弱らせ、もっともっと近くにいたいという望みを叶えたつもりになっていた彼は、ルルゥの心が今完全にシーナへ向かい、自分のもとから離れたのを彼は悟った。

「……かえせ」

 もう一度、そう言い終えるや否や、ルルゥはみるみる人のかたちを失い、醜く膨れ上がる。

 痩せぎすだが美しかったその肢体が、異形の巨大な生きものに姿を変える。

 その結膜も虹彩もない目から迸る輝き。

 人の理解を超えたところで命あるものを恣にする鋭い歯と爪。

 それはヴォルフリートに向かって塔を全体を揺るがす咆哮をあげ、その瞬間、青く光る魔法の円環の内側にあるもの総てが、まるで主に生命を捧げるように朽ち始めた。


 次に目を開けた時、シーナは病院のベッドの上だった。

 大きな窓にかかったブラインドから細く光が差し込む。

 時計の文字盤は6時半を指していた。

 それが朝なのか、夕方なのかシーナにはわからなかい。

 傍らには仕事帰りそのままの、化粧が剥げ疲れきった表情の母がいた。 黒っぽい画像と何か細かい数値がびっしりと記載された紙に目を落としている。

「おかあさん」

 小さく呼びかけてみると、母は手元のCT検査の結果表から目を上げ、呆けたようにシーナを見つめた。

「シーナ!」

 一瞬の後、彼女は身も世もない叫び声をあげながら、シーナを抱きしめた。

「シーナ!!!!!」

 シーナを抱いたまま、気が狂ったようにナースコールのボタンを連打する。

 母親が落ち着きを取り戻すまで、質問を待つ余裕がシーナにはあった。

「ねえ、おかあさん……今何月何日? 朝なの? 夕方なの?」

 部屋に掛け時計はあるのに、母親は慌てて何度か取り落しながら腕時計をバッグから出して、日付と時刻を言った。

「ねえ、6時半って? 朝なの? 夕方なの?」

「……朝……朝の6時半よ、シーナ」

 1日半、シーナは眠っていたということになる。

「ねえ、わたしなんでここにいるの? 森にいたと思ったんだけど」

「ええ、給水塔の下に倒れてたわよ。学校と警察に連絡して、みんなに探してもらったの。何であんなところにいたの?誰かに連れて行かれたの?」

「ううん、私が一人で遊びに行ったの」

「なんて人騒がせな子!」

 母は抱く腕に力を籠め、涙声で言った。

「でもよかった……よかったわ……目が覚めて」

 シーナは素直な気持ちで謝った。

「ごめんね」

 駆けつけてきた看護師と医師にバイタルチェックを受け、様々な口頭での問診を受ける。

 やや過保護気味の母親は代わりに答えようし、何度も医師に制止された。

「マルフィさん、今シーナに質問してるんです。彼女に答えさせてください」

「……おかあさんって、いつもこんな感じだよね」

 シーナは笑った。

 問診も終わり、母の持っていたペットボトルのミネラルウォーターを飲んで一息つく。

 そろそろ入院患者用の朝食の支度が始まったらしく、重いワゴンが通路を通る音、配膳の音、そして温めたパンの匂いがする。

「……お腹空いた」

「そういえば先生、食事のこと何も言ってなかったわね……何か食べていいか、訊いてくるわ」

 母が立ち上がった時に、膝に乗せていたハンカチが落ちた。あまり可愛くないところが可愛い、とシーナが大事にしていたアヒルの柄のハンカチだ。

「おかあさん、私のあひるさんハンカチ、また勝手に使ってたの」

「あ……」

「口紅ついちゃってるよ」

 母親は、奇跡を見る面持ちでシーナの眼を覗き込んだ。

「シーナ……あなた、……視えるの?」

「え? …あ!!!」

 シーナは今の今になって驚愕した。


――視える!

――眼鏡をかけてないのに!


 世界はもう白く濁ってはいない。

 視野いっぱい、物の輪郭も陰影もはっきりと認識できる。

 まるであの森にいるのと同じだ。

「……ねえ、私が見つかった時、近くに誰かいなかった?」

 眠っているシーナは脳や臓器、薬物の検査だけでなく、婦人科の検査も受けていた。

 その結果、自殺の可能性も少なく、他者からの「暴力」の痕跡も見当たらなかったが、それでも母は怯えを露わにした。

「誰かって? 誰かに何かされたの?」

「……ううん。違うの。誰かが私を助けてくれたんだって思って」

 そう、誰かが私を助けてくれた。

「誰もいなかったわ。きっと神様が護ってくれたのよ」

「神様…」

 シーナは寂しげに目を伏せた。

「うん、わたし、あそこで神様に会ってたんだと思う」

 ベッドサイドのキャビネットの上には、砕けてさざれ状になった双晶がごく小さな鳥籠のペンダントの中でキラキラと光っていた。


 様々な検査を受けても全く問題が見つからず、シーナ自身もけろりとしているため、軽い脳震盪か何かだろう、という診断で、翌々日彼女は退院できた。

 その足で母はシーナを、予約をとっていたかかりつけの眼科へ引っ張って行った。

 小児白内障の恐ろしさは、目からの映像という刺激が弱いために脳の視覚野が発達を停止してしまうところにあった。

 視覚野の発達が遅れれば、どんなに眼を弄っても失明は免れない。

 フィルムへ映像を焼き付ける機構が駄目になればどんなにカメラのレンズを交換しても写真が撮れないのと同じだ。

「この様子だとシーナは目が視える子と遜色なく発達してます。この間の検査では、ここの発達の遅れが際立っていたんですけどね」

 初老の眼科医は不思議そうに顎髭を捻り回し、いつもより少し早口で喋る。

 今までこんな事例を診たことも無ければ聞いたこともない。

 あり得ない病状の改善を目の当たりにして、自分の診立てへの自信が揺らいでいる。

 誤診ではないはずだった。様々な検査記録がそれを物語る。

 だが、このシーナの眼に起こったことには全く説明がつかない。

 シーナの青い目の真ん中に開いた瞳孔は、黒く澄みきっていた。


 意味の通らぬ音声の羅列。

 人間と常世の存在との約定。

 その詠唱がやっと終わった。

 夜空にふわふわと光の玉が舞い上がり、在るべき場所へ還っていく。

 あるものは力強く真っ直ぐに昇り、あるものは頼りなく辺りをしばし漂う。

 自分の身から剥がれたものがいずことも知れぬ場所を目指して飛び去って行く。

 もはや、円環は青い光を放たず黒く鎮まった草叢であり、その内側は除草剤でも散布したかのように全てが枯死し干からびていた。

「……」

 その線の上に立ち、再び人の姿をとったルルゥはけらけらと笑った。

「『びりびり』がなくなった! ヴォルさんすげえ」

 ルルゥは浮かれている。

 線のあったところをひょいひょいと行ったり来たりしているうちに、初めて出会ったころの光芒をルルゥが取り戻していく。

 その一方でヴォルフリートはルルゥの鋭い爪に傷つけられ、身の修復も叶わず地に倒れ伏していた。身の内に取り込んでいた数多の魂魄が飛散していくのにつれ、その身体はどろりと腐れ毀れていく。


――終りだ。

――何もかも。


「ルルゥ」

 感情をもともと持たぬ者にひたすら自身の思いをおしつけてきた彼は、混沌の渦に呑まれそうになりながら、狂気の域に達するほどに慕った存在の名を呼んだ。

「ん? 何だヴォルさん」

 いかにものんびりとした返事に、ヴォルフリートはわずかに笑った。

「ごめんね」

「?? …ヴォルさん、身体がぼろぼろだぞ」

 やっと気づいたかのようにルルゥが怪訝な顔をした。

 自分がヴォルフリートに何をしたか、全く覚えてないらしい。

 覚えていたとしても、それがどうした、程度の認識しかないのだろう。

「僕はね、どうしても君と一緒にいたかった」

「ん」

「だけど僕は人間だったし……子供だったし……馬鹿だったから……ごめんね」

「……」

「これで君は自由だよ。どこにだって行ける」

「ふーん……ヴォルさんは?」

「僕は……僕はね……」

「……」

「僕も、他の人達と同じように、もういなくなるんだ」

 ルルゥがやっとヴォルフリートの言うことに得心の行った顔をした。

 そのしれっと笑ったような顔を見ながら、ヴォルフリートは最期に、切れ切れに言った。

 溶けた眼球が眼窩から流れ、まるで涙のように見えた。

「僕は……これでも……本当に……愛して……」

 唇が腐敗して溶け崩れ、歯列がむき出しになる。もうこれ以上は言葉にならなかった。


「やっぱり変なガキだな、お前」


 そのとき、彼はもうピクリとも動かなくなっていた体に温かい風が吹き込まれるのを感じた。

 体表を撫でるのではなく、体の芯へ向かって流れ込む風。

 腐汁で汚れるのも構わず、ルルゥが崩れてゆくヴォルフリートの身体を膝の上に引っ張り上げて抱きかかえている。

 骨の空洞と化した胸腔、頭蓋の中、骨の髄。

 そしてこの今生の依り代であった身体から、剥がれかかっている魂の奥まで何かが優しく浸すのを彼は感じた。


――ルルゥが、僕を視ている。

――僕の記憶を視ている。


 ヴォルフリートは右手首から血を流していた。そして流れる血で、塔の周りに巨大な円を描く。

続けて、数本の直線や古代の文字を描いていく。

 血が止まりかけると、左手で右腕にナイフを突き立ててより深く傷つけ、血を噴き出させる。

 右手首はもう縦横についた刃物傷でずたずただった。

「できた…」

 一言呟いて、ヴォルフリートは草の上に膝をつき、そのまま前のめりに倒れる。

 冷たい月に照らされ、それが天頂に達したとき、その身体から全く同じ姿の少年が起き上り、新しい世界を眺める目で辺りを見回し、空を見上げた。


 そのヴォルフリートの脳裏に残る映像をルルゥは幾度も反芻する。

 さっぱりわからない。

 何のためにこの少年がこんなことをしたのか。

 死んでるくせにいじましく起き上って、自分に纏わりついていたのか。

 その因果がまったくわからない。

 わからないなりに、なんとなく面白い。


 腕の中にいるヴォルフリートの記憶を更に見ている間に、ルルゥは段々愉快になってきた。

 ヴォルフリートの目を通した自分が何となくこそばゆく、わははと声を上げて笑う。

 自分がどう人の目に映るかなど考えたこともなかったルルゥは、この姿に初めて愛着を感じた。


――そうか、こいつの目には私はこんなふうに映ってたのか

――私はこんな感触で、私を抱くとこんな感じなのか


 そして、この少年の記憶に残るこの森の色鮮やかさにルルゥは驚く。

 彼の思いを自分の中に容れ、空を見上げれば星はいつもよりも一段と美しい。

 視えなかったものが視えた時の、彼の鮮烈な感激を追体験しながらルルゥはふと涙ぐみそうになった。

 それは、あの少女の眼差しを思い出したせいかもしれない。


――寂しいって、これか…?


 ルルゥは静かに語りかけた。

「なぁ、ヴォルさん」

「……」

「私な、空のたかーいところに浮けるんだぞ。知ってたか?」

「……」

「私はまだまだいろんなことができる。今思い出した」

 腕の中の、黒い腐肉がこびりつく半ば白骨化した死骸にルルゥはふわりと息を吹き込んだ。

焔のようなものが一閃する。

骸は崩れ去り、粉々に砕けて大気に散っていった。

「だけどなぁ……私はオルガン弾けねえんだ……なぁヴォルさん」

 柔らかな光の混沌がたった今塵となった肉体そのままに、魂を容れる器を構築していく。

 そこへ、最後までこの場を悲しげに彷徨っていた一つのこころが緩やかに、健やかに収まっていく。

「私も、お前がいたらきっと『寂しく』ねえだろうなって思う」

 ルルゥは腕の中にいるものに頬ずりした。

 それは、怯えた子犬のように震えながら彼女の名を呻いた。


「おかあさん、遅いよ! 早く~!!」

「ちょっと待ってよ! ちびっちゃいくせに何でそんなに元気なの?!」

 新緑が美しい森に、シーナは来ていた。

 久しぶりに森を歩くシーナの前を、ひょいひょいと娘は進んでいく。

「なんでおかあさんはそんなに遅いの? 休んでばっかり!」

「休んでるんじゃなくて、森の空気を楽しんでるのよ!」


 一時この森を伐採し工業団地にされる予定が立ったが即座に反対運動が立ち上げられた。

 その中心人物がシーナだった。

 美しすぎる市会議員としてネットでもよく話題になり、パパラッチまで出現する始末だがシーナはいつでもにこやかに誰にでも手を振って見せた。

「工業団地が造成されれば莫大な税収が見込めるのになぜ反対するんですか?」

 多くの人間にそう訊かれ、シーナはそのたびにゆったりと答える。

「ここには、わたしの大事なものが在るんです」

 相手は必ず訝しい顔をする。

 そこへ、個人的な森への思い入れから、具体的な数字を交えて浅薄な増収歓迎論への反証をし、最後にこの地域の発展の歴史をノスタルジックかつセンチメンタルに語って見せると、大抵の人間はシーナに握手を求め賛同の意を示す。

 中には涙を浮かべる年配の人々もいる。

 それでも何か言いたげな相手には、少し寂しげににっこり笑ってみせると、たちまち黙ってしまう。

 地元マスコミに「女神の微笑」と書きたてられている、その微笑だ。


 丘の頂へ着く。

 そこにはシダや短いイネ科の植物が繁る草地があり、崩れを修復したばかりの古い給水塔がある。

 昔の話を知っていて、ここは呪われていると言って怖がる連中もいたが、今はもう、ここに来たことで心身を損なうものは誰もいない。

 時折ピクニックに訪れる者もいる。 


「ここでお弁当たべよっか」

「うん」

幼い娘は喜んでピクニックシートを広げるシーナの手伝いをしていたが、まだ生まれて幾許も経たぬ小さなバッタを見つけて追いかけはじめた。

その姿を見ながら、思い立って急ごしらえしたゆで卵にハム、レバーペーストにバターとパン、小さなトマトやキュウリのピクルス、木苺のタルトといった簡素なランチを広げてシーナは娘を呼んだ。

「ほら、おいで! おかあさんがぜーんぶ食べちゃうからね!」

「やだー! 待って―!」

幼い娘の声の残響に懐かしい声が、そして風に揺れる木々の音に古いオルガンの音が混じるような気がする。

幾度となく訪れても、あれから二度と彼女らには会えなかった。

確かに気配は感じるのだが。


「ねえおかあさん、これ見て」

「ん?これ蛍石じゃない! きれいね……落ちてたの?」

「光るおにいさんにもらった。ごめんねって言ってた」

「!」


ここは精霊たちが棲む森。

多くの人々がその姿を見たという。

その姿は光に包まれた若い女のようだった、と口々にその人々は言う。

しかし稀に、少年の姿を見たという者もいる。


――かつて、わたしには確かに彼女たちを見、そのこころに触れていた日々があった。



    <了>

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ラプンツェルの塔 江山菰 @ladyfrankincense

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