おわりのまえぶれ

「ほら、これ!」

 シーナは放課後母親が車で迎えに来るまでの間、ほぼ毎日塔に通うようになった。

「おかあさんに作ってもらったの」

 手芸用の銀色のワイヤーで小さな鳥籠を作り、その中にあの日もらった双晶を納めて仕立てたペンダントをシーナはルルゥに見せた。

「よかったな」

 ルルゥはこの少女が「おかあさん」の話をするたび何かちくりと胸の奥に小さなとげが刺さるような痛みを感じる。

 それが何故だかわからない。

「なぁ、木苺食うか?」

「うん」

 シーナは学校で黙っていた分を取り戻すように、少女の高い声で囀るように話す。

「昨日持って帰った木苺ね、『大きくてきれい』っておかあさんすごくびっくりしてた。タルトにしてくれたんだよ」

「タルト?」

「ああ、持ってくればよかった!おかあさんのタルトすごくおいしいの」

 壁の螺旋階段に、相変わらず無愛想にヴォルフリートが座っている。しかし、ルルゥがあいつはほっといても大丈夫だと言い、彼も何かしてくる気配を見せないので、シーナは彼のことは気になりつつ無視することにしていた。

 先日シーナが口うるさい奥方気取りで埃まみれだった部屋を掃除したので、部屋は何とか小ざっぱりとしている。

 その床の上に座って二人はゴップ(二人向けトランプゲームの一種)をプレイしていた。

 シーナは次々にダイヤのカードを巻き上げつつ、時々弱いカードを出してルルゥにも勝たせてやる。

 数の概念もあやふやで勝負への欲というものも希薄なルルゥは、ダイヤのA(ゴップにおける最弱カード)を掴まされても、手元のカードが増えることを単純に喜んでいた。

 シーナは言った。

「ねえ、ここに来る途中で『魔女の輪』を見たんだけどあれほんとに魔女が作るの?」

「違う。あいつらはああいうかたちを作りたい生きものだ」

「あいつらって魔女? 妖精?」

「キノコ」

 その単純で当たり前にもほどがある答えにシーナが笑い転げ、何が可笑しいのかわかっていないルルゥも笑う。

「じゃあさ、ここの周りにある青い線の輪っかって何なの?」

「あれは、『びりびり』だ」

 ルルゥは奇妙な幼児語を口にした。

「びりびり?」

「私はあれに触るとびりびりする。あの外には出られない」

「どうしてびりびりするの? あれは何?」

「わからねえ。寝て……目が覚めたらあった」

「へぇ……ルルゥが寝てるうちに誰かが勝手に描いたの?」


――私が寝てるうち?

――そうだ、寝るって?寝るって何だ?

――そもそもあのときの他に眠ったことはあるのか?

――私は『眠らないもの』じゃなかったのか?


「……ねえ、あの線の上を通れればルルゥも私の家に遊びに来たり一緒に公園に行ったりできるの?」

 無邪気なシーナの問いには答えず、ルルゥは階段に腰かけてぼろぼろの本を読んでいるヴォルフリートに歩み寄って行って訊ねた。

「ヴォルさん、あの『びりびり』は何だ? お前は知ってるよな?」

「『びりびり』は『びりびり』だよ」

「どうしてお前だけ『びりびり』を通れる?」

「……」

 やっとヴォルフリートは本から顔を上げルルゥを見た。

「『びりびり』ができてから、何でヴォルさんはずっとここにいるんだ」

「……」

「どうしてヴォルさんは何も教えてくれねえんだ」

 ヴォルフリートが何か言いたそうにルルゥをじっと見つめた。

 ルルゥは彼を睨んでいる。

 シーナは慌てて、道化じみた弾んだ声で場を和ませようとした。

「……ね、わたし全然びりびりしないで通れるよ!私が手を引けば、通れるかも!」

 時折この二人に訪れる張り詰めた雰囲気。

 そんなときいつもシーナは努めて明るく振舞う。

「……ねえ、大丈夫! 私と一緒なら通れるよ。ねえ、やってみよ?」

 シーナはルルゥの手を掴もうとしたがその小さな白い手はすいっと空を切った。


――え?!


 もう一度、今度はルルゥの肩に触れようとしたがやはりそこには実体がない。

 初めての現象に愕然とするシーナにヴォルフリートが言った。

「シーナ、わかったろ。ルルゥは人じゃないんだから常識は通用しないよ」

 ヴォルフリートを睨んでいたルルゥは我に返った様子でシーナとヴォルフリートを交互に見た。精一杯その頭の中で言葉を探していた様子だったが、無言で俯く。その顔にはらりと黒髪がかかり、翳を作った。

 ヴォルフリートはそのルルゥに追い打ちをかけるように言う。

「シーナの前では人のふりなんかして、何考えてるのさ。おかしいよルルゥ」

 ぱたんと本を閉じ、立ち上がったヴォルフリートはルルゥに手を伸ばした。

「シーナ、僕らが人じゃないっていうのはわかってるんだろ?」

 彼はルルゥの腕を強く引き、己が胸に引き寄せて抱き締めた。

「なぁシーナ……あのな……私は」

 片手で肉の薄い顎を捉えると、少年はシーナに何事か語りかけようとするルルゥの唇を己が唇で塞いだ。

 湿った音を立てて口の内を蹂躙されつつ、ルルゥは横目でシーナを見、まだ何か言おうとしている。

「……ん……んんん………んんぅ……」


――嫌だ……

――何でそんな汚いことをするの?


 凍りついたように立ち竦んで、二人を見つめているシーナに、口元を唾液で濡らしたヴォルフリートが言った。

「シーナ、君が来るのは迷惑だ。ここにはもう来ないでくれ」

 その言葉が終わらぬうちにルルゥもこの状況を把握しているのか甚だ怪しい、白痴めいた声を上げた。

「シーナ、また来て遊んでくれ……掃除もしとくし……トランプまたやろう! なぁ!」

「黙って!」

 ヴォルフリートが再びルルゥの唇を貪るように接吻るのを見て、何か下腹の奥にぞくりとするものを感じながらシーナは逃げるようにその場を後にした。


 シーナの後を追おうとするルルゥを、ヴォルフリートは必死に抱き止めた。

 在るものをただ在るものとして淡々と受け容れてきたルルゥ。

 なのに、シーナがそばにいるときだけ、ほんの少し頭が冴えるらしく様々な事象の因果関係を知りたがり意思のようなものを見せるようになった。

 シーナが来ると、ルルゥは不必要に彼女の近くに寄り、撫で回し、抱き締める。

 帰るとその後ろ姿をいつまでも見つめる。

 そして、ヴォルフリートに対して敵意を見せる。

 シーナが帰ってしばらくするといつものように、『びりびり』と呼ぶものの中を不思議そうにうろうろと歩き回り、ちょっと触れてみては「びりびりだー」と笑い、ヴォルフリートにも屈託なく接する。

 何故ルルゥにとってシーナが特別なのかヴォルフリートにはわからない。

 そうやってわからないなりに、彼はシーナを憎悪した。


――ルルゥが可愛がってさえいなければあんなちびなんかとっくの昔に……


 窓からの視線を感じながら、ヴォルフリートはやっと大人しくなったルルゥを簡素なベッドに組み敷いた。


 それから一週間、シーナは塔を訪れなかった。

 窓から見てしまった光景が脳裏から離れない。思い出すだけで鳥肌が立つ。

 人ではない、という現実離れした事実は、ルルゥがまだ子供の姿をしたヴォルフリートとインモラルな関係にあるという現実的な禁忌の感覚と生理的嫌悪感の前にかき消されてしまう。

 その関係というのも、知的に少々問題があるルルゥを図体ばかりでかい「ませガキ」のヴォルフリートが好いようにしているだけにしか見えなかった。

 そのことをできるだけ意識に上られないようにしながら、シーナはルルゥの手の優しさを思い出す。

 ルルゥに話を聞いてほしい。撫でてほしい。

 ひょっとすると、ルルゥのいる森では病んだ目が機能を取り戻すという事象とパブロフの犬のようにセットになって、余計慕わしく思えるのかもしれない。

 しかしルルゥの傍らにはいつも陰鬱な顔をしたヴォルフリートがいる。

 まだ子供のくせにルルゥにいやらしく触れ、シーナには憎悪に満ちた眼差しを向ける気味の悪いヴォルフリートが。

 彼には、もう来るな、とはっきり言われた。

 しかし、シーナはルルゥにどうしても会いたかった。


――もうすぐ夏休みだし……それに……

――忘れてきたトランプをとりに行くくらい、いいよね?


 久しぶりに森へ入って眼鏡を外し、緑の匂いの小道を延々と踏みしめて鉄条網をくぐると、突然シーナはルルゥに抱きかかえられた。

あの『びりびり』の縁までルルゥが出てきている。

「シーナ! どうして来なかったんだ」

 人ではないということを知ってみれば、確かにルルゥの腕の中は人間の持つ温かさも、生きものなら多少はあるはずの生臭さもない。

「あ……だってヴォルフリートが……」

「今ヴォルさんはいねえよ。あいつ時々、飯食いに行くんだ」

 ルルゥは嬉しそうだった。シーナを抱えてくるんと回る。

 シーナはほっと息をつくと、ルルゥの胸にそっと頭を凭せ掛けた。

 肉は薄いがやはり柔らかい胸。

 心音は、しなかった。

「ルルゥは食べに行かないの?」

「私は食い物は要らねえんだ」

 予想はしていたが、はっきり言われるとどきりとする。

 ルルゥの身体に自分の小さな身体を添わせ、シーナはすとんと地に降りた。

「へええ…ヴォルフリートってご飯食べるんだ」

「ヴォルさんは食事に行くっつうから、多分食うんじゃねえかな」

「あの人、どんなの食べるのかな」

 さあな、と興味無さげに答えた後、ルルゥはにかっと笑った。

「なあ、天気いいし、てっぺん行こうぜ」

「てっぺん?」

「これのてっぺん」

 ルルゥは塔の頂を指差した。


 塔の螺旋階段をぐるぐると登ると給水塔として巨大な水槽が収められているスペースがある。

 一度も水を満たさないまま使われることのなかったブリキの水槽の横の狭い通路を抜け、壁に打ちこまれた金属の足場を上ると屋上に出た。

「う……わあ……!」

 そこには、木々に阻まれて見えなかった景色が広がっていた。

 シーナの通うゲザムトシューレの校舎も、杏畑も、遥か西側のシーナの家のある辺りもジオラマのように見えた。

 そしてその反対側には木々も動物たちも命を謳歌している、夏の原生林が繁る。

 この塔の周りの森には人の手が入っている。いわばここは里山と呼ばれる区域で、人と森の境界が重なり合った場所だ。

 町には町の、この森にはこの森の、原生林には原生林の美しさがあった。

「きれいね」

 シーナは食い入るようにこの景色を見つめ、この光景を網膜に焼き付けようとしていた。

 この風景は一生忘れないだろう、とシーナは思う。

 シーナの感慨をよそに、ルルゥは空に手を伸ばした。

 ルルゥの上に影が差し、羽音を立てながら一羽の大きな鴉がその手首に舞い降りる。

 鴉は口に咥えていたものをルルゥの手にぽとんと落とすと、ルルゥを見つめて体を低くし賢しげにカァと鳴いた。

「ありがとな」

 細長い指がそっと胸元を撫で上げると、もう一度カ……と短く鳴き鴉は力強く羽ばたいて飛び去った。

「今、どうやったの?ねぇ」

「ん…くれっつったらくれた」

「ルルゥ、すごい!」

 ルルゥはにっと笑って掌に残ったものを摘み上げた。

「ほら、これ。もらった。お前にやる」

 ルルゥがシーナの手にのせたのは、安っぽく光るガラスの飾り玉だった。

「人間ってすげえな。こういうの作れるって」

 ルルゥはしきりと感心している。

 そのルルゥを見ていると、シーナは目の前がぼやけてきた。胸に何かが詰まったように息が苦しくなる。

「わたしね、明日手術なの」

「シュジュツ?」

「私の目ね、このままだと見えなくなっちゃうの。だから目の中にある悪いところをお医者さんにとってもらうの」

 これは幾度となく話してきたことだった。そしてルルゥの反応もいつも同じだった。

「……人間すげえ……」

 ルルゥは感嘆の声を上げる。

 だが、シーナの大きな青い目の縁からはぽろぽろと、幾筋も涙が落ちる。

「簡単な手術で、寝てるうちにすぐ終わるんだって。失敗する事ってあんまりないんだって」

「……」

「でもね、ほんの少しなんだけどその手術で本当に目が見えなくなる人もいるって」

 目は、体表から視認できる脳の一部と言ってもいい。

 そこに傷を入れられることに怯えるのは当然だ。

 手術で、シーナの眼の水晶体は掻把される。水晶体のない目というもの自体が想像できない。

 さらに除去された水晶体のあったところへ入れられる眼内レンズは、小児向けの最新式だが、やはり成長につれて入れ替える手術が必要だ。

 慣れる、怖くない、すぐ終わると誰もが言うが、そのたびにこんな恐怖を味わうのかと思うとシーナは胸が潰れる思いだった。

「……」

「ルルゥ……こわいよ。明日なんか来なきゃいいのに」

 シーナはガラス玉を握り締めしゃくりあげ始めた。

「わたしが……こわいっていったら……おかあさんは大丈夫っていうけど、……最近おかあさんね、私が怖いって言うと泣きそうな顔するの。おかあさんもこわがってるの。だからこわいって言えないよ」

 彼女は小さな身体でルルゥの身体にしがみついた。

「こわいよ! こわいよルルゥ! 手術なんかしたくないよ! こわいよ」

 ルルゥはシーナの身体にしっかりと細く骨ばった腕を回し、金色の頭を撫でた。

「そうか……」


――この小さな子の恐怖し悲しむ姿に身体の奥から衝き上がる焦り。

――人でも、生きものですらない私が初めて感じるもの。


 ふとルルゥは、雪の降りしきるある朝の光景が目の前に浮かんだ。

 太古の昔、人間が毛皮を纏い石の武器を持って野山を駆け巡っていたころの記憶。


――何故今思い出す?


 ちょうどここで、若い女が抵抗もせずに男どもに殺されて切り刻まれていった。

 それは、ルルゥにとって何の意味もない光景のはずだったが、なぜか立ち去り難い、興味のようなものを抱いた。

 生きものであれば、生きていることに執着し、足掻き、今わの際まで死と闘う。

 何もかも納得ずくで自ら死んでいくとは、人間とはなんと奇妙なものだろう。

 その骸のそこここに触れてみている間に、何の感情も持たないただ『そこに在るもの』だったルルゥは、死んだ女のかたちをなぞり今の姿となった。


――何だ、この感じは……


「シーナ、今日からここに住め。帰るな」

「……」

「ここにいればずっと目が視える。シュジュツなんかしなくてもいい」

「……」

「なぁ、そうしろ。それがいい」

「……ありがとうルルゥ」

ルルゥの腹に顔を埋めて、シーナが涙に潤む声で言う。

「……でも、だめだよ。わたし、おかあさん大好きだもん」

「……」

「…ごめんね。わたしあなたが好き。ここにいられれば最高だと思う」

「……」

「でも、おかあさんはわたしのおかあさんなの。おかあさんのいる場所が私のいる場所なの」


――そうだ、私は今『おかあさん』ではない。

――私はこの子に何の繋がりもない。

――それで?

――だから?

――どうしてこんな気持ちになる?


 ルルゥは生まれて初めて、目から水が出る現象を経験していた。

 彼女自身は不思議でたまらない。

 ルルゥはあの誰かの思考の残滓を姿かたちと共に取り込んでいたらしい。


 シーナはぽたんと半袖の腕に水滴が落ちるのを感じた。

「……ルルゥ?……」

 ルルゥが泣いている。

 顔をくしゃくしゃにして涙を零している。

「う……う……」


――ルルゥも泣くんだ……

――わたしが泣かせたんだ。


 その顔をしばらく無言で見上げているうち、シーナはしん、と心が静まっていくのを感じる。

 明日の手術への恐怖より何より、この目の前にいる、人ならぬものを悲しませてはいけない気がした。

 ルルゥのシャツで涙をふくとシーナはにっこり笑った。

「えへへ……シャツべとべとにしてごめんね」

「……」

「あのね、簡単な手術なの。虫歯削るくらいの。大騒ぎしてごめんね」

「……ほんとか」

「うん」

「……怖えんだろ?」

「こわくなくなったわけじゃないけど、大丈夫な気がしてきた」

「………私はシーナが目を切られるの、怖え」

「手術されるのはわたしだよ? ルルゥは怖がらなくても大丈夫! 全身麻酔だし寝てる間に……」

「ゼンシンマスイ?」

「えっとね、身体を切ったりするときに痛くないようにお薬で眠らせてもらえるの」

「……うう……」

 大仰に理解したらしくまた顔を歪めるルルゥにシーナは明るく大きな声を出して見せた。

「大丈夫だって!!」

 ルルゥを宥めているうちに、本当に大丈夫だという気持ちがふつふつと湧いてくる。

 大騒ぎしたつい先ほどまでの自分を笑いたいような気分だ。

「今日はルルゥに会えてよかった。なんだか元気が出てきたよ」

「……」

「……ありがとう、ルルゥ。ほんとにありがとう」


 そのとき、音もなく大きな人影がルルゥの背後に立った。

「ヴォルフリート!」

 まるで悪事を見つかったかのように、慌ててシーナはルルゥから離れた。

 彼はシーナを冷たく一瞥すると、ルルゥのうなじにすっと手を当てた。

「あ、ヴォルさ…?」

 ルルゥが振り向き、小さく声を上げたが、すぐにそれは途切れる。

 金色の瞳は閉じられ、彼女の体は大きく傾いだ。

「ルルゥ!」

「彼女に触るな」

 ヴォルフリートはルルゥの身体を長い腕で抱き、そっと石で組まれた塔の屋上に横たえた。

「あなた、ルルゥに何をしたの!」

 しゃがんだまましばらくルルゥの顔を見つめていたヴォルフリートはシーナに顔を向ける。

「それは僕の台詞だ」

 彼の声には憎悪が籠っていた。

「ルルゥを泣かしたね」

 ルルゥの首に当てていた彼の手に、あの塔を囲む線と同じ仄かな光が見えた。

 ルルゥに駆け寄ろうとするシーナの脚はぎくりと止まった。

「もう来るなって言ったのに」


 シーナといるとき、ルルゥは感情らしいものを見せる。

 彼にはそれが厭わしくてならない。

 人が当たり前に持っている意思と判断力、そして感情をルルゥが持ってしまうことをヴォルフリートは恐れていた。

 それは、ルルゥが彼を嫌悪し、忌避し、軽蔑し、そして二度と許さないことを意味する。

 ヴォルフリートは全てに寛容なルルゥでさえ蔑み許さないであろう自分の穢らしさを、知りすぎるほど知っていた。


「ルルゥは眠ってるだけだ。すぐ目を覚ます」

 ヴォルフリートは少し声を潜めた。

「どうして眠らせたの?」

「今から、ルルゥにはあまり見せたくないことをするから」

 夏だというのに、奇妙に冷たい風が吹きシーナの金色の髪が吹き上げられる。

 ヴォルフリートは彼女に塔の周りを見渡すよう促した。そこにはいつものように青く光る巨大な輪がある。

「ルルゥはあれを『びりびり』って呼んでるけど」

 ヴォルフリートは確かに悪意を感じる微笑を浮かべた。

「何だかわかる?」

「わからない」

「あれは魔法円だよ。魔法円って知ってる?」

「…?」

「不思議な力の干渉を遮ったり魔力のある生きものを入ってこないようにしたり、閉じ込めたりするための魔法の模様だよ。このタイプのは一度完成すると、特別な手順で破られたりしない限り永久に存在し続けるんだ」

 どのような手段を使ったのかは定かでないが、古の人間たちは常世の存在と様々な誓約を取り交わした。

 その取決めに則った幾何学図形や文字の組み合わせがある日突如出現し、ここはルルゥを囲う見えない鳥籠となった。

 普通に聞けば、笑い出したくなるような青臭いオカルティズムに満ちた言葉。

 しかし、彼らがここにいること、そしてシーナの眼に起きたことが、この馬鹿馬鹿しいものが人智の及ばぬ力を持つことを証明していた。

 ただ、シーナはヴォルフリートの言葉がどういう意味を持つのか、理解できなかった。

「それがどうしてここに?」

「ルルゥを捕まえておくために、僕が作った」

「捕まえる? ルルゥを?」

 シーナはやはり腑に落ちない表情を浮かべている。

「ルルゥは人に自由に触れられる。だけど人はルルゥが認めた時にしか触れさせてもらえない。それは知ってるよね?」

 先日、ルルゥがヴォルフリートに気をとられているときに、彼女に触れようとしてあの空を切った自分の手を思いだし、シーナは小さく頷いた。

「……うん」

「僕は自由にルルゥに触れるためだけに人間じゃないものになったよ」

 その言葉には、お前にはここまで出来まい、というひどく方向性のずれた優越感が滲んでいた。

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