五話 笑み

『それから次の冬が訪れるまでのお話は、何もございません。

ただ、何もない日々だけがございました。


それでも、また冬が訪れた頃に私はこの山へ戻っておりました。

理由は自分でも分かりません。自然と足が向いてしまったのでございます。


もはや貴方様の前に姿を現そうなどとは全く考えませんでした。

時折山の中へ入ってこられる貴方様の影を、貴方様の家の方で立ち上る煙を、遠くからそっと眺めるだけで充分でございました。

奥様と、もうお生まれになったであろうお子様に寄り添う貴方様の幸せな姿を思い浮かべるだけで、私の胸は一杯でございました。



そんな穏やかな日々の、ある日の事でした。

暖かな昼下がりに、私は小川の流れを覗き込んでおりました。小川の縁を覆う氷は飛沫によって濡れ、陽射しを受けてきらきらと輝いておりました。

それをぼんやりと見つめていた時、ふと、貴方様が現れました。


普段であればもっと早くに気付くのですが、もとより抜け殻の様だった私がその時は特別に呆けていたのでございましょう。

すぐに身を隠し息を潜めたために、幸いにも貴方様に見つかりはいたしませんでした。

ですが胸を撫で下ろすと、今度は少しの欲が湧き上がってまいりました。ほんの少しだけでいいから、貴方様のお顔を見たいと、そう思ったのでございます。


私はこの身を晒さぬよう注意して、そっと貴方様のお姿を覗き見ました。

そしてその瞬間、私はこの目を疑ったのでございます。



久々にお会いした貴方様は、以前とはまるで別人でございました。

痩せた頬、窪んだ眼窩。そしてそこから覗く、光を失った様な瞳。

私は酷く驚きました。そして湧き上がったのは、深い悲しみでした。何が貴方様を、ここまで変えてしまったのだろうと。


私は貴方様の後を追いました。

力無い貴方様の足取りは、追う方が焦らされる様な、なんとも重く遅々としたものでした。

山の中をふらりふらりと歩き回った後、しばらくすると貴方様は山を降りてゆかれました。貴方様の家の方でございました。


帰り着いた貴方は、そのまま家の中へ入ってゆきました。

家の中まで追いかける訳にはいかずそのまま辺りを眺めていた私は、そこである物に気付いたのです。

家の横に、以前にはなかったものがございました。


それは膝丈ほどの高さの石でした。

縦長の石が、地面に突き刺さる様にして立っておりました。

それが何か分からずにいた私は、近づいてみることにいたしました。そこには、何かがある様な気がしたのです。


近づいた石のその元には、からからに干からびた草の束がございました。小さな束と、それよりも更に小さな束の、二つがございました。

それを手に取った時、私は初めて、それが花であった事に気付いたのです。

それが、墓であった事に気付いたのです。

貴方様が私に声をかけられたのは、丁度その時でございました。



それから先は、貴方様もご存知の通りでございます。


愛する者たちへと手向けられた花を奪い返すかのように、貴方様は私の手を掴みました。

ですが貴方様はすぐにその手を離されました。まるで雪のような私の手の冷たさに、さぞ驚かれた事でしょう。

そして、お気づきになったのでありましょう。雪女、と。貴方様の唇が動いたのを、私は確かに見たのでございます。


貴方様の目が大きく見開かれました。

その目は、私が恐れていた物へとどんどん豹変してゆきました。

私を射抜くその瞳に映っていたのは、かつて私が見たどんな人間よりも激しく昏い、絶望と憎悪の炎でございました。

貴方様の全身から力が抜け、がくりと膝をついても、その視線が私を外れる事はございませんでした。


なのに、嗚呼、その視線を受けた私は何故あんな顔をしたのでございましょう。

激しい後悔と罪の意識を感じていたはずなのに、本心は全く別であったのでしょうか。

空席となったその場所に、入り込めるとでも思っていたのでしょうか。

その醜い想いが、思わず笑みとなって溢れたのでしょうか。



そのまま、私はその場を去りました。

背中に突き刺さる貴方様の問いかけに、気付かなかったわけではございません。

ただあの時の私には、この胸を押しつぶす真実をお伝えする高潔さも、後ろ暗い嘘を吐く覚悟もなかったのでございます。



ですが今、あの時お答え出来なかった貴方様の問いに、ようやくお答えいたします。


あの冬、吹き止まぬ吹雪を呼んだのは、確かに私でございます。


貴方様の妻子を凍え死なせたのは、私でございます。


私が、殺したのでございます。』

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