四話 吹雪
『再び貴方様と出会う事のないまま冬が終わり、私はこの地を離れることとなりました。
雪女というものは、冬の終わりとともに誰も立ち入らぬ北の果てへと姿を隠し、再び訪れる冬をひっそりと待つのでございます。
今までであれば、その時間はただ流れゆくだけの無意味なものでした。ですがその年は、狂おしいほどに永く、そして満ち足りた日々でございました。
次にお会いした時は何と声をお掛けしよう。何とお呼びし、どんなお話をしよう。
貴方様は人間だから寒い外ではあまり長くご一緒はできないだろうけど、それでも構わない。人間と雪女。相容れぬ私達が結ばれようだなどと、そんな大それた願いはしない。
ただただ、少しだけでも貴方様のお側にいたい、と。
私はまるで、慎ましやかな幸せを願う無垢な乙女の様でありました。
そんな幸せな想いに浸りながら、私は永い永い時間を待ち続けたのでございます。
そしてようやく、次の冬が訪れました。
私は飛ぶ様な早さでこの山へと戻りましたが、あれほど待ち遠しかった貴方様の元へ向かうことは出来ませんでした。
貴方様にとっての私は、山で見つけた得体も知れぬ娘以外の何者でございましょう。
記憶にないのであればまだ良い方でした。
もし貴方様が私の正体に気付き、他の人間達と同じあの恐ろしい目を私に向けてきたら。
そう思うと私は足が竦み、一歩も動けなくなってしまうのでありました。
怯える胸をなんとか抑えつけられたのは、もう冬も半ばとなった頃であったでしょうか。なんとも晴れやかな日でございました。
ようやく貴方様の暮らす小屋の近くまで寄ることの出来た私はしかし、それでもその戸を叩く事が出来ずにおりました。
このまま待っていれば、貴方様の方から現れてはいただけないか、と。そんな風に思っていたその時、がらりと戸が開かれる音がいたしました。
そこにいたのは、大きくお腹を膨らませた女性でございました。
それは貴方様の、妻であろうお方でした。
私は言葉を失いました。
心臓が早鐘の様に鳴り続け、締め付けられる様でした。
きらきらと白く輝いていた世界が、一転して暗くおどろおどろしい風景に変わり果てた様でした。
息が止まり、身体が凍りついたかの様でした。
女性の後ろから貴方様が現れました。身重の彼女を気遣う貴方様の瞳は、かつて私へ向けていただいたものよりも、何倍も何倍も、愛に満ち溢れたたものでございました。
二人が再び家の中へ戻るまで、私は動く事も、その光景から目を逸らす事すらも出来ませんでした。
どれほどその場で凍りついていた事でしょう。
ふいに我に返った私は、まるで恐ろしい化け物から逃れる様な気持ちでその場から逃げ出しました。
貴方様のお側には、私の居場所など少しも存在しなかったのです。
些細な望みのつもりで私が描いた光景は、到底手に入る筈もない泡沫の夢なのでございました。
それを事もあろうに私は、既に手に入れたかの様な錯覚をしていたのでございます。
お側にいて、少しお話をしたい。
ささやかにな様なその願いの本質は、貴方様の側に私の他は誰にも寄らせない事でございました。化け物の私が、貴方様を独占する事でございました。
私は気付かぬ内にそんな身勝手な望みを、厚かましく愚かしい願いを押し付けようとしていたのでございます。
私は泣きました。
ただひたすらに、狂ったように。
涙は雪となり、叫び声は風となり、悲しみと嘆きは全てを凍てつかせました。
荒れ狂う吹雪の中心で、私は幾日も幾日もそうしておりました。
そのままどの位の時間が経っていたのか、定かではありません。涙が枯れる頃にはもう冬は終わりかけておりました。
もうこの地を離れなくてはならない頃でした。疲れ切っていた私にはそれは救いでございました。
貴方様とお会いする事も出来ず、私は元いた遠き場所へと帰ってゆきました。
もう二度とお会いする事はないだろうと、思っておりました。』
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