三話 恋
『貴方様に初めてお会いした三年前のあの日、私は特になすこともなく山中を歩き回っておりました。
ちょうど今頃と同じ冬の終わりに、この雪景色を見納めておこうと、その様な事を考えていたのだったと思います。私は雪の上に倒れ込み、雪化粧をした木々に囲まれる空をぼんやりと眺めながら、ついうとうとと眠りに落ちかけておりました。
貴方様が現れたのは、そんな時でございました。
視線がぶつかった瞬間、私は慌て、すぐに逃げだそうといたしました。私と出会った人間は皆、恐ろしい目で私を傷つける事を知っていたからです。
しかし、貴方様の目は違いました。貴方様が慌てふためながら私に向ける目は、私が初めて見る優しいものでございました。
私の手を取った貴方様が何か言っておられる事は分かっておりましたが、その瞳に心を奪われた私に言葉は届かず、気がつけば私は貴方様の背に負われて山を下っておりました。
それはまるで大樹の幹に寄り添ったような、心地よい時間でありました。
それまでの私の生の中で、もっとも安らいだ時間でありました。
貴方様に背負われた理由に気づいたのは、私が貴方様の家へと運び込まれ、囲炉裏の前に座らされて布団を被せられてからでした。
今暖かくするからそこで待っておれ、と言う貴方様の言葉に、行き倒れ凍えていたと勘違いされた事を知ったのです。
実際にはただ横になっていただけなのですが、そう捉えられるのも無理からぬ事でございましょう。私の手を取った貴方様が、なんと冷たい手だ、と呟いた事を私はようやく思い出しておりました。
そして貴方様の知る通り、事態を理解した私は貴方様を目を盗んでひっそりとその場を離れたのでございます。
行き倒れたと思っていた娘が少し目を離した隙に消え失せ、貴方様は大変驚かれた事でしょう。
お心遣いのお礼も言えずに姿を消した事、申し訳なく思っております。
ですがあの時は、そういった事に考えを巡らせる余裕がなかったのでございます。私には直ぐにその場を離れなくては行けない理由がございました。
貴方様が取った私の手は、まるで雪の様に冷たかったことでしょう。それは決して凍えていたからではございません。
私は、雪女。
雪により成り、雪を呼ぶ、人外のものにございます。
あのまま火にあたり続けておりますれば、この身はすぐに溶け果てていたことでしょう。さりとてこの正体を明かして貴方様を脅かすことも私の望む所ではありませんでした。
私にできることは、何も告げずにその場を去る事だけだったのでございます。
貴方様の家を抜け出した私は、それから毎日貴方様の事を考える様になりました。
貴方様を想うだけで胸が熱くなる心地でございました。その熱に身体が溶かされてしまうのではないかと思ったほどです。
私は貴方様に、恋をしたのでございます。
そしてそれが、全ての間違いの始まりでありした。』
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