第7話 兎、時計を睨みつける

 兎月はその日、朝から時計をチラチラと気にしていた。

 なぜなら待ちに待った映画の試写会の日だからだ。

 しかもサプライズで舞台挨拶まであるとの情報もゲットした。

 なので映画は普段真ん中辺りの席で見るのだが、絶対最前列に座ってやると意気込んでいた。

 だから何としてでも定時で退社し、映画館へ直行したいのだ。


 そうしていいよ、と課長の鮫島と先輩の烏丸に言われてはいるが、やはり皆が仕事をしている中、心苦しいという気持ちはある。

 だから出来得る限り仕事は片付けたいと思っている。

 理想は差し替え待ちの状態で「すみませぇん、お先に失礼しまぁす」と帰りたいのだ。


【差し替え】かなりざっくり雑に言うと、主に地方ローカル局では東京のキー局、いわゆる全国ネット局の番組内のCMを地方に沿ったものに変える作業。

例えば某電話の東日本バージョンを西日本バージョンに変えるなど。

通常、広告代理店からどの番組のどのCMをどの素材に差し替えるかという指示は事前に来ているが、番組内のどの部分にそのCMが並ぶかはキー局の作業次第。

故にその指示が来るのは大抵遅いので指示待ちで残業することも多々。


亀丸かめ、お前今日差し替え担当な。それと今日は早めにチェックして展開流すぞ」


 烏丸も今日は兎月の為にと早めに亀丸に指示を出す。

 が、当の亀丸は「えっ?」と声を上げた。

「今日は兎月さんがファイリングだろ? 量も結構あるから戻って来て皆でチェックしてたら遅くなるじゃん。この量だと四時までかかるかもしれないしさ」

「そんなにかかりますかね?」

「長尺が五本もあるんだぞ? それに戻って来てから打ち込みもあるんだから展開チェックしてもらうよりスケ表捌いたりしてもらう方がいいだろ」

「うーん、まぁ、そうですね」

 いささか納得いかない様子で亀丸は頷いてマウスを動かし始めた。

 その亀丸を烏丸は軽く小突く。

「おい。だから割付より先に枠内しろって。お前が枠内やってる間に俺がやっとくから。午後ひるイチでお前は縛りとテレコのチェック、俺はタイムのチェックをするから」


 そんな会話が為されている間、兎月は自分の仕事をしながら心の中で毒を吐き続けていた。


 バッカじゃないの?

 仕事の計画性ってのがなさすぎなんじゃ、ボケ。

 段取りってものが未だに理解できてないってどゆこと?

 自分の仕事のペースも時間配分もなぁんにも分かってない。

 私が今日どんだけ楽しみにしてるか、あんたは全く分かってないし、分かろうともしてない。

 いっつも自分のことだけ。

 周りが見えてなさすぎなんだよ。

 何にどれくらい時間がかかるかとか、自分がこの仕事をどれだけの時間でできるかって計ったことないじゃろ?

 普通は計って自分の中で平均どれくらいでできるっていう基準を持ってやってんだよ。

 何時までにこの仕事を終わらせようとか、常に目標立ててやってんだよ。

 そんなこと全くやってないからどんどん残業するようになるんじゃん。

 だからいっつも私は定時で帰れないんじゃん。

 前回も私の楽しみを奪ったんだからね。

 今回もまた奪ったら絶対許さへんぞ、ワレ。


 徐々にマウスを握る手に力が入り、時計を睨みつける目が鋭くきつくなっていく。

 そんな兎月を知ってか知らずか、亀丸はのほほんとカッチカッチ、マウスをゆっくり動かしていた。


【ファイリング】専用の部屋でCMバンクという機械に搬入されたCM素材を取り込む作業。

実際にモニターでCMをプレビューしながら映像・音声・内容・スーパー・コメントなど技術的、営業的、考査的にチェックする為、取り込む際と取り込んだ後の最低二回ずつ同じCMを見る。

兎月が働く職場ではCMを取り込む際に機械を操作するのは専門のパート職員、シマさんが担当し、チェックする側はCM班がローテーションで担当している。

午前中にファイリングする為のデータ登録を行い、午後からファイリング作業となっている。


「お疲れ様です。シマさぁん、聞いてくださぁい」


 午後、CMバンクに入るなり兎月は頬を膨らませた。


「お疲れぇ。どうした、ウサちゃん? またカメくんの話?」

 シマさんはそう言ってテキパキと仕事の準備をしながら苦笑した。

 兎月にとってこのシマさんは良き先輩であると同時に姉のような存在でもある。

 いや、母親のような存在かもしれない。


「お、今日は長尺がいっぱいあるねぇ。こりゃ愚痴る気満々だね?」

「それは偶々ですぅ。でも満々ですっ」

「ははっ。やっぱりぃ。で、今日はまた何やらかしたの、あいつ」

「仕事が遅いんですぅ」

「カメだからねぇ。名前に違わずってところが凄いよね」

「私ぃ、今日ずっと楽しみにしてた試写会に行くんですぅ」

「ああ、あれ今日かぁ。ずっと行きたいって言ってたもんね。そりゃ、益々イライラするねぇ」

「そうなんですぅ。烏丸さんも鮫島課長も定時で上がっていいよって言ってくださってるんですけど、やっぱりちゃんと終わらせて帰りたいじゃないですかぁ。でもでもカメのせいでもう既に遅くなりそうなんですぅ」

 兎月はシマさんの前限定で亀丸のことを『カメ』と呼んでいる。


「そりゃ仕方ないよ、カメくんだもん。烏丸さんもそこは諦めて彼の分も仕事してるでしょ? どうやったら少しでも早く終わるか、何を指示しとけばそこだけはきちっとやってくれるか。それを考えて動いてるもんね。ウサちゃんも諦めて頑張れ」

「えー? でも烏丸さんにとってカメは後輩だけど、私にとっては先輩だもん。自分より給料多く貰ってる人の分まで働くのはちょっと……」

「ははっ。確かにそれは思っちゃうよね。でもさ、自分の仕事だけじゃなくて人の分まで考えながら仕事すると、結構いい勉強になるし経験にもなるよ。それに周りはそういうとこ、意外と見てるからね。評価してくれる人は必ずいると思うわよ?」

「じゃあカメより給料上げてください。そしたら頑張れますっ」

「それは私に言っても無駄よ。私はただのパートですもの。それよりちゃんとCMも見てね。今の日付見逃したでしょ?」


 シマさんはデキる先輩だ。

 お喋りに夢中になってしまう兎月と違って、お喋りをしながらも仕事に手を抜かない。


 自分もカメになっていることに気づいて、兎月はヤバイヤバイ、と己を戒めた。

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