第2話 海繍

 海繍


伴左衛門は、母の胎内へ戻ったように思えた。

自分の体が心地よく揺らいでいる。あたりは暗闇だがキラキラと光ものが飛ぶように右往左往している。

「ああ、オレは死んだんだ。そしておふくろのもとへもどったんだ」

頬にばしゃりと水がうつ。

「おーい!でいじょうぶかー!」

棒で腰の付近をつつかれたような気がしたがわからない。

「おっ、えけてるか、引き上げるぞ」

急に背中を掴まれた。

「腹さ、押せ」

すると、伴左衛門は水を吐き出して激しくむせた。

「うっ、げふぉ、うっ」

「おっ、吹き返しよった」

頭が痛い。すごく体が重い。

「オレは死ななかったんだ」

と伴左衛門はその時思った。


伴左衛門は、品川宿近くの海岸で漁師をしていた。両親を幼い時にはやり病で失い、母の妹に引き取られて育った。叔母の夫について漁を手伝い、今は小屋を持ち独り立ちしていた。「そろそろ嫁でもとったらどうだ」

と叔母は心配して会うたび言うが、伴左衛門は自分がまだ未熟で女房や子どもを養える身分ではないと考え叔母の誘いは断った。


伴左衛門は子ども好きで、浜で暇を見つけては近所の子どもの遊び相手をした。幼い頃に自分が両親を失っているだけに小さい子どもを見ると、いっしょに遊んだり、時には飯の世話もみた。自然、子供たちは伴左衛門になつき、伴左衛門の小屋へ集まり、成長するといっしょに漁へ出かけた。伴左衛門は「少しくらい波が荒い方が豊漁だ」といって漁へ出た。若者も伴左衛門に負けまいと追うように出漁し浜はにぎわった。そして、いつしか伴左衛門は若者衆のまとめ役になっていた。


天文18年4月14日、伊豆から相模、武蔵、下総、甲斐一帯を襲ったないゆりは海繍を引き起こした。地震の直後に各地の沿岸に津波が押し寄せたのである。品川も例外ではなかった。


地響きで目を覚ました伴左衛門は、家の下敷きになった。家と言っても粗末な掘っ立て小屋だったのがさいわいして、隙間から辛うじて抜け出せた。伴左衛門は、近くの家で閉じ込められた老人や下敷きになった女子どもを救い出し、若者衆らにかつがせ近くの丘まで避難させた。

「あっ、おばさん大丈夫か」

叔母がいないことに気が付いた伴左衛門は、宿場へ戻って叔母を探した。まだ暗闇で人影が辛うじて見えた。

「すみおばさん!」

夢中で叫びながら人影に近づいた時だった。

「おお、海繍が来たぞう、丘さあがれぇー」

という悲鳴に近い声を聴いた、その直後だった。松林の向こうから「ドォーっ」という大音響とともに沿岸に沿うように大きな大きな海の山が走ってきておのれに襲いかかってきた。

「わっー」と絶叫したとたんに地面にたたきつけられ体がくるくると回っていった。そのあとは記憶にない。

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