ないゆり
@wada2263
第1話 ないゆり
ないゆり
この冬は暖冬で、桜はいつもより早く咲き散ったのも早かった。多摩川には鮎が盛んに跳ね銀色のうろこをかがやかしている。
川の向こうに相模から武蔵を見守るように富士山がそびえているのがみえる。
手前にある山は、富士山の弟といわれる雨乞いの大山だ。
丹沢から多摩を経て秩父、そして上野、さらに下野の山々、筑波山までぐるりと望み、品川湊越しに房総半島まで見渡すことができた。
野毛の大塚に上ると、勢九郎は関東の主になった気分になれた。
「おれ様は国守だ、紗良はお方様じゃの」
大塚の上で紗良とともに勢九郎は月を愛でていた。
暗闇の中、月の明かりに色白い紗良の顔が浮かび上がってくる。紗良は勢九郎の手を取り自分の胸に引き寄せた。
勢九郎は紗良の腰に手をまわし抱き寄せると唇を頬へ寄せた。
「知っておるか紗良、この大塚に眠るお方を。その昔、大和の国の侍大将まで上り詰めたおなご武者だったそうだ」
「そうなんですか」
勢九郎は父から大塚にまつわる伝説をたびたび聴いていた。
「嫉妬深いおなご武者はの、浮気をしたお気に入りの歩兵の長とおなごを一突きで殺したそうだ。こうして男女が逢瀬を楽しんでいると、憑りついて気を狂わすそうだぞ。そなたのようなやきもちやきのおなごだったんじゃろうな」
といいながら紗良の胸をやさしくまさぐった。
「勢九郎様がほかのおなごと楽しんだら、紗良は、ううん」
と少し息を荒くし体を勢九郎にゆだねた。勢九郎が紗良を押し倒そうとしたときだった。
突然、大地が突きあがってきた。
「おっ、なにごとじゃ」
「きゃー」
紗良も叫び声を上げて勢九郎にしがみつく。
勢九郎は腰を下ろしたまま、下になった紗良を抱きしめた。激しい縦揺れのあと、今度は大きな横揺れがあり、周囲の林が大きくざわつき、月はまるで狐が踊っているように見えた。丸い石がガラガラと音を立てて落ちていく。
「祟りでござりまする。勢九郎様」
「おお、だいじょうぶか、しがみついておれ。いつまでゆれるのじゃ」
すると、大塚のてっぺんが大きく隆起して割れた。そこには一丈もあろうかという一枚岩が出現した。
「ひぃー!大塚様の祟りじゃ」
と紗良は叫んで気を失った。
勢九郎も度肝を抜かれた。
「大変なことになった」
我に返った勢九郎は、紗良を背中にしょって逃げるように大塚を下り等々力の屋敷へと走って帰った。屋敷はさいわい立っていた。門と二つあった小屋、釣瓶のある井戸は屋根ごと折れて潰れていた。
庭に腰を落とし莚の上に紗良を横たえ介抱していると、白々と夜が明けてきた。
「大きなないゆりだったのう。こわかったであろう、紗良」
大泣きする紗良を勢九郎抱きしめながらつぶやいた。
天文18年4月14日夜半に起きた「ないゆり」は、武蔵を初め伊豆、相模、甲斐、下総、上総一帯を大きく揺るがしたのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます