第一章
あなたを見守る星のように I
「王法一条、六条、十三条の違反より貴方の身柄を拘束します。貴方には公正な裁判を受ける権利があります。しかし逃走及び攻撃等で捜査官の任務を妨害した場合は、その時点を以って特別制圧対象となる可能性があります。では、手を頭の後ろで組み、地面に伏せてください」
「うるせえ! うるせえ、うるせえ、うるせぇ!」
「手を頭の後ろで組み、地面にゆっくり伏せてください」
「何なんだよお前ら! 俺は何もしてねぇ!」
「何もしてないことはないでしょーよ。被害者がいるよ? 目撃者も。言い逃れできる状況じゃないですよ。はい、頭の後ろで手を……」
「このッ…! ちくしょうが!」
「あっ、」
小太りな男の情けない狼狽が、テ・ルーナ王国の夜のしじまを破壊した。街の中央にある広場には背の高い時計があり、短針はちょうど三の数字を指し示している。広場付近の宿屋の二階に並んだ小さな窓のいくつかが明るくなった。店じまいを終えたはずの商店にも明かりが灯る。
小太りな男は灯りのアーチをくぐるように、街の外を目指して走り出した。その醜い走りに、舌打ちを漏らす青年が、ひとり。
「……手を頭の後ろで組み、地面に伏せてください」
何度目かの同じ言葉、同じ台詞。青年はまるで自身に言い聞かせるように呟いた。絶対に男には届かない声量で。そうして顎を、革の手袋を纏った右手で撫でる。その神経質そうな様子を見て、キョーコは少し彼を怖いと思った。
青年は全身が黒かった。
「ニコーレ」
キョーコがそんなことを考えていると、青年は女性を呼んだ。キョーコの左隣にいる美しい女性、ニコーレと呼ばれた彼女は青年に向き合う。
「対象は
ニコーレは青年からの質問を予め知っていたかのようにスラスラと返事をした。答えを聞いた青年がまた顎を触る。癖なのだろうか。
「話し合いは難しそうな様子だったな。仕方ねぇ、奴を特別制圧対象に指定。ローレンス、ひとまずお前が捕まえておいてくれ。俺たちは後から合流して、その時対応を考える」
「了解。もう行っていい?」
「まだだ。俺が合図してから行ってくれ」
キョーコの正面。背の高い金髪の美青年、ローレンスは簡潔に応えた。黒髪の青年が『夜』なら、ローレンスは『月』だ。真夜中でも眩しい金髪と、整い過ぎた顔立ちは見る人の目を眩ませる。
「それにしてもお粗末な【ギャブリエル】だねぇ。あれで走ってるつもりなのかな? もうちょっと痩せた方がいいと思うなぁ」
柔らかい微笑みと共にローレンスは刺々しい言の葉で逃げた男をなじった。甘いマスクと辛辣な物言いのアンバランスさが異様である。キョーコはこっそりと彼から一歩遠ざかる。彼女は今まさに
「キョーコさん、容疑者が逃走したので現時点を以って彼を特別制圧対象に指定します。制圧対象指定をするってのはつまり、俺たちから攻撃を積極的に仕掛けるってことです」
「は、はい!」
ローレンスがニコーレに対象の位置を確認している横で、キョーコは背筋を伸ばした。どうしても彼に声をかけられると緊張してしまう。
黒い出で立ちに加え、カラスのような鋭い眼光、低く乾いた重圧的な声、仁王像が如く構えるどっしりとした立ち姿。
アルヴィン・ケンドリュー。
彼がメッセージカードの送り主であり、キョーコの実地訓練先担当教官であった。
見知らぬ男に乱暴された女性からの通報をサテライト特別捜査隊が受けたのは約一時間前。男の風貌や手口、そして使用された
「テ・ルーナでは
「こ、この国が世界最大のヨーサリ保護特区だからです! 『
「うん。
正解、とアルヴィンはキョーコを褒めた。それでもキョーコは未だに声が上擦るのを止められない。
アルヴィンは隊員のニコーレやローレンスと話す時とキョーコと話す時では口調に違いがある。アルヴィンなりに自分を気遣った話し方なのだろうとキョーコは理解している。しかし石のような口調に気後れせざるを得なかった。彼が口を開くたび、キョーコの背中には針金が垂直に刺さる。故にキョーコは聞けるわけがなかった。犯人を追わなくていいんですか、とは。
広場で犯人の逃走を許してから長くはなくとも短くはない時間が過ぎていた。犯人が駅に到達するまでおよそ三分だとニコーレは推察している。キョーコは広場の時計を視界の端でこっそりと捉えた。やはり古びた時計の長針はあと少しで『駅』に到着しそうである。
「大丈夫。きちんと思い知らせてやるから」
確かに盗み見たはずだった。しかし彼はキョーコの針を追う視線に気づいていた。
「ニコーレ、奴はもう駅に着くか?」
「うん! もうそろそろ! これ以上離れると私の
「よし。いいタイミングだ。ローレンス、頼む」
「了解!」
「キョーコさん!」
「は、はい!」
冷たい風が男の髪を弄ぶ。精悍な顔だ。真面目で凛々しい青年隊長に相応しい正義の
「この仕事で一番大切なのは、
「は、い」
「だから奴を精神的に制圧します」
まるで別人だ。先程まで黒に染まっていた男が、赤く燃えている。
小さく、静かに。けれども旗を掲げるように高々と。彼は彼の信念を伝えると黒いコートを
サテライト特別捜査隊に犯人を裁く権利はない。あるのは拘束と制圧の権限だけだ。しかしこれから彼は、彼なりのやり方で犯人を『厳罰に処す』のだろう。
閻魔様みたいだ、とキョーコは思った。やはり少し怖い。けれども。
世界最大規模のヨーサリ保護特区、テ・ルーナ王国。その国を守る者の中でも選りすぐりが集う特別捜査隊。そんな彼らの仕事ぶりを間近で見られる機会は滅多にない。キョーコは拳を強く握った。研修中の身ではあるが自分も今はその一員である。
闇夜のカラス達は月の光を頼りに、暗い街中を駆けて行く。街中の灯りは少しずつ消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます