ヴァレンタインのあなたへ
ヨーサリは夜の人
遠い月、母のこども
密やかな寒い夜の香り
「この詩、とても好きなんです」
天井から吊るされた白熱灯がまるで月明かりのように柔く詩集を照らす。本物の月明かりはガラス窓から朧げに差し込んではいるが、白熱灯の明るさに溶け込んでしまった。
「昔お会いしたヨーサリは本当に夜の匂いがしたんです。寒い、寒い、夜の」
ページをめくる微かな音は、足音や椅子を引く音、咳払いによってかき消される。午後十一時を過ぎた頃だというのに王立図書館は多くの利用者で賑わっていた。長椅子に腰掛け、詩集を読む若い女性は過去の思い出に目を細める。
「私の国でもこの詩集は翻訳されているんですよ。学校でも音読させられるんです。流行りましたよ、ヨーサリごっこ。魔法使いの真似。だから本物を見た時は感動したなぁ」
ひとつに結ばれている豊かな黒髪はまるで馬の尻尾だ。懐かしさを噛みしめる彼女の尻尾は時折軽やかに揺れる。図書館の静寂を殺さない、穏やかなソプラノで黒髪の彼女は言葉を続けた。
そんな自分がヨーサリだなんて、と。
長机を挟んで彼女の正面に座っているのは、彼女よりも少しばかり幼く見える学生であった。学生は彼女の台詞を肯定も否定もせずに受け止める。ふたりは初対面だが、それを知る人はこの図書館にいない。
「私の国、
若い女性は大人しそうな外見を裏切り、無邪気な笑顔を披露する。困ったような台詞のくせに顔は困っていない。頭をかきながらはにかむ彼女につられ、学生もうっすらと微笑んだ。
この世には『ヨーサリ』と呼ばれる夜の人が生き、芽吹いている。
『ヨーサリ』とは人智の及ばぬ術を使う怪しき夜の人を意味する。
彼らが王国を持ち、世界各国の保護特区で人並みの暮らしを送る昨今では時代遅れの表現かもしれないが、確かに昔はそう定義されていた。
魔法使い、魔術師、魔道士。彼らを指す言葉はいくらでもある。しかし彼らは『ヨーサリ』と呼ばれ、名乗った。畏怖と羨望を植え付ける美しい響きは、最早世界に溶け込む疑いようのない種族名となっている。
「ヨーサリに突然なっただけでなく、
若い女性は詩集を適当にめくり、手を休める。数分前、彼女が自分に話しかけてきた理由を学生は何となく察した。不安なのだろうと。
テ・ルーナ王国は世界最大のヨーサリ保護特区である。ヨーサリ以外も居住してはいるが、国民の六割強がヨーサリとして暮らしている。広大な土地と栄えた都市、整った法規定に就職先。観光業にも力を入れるテ・ルーナ王国をヨーサリの楽園と言う者もいる。それ故にこの国には世界各地からヨーサリが集まってくるのだ。様々な問題を抱えて。彼女もまたそのような状況なのだろう。この国ではまだ珍しい黒髪を見つめながら学生はそう思った。
「
投げかけられた台詞に若い女性は少し驚いた。人形のような学生が初めてはっきりと喋ったからだ。
「あ、でも一応実地訓練先も決まったんです。これをクリアすればやっと国に帰れます。
若い女性は一枚の紙を学生の前に差し出す。黒い封筒とのコントラストが美しい真っ白な書類だ。そこには小さな文字で彼女の今後のスケジュールが記載されていた。
途中まで目を通した学生は、先を読んでいいものか少し悩む。学生が視線を若い女性に向けると、彼女は意図を汲み、大丈夫ですと先を進めた。
「就職するわけではありません。職場体験みたいなものだそうです。家族や友人に見せても問題ないと言われましたから」
家族も友人もテ・ルーナにはいない、と寂しげに囁く若い女性に促され、学生は書類の文字をゆっくりと追う。そこにはこの国に住む者なら誰もが知っている部隊の名が記載されていた。
【所属】サテライト特別捜査隊
【日程】三月一日より三ヶ月間
【備考】本訓練終了後に訓育終了証を交付する
「正直、不安で不安で仕方ないんです。だから今夜も図書館で色々調べちゃって……」
若い女性は学生の前で初めて笑顔を崩した。
詩集以外に積まれた数冊の本のタイトルには全て『基礎』や『基本』の文字が含まれている。特別捜査隊の歴史や任務内容、ヨーサリの人体構造、
若い女性は書類を元からついていた折り目に従って丁寧に畳み、封筒にしまう。そして書類と交代で今度はメッセージカードを取り出した。白い型紙に黒の縁模様が施された無機質なカードだ。角ばった字でメッセージが書かれている。右下には名前も添えられていた。
学生はその名前をジッと見つめる。
ただただ、ジッと。
「若い方だということだけは伺ったんですが、
「……ごめんなさい、分からないです」
「やっ、いえいえ、すみません。ありがとうございます」
女性が
「歳の近いヨーサリと話せて良かったです」
こちらこそ、という学生の台詞とともにふたりは席を立ち、握手をする。軽い会釈の後、若い女性は本を戻しに本棚に向かった。何となく振り返って長机を見てみたが、そこにはもう学生の姿はなかった。
図書館を後にするヨーサリたちに紛れながら、女性はポケットの中を探る。しまったばかりのそれが指に触れたので取り出した。
【訓練、頑張ろう。キョーコさんを歓迎します!
担当教官・アルヴィンより】
「怖い人じゃないといいな。この人……」
図書館を出てふと夜空を見上げると月はなく、雲に隠れていた。黒髪の女性、キョーコは大きく深呼吸をする。冷たい空気が鼻を抜け肺を満たしてくれた。
月の香り、夜の香り。この国は至る所からヨーサリの香りがする。自分からも寒い夜の香りがするのだろうか。キョーコはコートの袖を嗅ぐが、自分では分からない。寒さに鼻をすすりながら、キョーコは寮へ向け一歩を踏み出した。
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