[五]

倖希は、お花を摘みに行ってきますわと、至極お上品に言いそのまま車両を通り過ぎて行く初希の後姿を送り届けた後、部屋の中に入りコンビニ袋を拡げたのであるが、こんな時間にお菓子はあまりよろしく無いだろうと思ってお酒だけを取り出し、一人ベッドの上に座って移ろいで行く景色を、どことなく物足りなさを感じながら見ていた。だがちょっとすると明かりがうるさくなってきたので、一口お酒を口に含んでから窓辺にその瓶を置き、電灯を消して再びあぐらをかいたところで、ゴロゴロ……、と重い音を立てながら扉が開いた。

「おにいちゃん?」

「あっ、ごめん。今点け直すから」

「いや、大丈夫大丈夫。―――それにしても、いいね、やっぱり」

「だよね。―――」

初希は部屋へ入ってきた時こそゴソゴソと自分の荷物を漁っていたものの、しばらくして用が済んだのか靴を脱いで倖希の真横に座り、少々ずり落ちていた眼鏡を指で上げるとさらに彼の元へすり寄った。そして倖希の差し出した手をそっと取って、肩に頭を乗せ体を預けると、それに呼応してなのかこちらの手を握ってくる力が微かに強くなり、続いて向こうからも気持ち程度に体重をこちらにかけてくる。が、本当に気持ち程度なので、昔みたいに甘えていいんだよと声に出す代わりに、ぐしぐしと頭をその首元に押し付けてやる。するとしばらくは鬱陶しそうにしていたが、ようやくダラリとその体をこちらに預けてきてくれるようになったので、ふ、ふ……と、ちょっと笑ってから兄が見ているであろう寂しく道路を照らしている街灯を眺め初めた。そうやって、二人の兄妹は互いに言葉も交わしていないのにも関わらず、まるで示し合わせたかのように肩を並べ合い手を取り合い体を支え合い、二人して二人とも明かりが少くなり行く夜景を、どこか儚げな表情で見つめるのである。

京都を抜けたばかりなので、明かりはまだぼうぼうとしているにはしているものの、時刻はもう午前二時を回っているために、目に見える民家はもぬけの殻のように真暗で、四車線ある広い道路もたまに通る車の光が賑やかなほど静まり返っており、倖希はまるで人が突然居なくなった後の世界のようだと、またもやワクワクしかけたのであったが、やはり虚しい。ラウンジに居た時までは京都市内を駆け抜けているせいもあって、窓から外を眺めると高い建物がそびえていたり、車も信号待ちで並ぶほど居たり、それに人の歩く姿も時たま見えていたのに、急に物寂しくなったものである。トイレに行くまでは兄にああだこうだと言っていた初希も、さすがに口を閉じて流れて行く景色を見守っている。彼女もまた、この光が無くなっていく様子を見て何かを感じ空想に耽っているのであろうか、それともぼんやりとただこの物寂しさに心を任せているのであろうか。兄である自分が想像するに恐らく後者であろうと思うが、しかしそれにしても得も言われぬ美しい横顔である。時折窓から入ってくる光にぼんやり照らされて輪郭はあいまいになり、目のまぶたや鼻の頭やなだらかな頬の山によってところどころ深い闇が出来、その闇の〝つや〟となめらかな白い肌とが見事に調和し、――なるほどこれが陰翳いんえいの美しさというものなのであろう。恐らく昼間の明るさではこうは見えまい。彼女の顔立ちは決して派手とは言えないが、その肌ははなはだ陶器のように光を跳ね返すほどの色艶を持っており、人によっては好きと言うかもしれないけれども、自分には少々眩しすぎると思っていた。だがこうして闇に溶け込ますと余計なものが全て削ぎ落とされ、こちらが見ていることに気が付き恥ずかしそうに笑う表情すら、今では閑寂のうちに活けられた慎ましい花のよう。自分は彼女の美しさというものを分かっているつもりであったが、上辺だけを攫っていたのかもしれない。―――

と、倖希は三度、妹の顔を見て惚れ惚れとしていたのであるが、そのうちに妙な懐かしさを感じる取るとそちらにすっかり気を取られてしまった。眼の前に居る少女はそこに居るだけで目を奪われてしまうほど美しいのに、なぜかその過去の姿がチラついて仕方がない。どうしてこんなにも気になるのであろう。初希とこうして一緒に静かに何も声を出さずじっとして体を寄せ合ったことなんていくらでもあるのに、なぜこんなにもあの、五六年前のとある冬の日、――もう記憶もおぼろげなあの日、田舎にある祖母の家へ遊びに行った、あの日のことを思い出してしまうのであろう。その時自分はさつま芋を焼こうと、その辺りから適当に拾ってきた落ち葉や木の枝や竹の幹などをちょっとした山にして、その中にアルミホイルで包んだ芋を放り込んで、火を点けて、ゴロゴロと転がしてきた丸太に座って、…………たかどうかは忘れたがとにかく何かに座って、ひっそり山の中で、夕焼けに照らされる木々を目の隅に留めつつまだまだ生まれたばかりの小さな炎を見ていた。――あゝ、思い出してきた。確か、焼き芋焼こう焼こうと言ってきたご本人様は、そうやって火を点けてから案外すぐにやって来たのだけれども、一言二言話しているうちにとうとう歩くのも危ないほど辺りが暗くなってきた上、風でなびいた竹や木がさわさわ言い出したので、ひどく怖がるようになってしまったのだった。何せあの辺りは「出る」という話を前の晩に聞かされていたのである、いくら冗談めかして言われてもいつ木の陰からぬうっと出てくるのか分からない。だからあの時は自分も怖くなってきて立ち上がると、その小さく縮こまってしまった体を後ろから抱きしめてやった。そうして、パチパチと暗闇の中へ飛び散っていく火花を一緒に目で追いかけながら話をして、…………いや、話などしていない。自分たち兄妹は、あのおどろおどろしい闇の中で互いに互いの手を取り合って、ゆらゆらとはためく火の穂をただ眺めていただけだった。会話など無くても、自分たちは相手の手から伝わる力加減や汗や体温などの微妙な違いだけで、お互い何を思っているのか知り得るのだから当然である。そのうちに風が止んでずいぶんと静かになり、恐怖心もそれに次いで紛れていったが、結局手だけは離さなかった。もうその頃になると、炎の中心部分から燃えるものが少なくなり、頬を刺してくる火の温もりもほとんど無くなりはしていたけれども、それに、焚き火の中へ入れていた芋もすっかり煮えきってしまっていたけれども、二人の兄妹はただ静かに、灰になって崩れ行く木々を、心配して様子を見に来た両親が声をかけるまで見つめ続けた。―――まだ彼女の事を本当に「妹」だと思っていた頃の懐かしい記憶である。なぜ、今になって急に。………………

―――あゝ、そうか、だからか。まだ初希とはキスの一つもしていない時に、ちょうど今と同じような面持ちでぼんやりと焚き火を、そして、それによってほのかに照らされた彼女の顔を見守っていたからこんなにも気になったのか。それが今やどうだ。彼女がまだ中学生の時分に求められるがまま誘われるがまま、唇を重ね体を重ねたのをきっかけに、いつか終わらせなければ、いつか終わると知りながら、ぐだぐだと肉体関係が続いてしまっている。これがただの体だけの関係ならば、初希ももう十七歳という年齢なのだから、同じ教室に居る男子でも捕まえて兄の事など忘れることができよう。しかしもうすでに、引き返せぬほど彼女は自分を愛してしまっているし、彼女に負けじと自分も彼女のことを愛してしまっている。その上両親も、息子・娘が夜な夜な猥りがましい行いをしていることに、とっくの昔から気がついているにも関わらず、ただほのめかすだけで何もはっきりと言ってこない。そんなだから背徳感に膝を震わせたあの、―――妹の処女を奪ったあの日の感覚が消え失せるほどに何度も何度も、それこそこの一週間は毎日毎日、いつ誰が見てるのか、自分たちが何をしているのかも忘れて彼女と体を重ねていたのである。

もちろん、初希との関係を終わらせようとしたことなんて何回もあったが、彼女には話を切り出す前の顔つきから分かるのであろう、至極悲しい顔をしてこちらに向き直るので結局言えずじまいに終わり、最近ではもうその気も起きなくなってしまった。どころか、初希への思いが募りに募りすぎて、どうすれば彼女と人生を添い遂げられるのかを真剣に考えるようになってしまった。それは進んではいけない方向に舵を切ったということだけれども、なぜか自分には、止まっていた歯車がぐるぐると回り始めたような、そんな気がしてならない。つまり、間違った道の方が本来選択すべき正しい道だと、今ようやくその道を選んだのだと、自分は思っているようなのである。それでこれまでの半生をよくよく振り返ってみると、自分には彼女との関係を終わらせようという気持ちなど、さらさら無かったとしか言いようがなく、自分がやったことと言えば、そういういい加減な気持ちで別れを切り出したり、思わせぶりな態度を取ったりして、ただ彼女の心を弄んでいただけなのである。結局、初希と離れられないのは他の誰のせいでもなく自分のせいであり、けれどもこのまま共に添い遂げる方が正しい道だと信じて突き進むあたり、この鈍感で外道な男はずっと昔から手遅れだったのであろう。――――だが、終わる。初希との関係は確実に終わる。どれだけ愛し合おうとも、どれだけ手を尽くそうとも、血を分かち合った兄妹なのだからいつかは離れ離れにならなくてはならない。それは兄妹で性行為に至っていたと世に知られ無理やり仲を引き裂かれるか、それとも自然にどちらからともなく離れていくか分からないが、その時は確実に近づいてきている。自分たち兄妹に残された時間はあと僅か数年ほどであろう。血の繋がりがあるだけなのに、たったそれだけなのに、心も体も繋がった今では道行くカップルよりも強く結び付きあっているというのに、兄妹の関係とは余りにも残酷なものである。本来ならば、こうして妹と二人きりで旅行することさえおかしいと思われるのかもしれない。……………

思えばこれまで生きてきて初希以上に気立てよく、一緒に居て心地よく、自分を理解している女性には会ったことがないし、だとしたらこれからも会うことなんて無いのである。今回の帰省、その初日にも実感した。自分が実家の門をくぐったのはちょうど夕食時であったから、お土産をぶんどられるやすぐにテーブルへ座るよう促されたのであるが、なぜかキッチンで料理を用意してくれたのは初希であった。とは言っても彼女は元々よく母親を手伝う子であったので、懐かしい気持ちで食卓に並んでいく生姜焼きや味噌汁、里芋の煮っころがし、そして小松菜とちりめんじゃこの和え物を眺めていた。最後の小松菜は意外であったけれども、どれも自分の好物である。早速いただきますと言い、青々としたネギの乗った味噌汁がたまらない香りを漂わせていたのでお椀を手に取ったところ、初希がエプロンを外しながら先程ぶんどったお土産を片手に隣へ座ってくる。そしてお土産を開けるのかと思いつつ味噌汁をすすっていたら、なぜか畏まった姿勢でこちらをじーっ、と見てくるので何事かと思いこちらからも見つめ返すと、おいしい? と聞いてくるのである。もちろん文句なしに美味しいのでそう返すと、ふにゃりと笑って、よかった、よかった、と言う。そこでようやく、この料理たちが彼女の手によって作られたものだと合点したのであるが、そう気がついて見てみると、なんと細部まで兄好みに仕立てられていたか。それまで飲んでいた味噌汁一つ取っても、自分の好きな薄めの味付けがなされていたし、具には自分の好きな豆腐と油揚げと玉ねぎが、ゴロゴロと自分の好きな大きさになって使われていたし、それに余りにも香りが良いので聞いてみるとしっかり鰹節と昆布から出汁が取られていたし、そもそも先程のネギだって自分がかつてふりかけていた分量と全く一緒なのである。あともう少し述べておくと、あの時出てきた里芋は、先日に自分で食べたいと言っておきながらすっかり忘れていたものなのであるが、彼女はちゃんと憶えて献立に加えてくれたのであろう。結局自分は、ほとんど初めてと言っていい妹の手料理一つですっかり胃袋を鷲掴みにされてしまった。

そう思い出してみると、初希のことを紹介する時には、妹と言うより妻と言った方が正しいのである。先程だって、こちらがコートを脱ごうとするとさりげなく後ろから手を伸ばして来たので、ハンガーのある位置が逆ならばきっとコートを取られ吊りかけられたことだろう。それは事実、十年以上生活を共にしてきたからこそ会得し得た初希の心づかいであろうが、けだしそういう細かい身の回りの世話は長い時間をかけて少しずつ醸成されるものである。もっとも、自分が彼女の事を妻として見るようになったのは目であるから、そういった行動は副次的なものでしか無い。あの目はもうとっくの昔から兄を見るような目ではなく、夫を見つめる新妻のそれであって、殊に矢で射抜かれるような色気があるのである。一体全体いつからそんな目をしてきたのかはもう分からなくなってしまったが、自分が彼女のことを思い初めた頃、------彼女が中学一二生の頃にはすでに、ああいう媚びたような目をしていた。いや、中学生の女の子に、しかも実の妹に恋をするなど存外な変態じゃないかと思われるだろうけれど、初希はその時もう十分人を惚れさせる魅力を備えていたのだから仕方がない。そもそも考えてみると、男は高校生になっても大学生になってもアホはアホのままであるが、女は中学生になる頃にはすっかり色づいているのである。彼女もあんな我儘で自分勝手な性格をしているけれども、案外体の成長は早く、ときどき見ることになった水々しい裸体には今思い出しても心臓が動悸を打ってしまう。そんな女性と当時高校生だった自分がかなりの時間を共にしたのである、こんなことになってしまったのも頷けよう。

ならば今はどうなのかと問われると、それはそれはもう、背も少し高くなって胸も大きくなって顔に深みが出て、―――あゝ、美しい。………………こんな美しい少女を独り占めに出来るなんて自分はなんと幸せ者なのだろう、絶対に離したくない、もういっそのことこのまま駆け落ちしたい。だが、あと一年経てば初希と二人っきりの時間がどっと増えるのだから、今は辛抱しておく方が懸命であろう。センター模試があんまり出来なかったとて、今まで何度もその天才とも言える知力で二年歳の離れた兄を脅かしてきた彼女のことだ、恐らく九割以上を狙っていたのにぴったりだったとか、惜しくも十点二十点足りなかったとか、今ですらそのくらいの学力はあるはずなので、大学へは少なくとも自分より余裕を持って行けてしまうに違いない。そうなればもはやこちらのものである、誰にも邪魔のされない同棲生活をしばらく送ることが出来る。が、その後、つまり、自分が大学を卒業して就職した後はどうなる? 籍を入れられなければ子供も生むことが出来ない上に、異母でも異父でもない実の妹と事実上の夫婦生活を営むなど世の中は許してくれまい。かと言って隠し通すのも、いつ何時ひょっと誰かに手を繋いでいるところを見られるのか分からないし、ひょっと酒の場などで口を滑らせてしまうか分からないし、ひょっと不審な点を怪しまれでもしたら、―――そういう話が好まれる昨今の事情である、一気に付け込まれて初希との関係を暴かれてしまうであろう。そもそも、そんなことを考えながらビクビク怯えて日々を過ごしていると、バレるバレない以前に、夫婦仲に亀裂が走りそうである。ならばむしろ堂々としているのも手かもしれないけれども、どれほど公にすれば自然に見えるのか分からないし、そんなことをして初希を傷つけでもしたら、………と思うと足が止まってしまう。一体どうすれば。…………………

―――だが、そうやって悩むよりは、今は今を目一杯大切に生きるほうが良いのではないだろうか。まだあと数年しか無いとは言え、まだあと数年も残っているのである。それほど時間があれば自ずと考えもまとまり、自分たちの向かうべき方向が定まってくるであろう。よく考えれば、まだ彼女と添い遂げようと決意してから日が浅く、それに今までは自分一人でうじうじと考えていたのである。恐らく初希は、優柔不断な兄がそうそう早く決断を下せるなどとは微塵も思っておらず、それなら二人きりで生活するようになってから考えても遅くは無い、と云うよりお兄ちゃんに任せていたら何時まで経っても結論なんて出ないのだから、私に全部任せてその辺でお茶でも飲んでいなよ、などと思っているのではないだろうか。だから話題にも出さず、今日のようにひどい盛り上がり方をして今を楽しもうとしているのではないだろうか。ならば自分が取れる行動は一つしか無いのではないだろうか。駆け落ちの判断は数年後の自分とその妻に任せるとして、今日、明日、明後日は目一杯彼女を楽しませなければいけないのではないだろうか。ならこんな憂鬱な気持ちに負けている暇など無いのではないだろうか。――――

「こーき。…………」

ふいに、すっかり頭を首に埋めていた初希が、体勢はそのままに倖希の名前をそっと呟いた。かと思いきや、くるりと上半身を回して彼と向き直ると、肩に手をかけて彼の体を押し倒し、自身もまたふわりとその上に倒れ込む。

「お、おい、はつき、こんなことする場所じゃないだろ。…………」

「んふふ、………そんなことは言っても、こーきの心臓は正直だね。もう、ドキドキしちゃってる。…………」

「はつき、落ち着けって。あと名前で呼ぶんじゃない」

「えー? だって、外だと名前で呼べって言ったのはこーきだったじゃん。私はちゃんと、こーきの言いつけを守ってるだけだよ?」

確かにそう言ったことはあるものの、それはかつて友人と自分と初希とで遊んだ際に、余りにもいちゃついてくるものだから彼女が妹だと言おうにも言えなくなってしまい、ついつい、今日だけは名前で呼んでくれ、と耳打ちしたのであって、決して、「外では『お兄ちゃん』と呼ぶな」、とは言ってないのである。だからどういうことかと言うと、今初希は、昨夜のように押し倒した彼の股に座り、昨夜のようにその手を彼の手に絡ませ、そして昨夜のようにとろりとした目で彼を見下ろしているのである。

「――だから言ってな、…………こら、そういう顔で見るんじゃない」

「それにさぁ、………こんな狭い部屋の中で男女が二人きりでいるなんて、何も起きないほうがおかしいと思わない?」

「いや、男女って言っても、俺たち兄妹だから、―――」

「んーん? いまさらこーきは何を言ってるのん? 昨日だって、私の下であんなに可愛くあえいでいたくせに。…………」

初希がこちらの目をまっすぐに見据えてくる。

「ちょ、ちょ、ちょっと。待って、はつき、まだ満足じゃないのか?-----」

「あれで十分? こーきは本当にそう思ってるのん? あと三日しか無いんだよ? 私達の時間は。もうそれだけなんだよ? ―――あっ、でも、こーきがこのまま攫ってくれるなら話は別だけどね」

「それは、…………」

窓の外の景色からいよいよ明かりという明かりが無くなり、壁と天井の境界さえ分からないほどに寝台個室は暗くなっていたが、倖希は自分を見据えてくる目が潤んでいるのを確かに感じ取った。

「ねっ、こーき、このまま向こうで過ごそうよ。過ごしてさ、---------」

――と、初希が何かを言いかけた時、扉からガチャガチャと言う音が聞こえてきた。その音に、もう鼻と鼻が触れ合うほど顔を近づけてきていた初希もびっくりして体を起こしたが、まだガチャガチャと言っている。

「あ、あれ? なんで鍵が、………」

程なくして、そんな女性の声が聞こえてきた。あゝ、なるほど、もしかして、部屋を間違えた別の乗客がこの部屋を開けようとしているのか、―――と二人は合点して静かに扉を見つめる。

「うん? あ、しまった。ここじゃない。…………」

「ふっふっふ。………」

「――こーき、趣味悪いよ」

「せやな。……………」

「あ、あの! ごめんなさい!」

見知らぬ誰かはその声を発するや、どこかへ走り去ったのであろう、もうその気配も伺えなくなってしまった。

「………やっぱり間違えてたんだな」

「ふふっ、私もさっき間違えそうになったから、仕方ないよね」

「なんだ、はつきも間違えそうになったのか」

「まぁ、ね。…………」

一瞬だけ晴れやかになった初希の顔が、どうしてだか再び沈んでいく、――見えないが口調からそんな気がした。

「はつき、はつき、ちょっと重くなってきたからどいて、――」

だから、せめてこれだけは、………と思ったのである。

「えっ、あっ、ごめん。………っていうか、こんな純粋無垢で可愛い女子高生に重いってどういうこ、--------」

「------ごめんな、今はこれだけで許してくれ」

「…………えへへ、やっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんだ。……………」

「…………どういうことだよ」

「んへへ、………いいのいいの。お兄ちゃんに意気地が無いのは分かってたし、あと一年だし、あと一年耐えればいいだけだし。…………そう、一年だけ。―――お兄ちゃん、頑張るよ、私。そしたらたくさん思い出作ろうね。終わっちゃう前にたくさん、たくさん。…………………」

「あぁ、そうだな。色んな事しような。……………」

「ん。--------あーあ、…………なんだか眠くなってきちゃった。このまま寝ていい?」

いいよ、と返事をして初希の顔から眼鏡を外し窓枠に置くと、すぐさまこちらの胸元にぐいぐいその顔を埋めてきたので、とりあえず後髪を撫でてやる。

「おやすみ、はつき」

「おやすみ、こーき。……………」

そうしてそのまま頭を撫で続けていると、すー、すー、という可愛らしい寝息が列車の走る音に紛れて微かに、でも確かに聞こえてくるようになったので、倖希は一つため息をつくと、少しだけ酒を口に含んだ。時刻を確かめてみるともう午前三時である。窓の外には名古屋に近づいてきたのか、点々と煌めく街の灯が、水平線の向こう側まで広がっている。彼はそれを酒の肴にしようと予てから画策していたのであるが、胸の中に感じる言いようのない心地よさに一瞬眠気を感じたと思ったらもうそれまで、後はうとうとと船を漕ぐばかりになり、頭を撫でる手も止めてしまった。

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