[四]
「そういえば、今どの辺なんやろか。―――」
展望車、もといミニラウンジは意外にも二人の部屋がある車両のすぐ一つ隣にあって、車両の縦半分ほどの空間がちょうど左右対称に分かれており、床に固定された回らない椅子に座って、壁に固定された奥行きのない机に肘を乗せて、割と広めの窓から外が見えるようになっていた。彼らの他には大学生っぽい女性が三人、その椅子に腰掛け窓の外を時折眺めつつヒソヒソと静かに話をしているのみで、それ意外の雰囲気は今までと変わりない、強いて言うなら自販機の色が少し賑やかなくらいである。で、その自販機に飲み物を買いに行った倖希がココアを袖に丸めて戻ってくると、頬杖をついてうっとりと窓の外を見つめていた初希が、ボソッとそう聞いてきたので、そういえば部屋を出る前に高槻の文字が見えた気がするからそろそろ京都に入ったんじゃなかろうか、と彼女の隣に座りつつ確かめてみたら意外なことにもう長岡京の辺りまで来ている。だが外を見ても消えかかる街明かりがぽつぽつと見えるばかりで、一体ここがどこなのかさっぱり分からない。
「うわー、…………ここ京都なんだ。全っ然気が付かなかった。…………」
「まぁ、夜だし、それにさっきまで窓がなかった車両に居たからね、山崎のウイスキー工場とか、例のチョコレートとか見えなかったんだろう。あといつも阪急に乗ってるから微妙に景色も違うだろうしね」
「だねー。…………」
「いやぁ、面白いなぁ、一昨日も初希と一緒に伏見稲荷まで行ったから通ったはずなんだけど、面白いなぁ、………あの時は、――――」
倖希はそれからも、こんな感じで現在地を地図アプリで追いかけ回しては、その都度感想を述べるので非常にうるさかったのであろう、五分と経たず初希はその頬を手から離しキッと兄の顔を睨みつけ、
「お兄ちゃん」
「はい」
「静かに」
「はい」
元来妹に至極弱い兄である、倖希はその一言ですっかり静かになり、パキッ…………、という音を立ててココアの缶を開けて一口飲むと、もう何も言わずに変わらぬ速度で流れて行く京都の街明かりを見始めた。そしてほとんど目も瞑って、電車の走る心地よい音に身を任せながら、ココアの缶を手持ち無沙汰に親指で撫でていたのであるが、しばらくすると横からぬっ、と細くしなやかな指が伸びてきて、カチリと、綺麗に切り揃えられた爪とその缶とが当たったかと思ったら、次の瞬間には彼女の手に収まっていた。
「まったく、一声くらいかけてくれ」
「あ、ココアちょうだい。――」
「遅いわっ」
澄ませた顔でココアの蓋を開けた初希は、濡れたように艶かしく光る唇を軽く突き出すと、下唇を缶の口へ柔らかく当て、人肌程度に温くなったココアをそっと舌の先に触れさせる。そしてその甘味やら、苦味やら、独特の舌触りやら、鼻孔に広がる香ばしい香りやらに顔をなごませてから、コクリ、コクリと気管の膨らみが薄っすらと見える魅惑的な喉を蠢かせ、その優しい味わいをゆっくり体の中へ入れていく。倖希はその、ある意味口淫を思わせる仕草につい見惚れてしまっていたのであるが、いつしか窓に映る景色は、景色とは言えないほど明るくなっており、とうとう背の高い建物も姿を現し始めていた。
「あゝ、この殺風景な感じ、…………京都駅だなぁ。…………」
「ふふっ、お兄ちゃんさっきから何か変。大丈夫? 変なもの拾って食べたりしてない?」
「いやだって、こんな人の居ない京都駅って珍しいやん? それに、――」
――こうして素通りするのも珍しいし、と言いかけたところで、寝台特急は速度を落として、しかしそれでも案内板やらロッカーやらが掠れて見えない程度の速度で駅のホームを通過していく。
「あれ? 京都は通過するだけなのん?」
「らしい。意外だよね、残念?」
「……全然。一昨日も来たから。…………」
「そういえば、その時の写真さ、意外と綺麗に撮れてたから東京に着いたら見せてあげるよ」
「ほんと? ――――それは楽しみなんだけどお兄ちゃん、私のことを私が気がついてないうちに撮ってたりしてないよね?」
「いやいや、そんなことは、…………実は一枚だけあります、ありますから。そんな目をしないで、ごめんって」
「もう、………」
「いやでも、あの一枚も綺麗に撮れてたから初希も気にいると思う、…………たぶん」
「そりゃ、被写体が良いんだもの、どう撮ろうと綺麗になるよ。――――」
ふふん、と胸を反らし、とうとう倖希の手の平でも収まらなくなってしまった二つの大きな実を、そのたわやかな曲線で持って強調するのであったが、ちょうどその時、たまたま後ろを通りかかった男性の視線が突き刺さるのに気がつくと、慌てて自分の体を抱え込んだ。そして恥ずかしさを紛らわせるためなのか、憂さ晴らしのためなのか、ココアを雑に掴んで今度はコク、コク、コク、…………と飲んでいく。やはりその豊満な膨らみは自慢ではあるけれども、他人には見られたくないのであろう。
「ここは人が行ったり来たりするから落ち着かないな。部屋に戻ろうか」
「だねー。………」
コトリ…、と音がしたので下を見ると、ココアが帰ってきていた。
「………あっ、うわっ、もうほとんど残ってへんやん! 」
「ふふっ、ココアありがと、お兄ちゃん。―――」
久しく聞いてなかった兄の驚く声に満足した初希は、立ち上がってぐいっと背伸びをすると、まだ一口しか飲んでなかったのに、…………と文句を言いながらほとんど最後の一滴となったココアを飲む兄を、密かに赤らめた顔で見守るのであった。
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