[三]
ぐいぐいと手を引かれて行くと車両の連結部に出て、そこにはこれと言った物が無かったためあまり特別な印象は抱かなかったのであるが、倖希はそんなことよりも妹が楽しそうでなりよりであった。なぜかと言って彼が実家へと帰省したのは、初希がしなびてるから元気づけてやってくれ、どうせあんたが原因やろ、と母親から連絡があったからなのである。しかしそうは言われても当初、普段から妹とはよく通話するし、何よりその日も彼女の元気な声を聞いていた倖希はいまいち実感が湧かず、母親には、濡れ衣や、とだけ返したのであった。だけれども、今まで弱音らしい弱音を吐いてこなかった初希のことだから、自分の前では強がっているかもしれない、と思うと、どうしても気が気でなくなってしまい、試験という試験全て乗り越え、レポートというレポートを全て提出し終えたらすぐ実家に帰ろうと、そういう予定を割と早くから立てていたのである。倖希のこの読みは当たっていたらしく、日を追うごとに普段の通話から沈黙の時間が増えていったので、余りにも妹を心配した彼はレポートを一つ放棄してまでして、予定より一日早く実家へと帰省したのであった。帰ってきてみると笑顔の初希に抱きつかれ、お土産をぶんどられ、いつもの調子でコロコロと転がされ、なんや元気そうやないかと若干損した気分になったものの、こちらを見てははにかみ、こちらに引っ付いてきては撫でるような声を出す様子にはどこか上滑りしているような印象を受けた。それに何と言っても片時も離れないのには、さすがの倖希もうんざりとした。けれどもそうやって、いつも以上に引っ付いてくるということは、妹をえらい寂しがらせていたということに違いなく、申し訳無さと愛おしさから相手をしてやっていたのであるが、じきに日が変わりかけてきたのでそろそろ寝ようと思い、久しぶりの自室に行こうとしたところ、……やっぱり付いて来る。ほら、こんな時間だし初希ももう寝な、明日も学校あるんやろ、――とやんわり催促しても、いい加減にしなさい、――と少し怒ったように言いつつ部屋へ押し込んでも、ただ、お兄ちゃん、………と
彼がそういう思いを抱いているのには一つ大きな理由があって、もう妹もあと数ヶ月すると高校三年生、――つまり受験生になろうとしているのである。そうで無かったら妹の甘える仕草にも、自信は無いが厳しく応えられたはずなのである。だがやはり、初希がそろそろ受験を控えるようになると思うと、そうも言ってられない。なぜかと言ってあの一年間は魔のような期間であり、どれだけ自分が自信を持っていようが、どれだけ自分が良い偏差値を叩き出そうが、たった小テスト一個、たった教師の一言で途方も無い不安に襲われてしまう。思い出してみると自分はあまり頭の出来が良くなかったから、模試を受ける度に全然問題が解けずへこんで、結果が返ってくる前にこの世の終わりみたいな顔をしていたから親に、あんた大丈夫なん? と言われ、担任に、このままだとあそこは難しいだろうから志望校を変えたほうが良い、と言われ、そういえば常に不安で不安で夜遅くまで勉強していざ床に就こうとすると眠れず、眠れたかと思ったら数時間後、びっくりしたように心臓をひどく脈打たせながら跳ね起きる。そういう生活を常に送っていた。そんな中で唯一、心の支えであったのが初希であることは言うまでもなかろう。中学三年生だった彼女は自身も高校受験のために忙しい日々を過ごしていたにも関わらず、目を充血させてボソボソと英語を読んでいる兄のために蒸らしたタオルを用意したり、たまに自暴自棄になってあちこちへ遊びに行こうとする兄に付いていき一緒になって騒いだりしてくれた。で、騒いだ後は必ず帰りに、こちらの耳が痛くなるようなことを言って諭してくるのであるが、決して不快な気分にはならず、それどころか、一つ一つの言葉に彼女の真剣な思いが詰まっていて、不覚にも涙することは少なくなかった。とは言え、帰りの道中まさか中学生の女の子に甘える訳にはいかないから何とか耐えて家まで辿り着き、自室で二人きりになった所でようやく弱音を吐いて、誘われるがまま頭を彼女の胸に埋める。するといつも決まって初希は子守唄のように兄の名前を呼び、その頭を撫で、他の誰も認めないけど私だけはお兄ちゃんが頑張っているのをいつも見てるからね、一昨日もお母さんに、ぼーっとしてるなら勉強したら? って言われてたけど私は知ってるよ、あの時は手に単語カードを持ってたから頭の中で憶えたことを諳んじてたんだってこと。………ふふっ、だって本当にずっと見てるんだからすぐ分かるよ、散歩に行くのも休憩じゃなくて歩きながら数学の問題を考えたいんだよね? ………私にはお兄ちゃんの感じてる不安がどれぐらいなのか良くわからないけれど、やっぱりそこまで根を詰めるのは良くない気がするの。だからお願い、頑張らないでとは言わないけれど、今だけはお兄ちゃんの大好きな私の、……私の、その、………おっぱいのことだけを考えて。お兄ちゃんのおかげで先週Dになったんだよ? ――などと言って、こちらの頭をその豊かになりつつある胸元に押し付けてくるのであったが、なんという心地よさであったか。ひどい緊張で夜も眠れなかった自分の頭の中からあの地獄のような不安が無くなり、体が蝋のように溶けていき、何も考えられなくなったかと思えば次の瞬間には一時間か二時間程度は時が経っている。だが目が覚めたところですぐさま鼻孔に妹の匂いが漂って来て、クラクラしているうちに再び気を失い次の瞬間には彼女の柔らかい膝の上で頭を撫でられている。そして、そろそろちゃんとベッドで寝よ? と妹に言われるがまま布団の中へと一緒に潜り込み、今度はその体を胸に抱いて眠るのであったが、そうすると余りの安心感から三度、気絶するように眠ってしまい次の日が平日であろうが何だろうが昼まで目が覚めないのである。
倖希にはそんな苦いような甘いような記憶があるために、妹はもっと苦労するであろうと考えており、何も彼女に強く言えないのであった。自分には初希という存在が近くに居てくれたからこそ、辛さが募ればすぐに甘えられていたけれども、そうやって入試を乗り越えてしまったがゆえに東京で暮らすことになり、妹の近くに居られなくなってしまった。彼女にはもう甘えられる相手が近くには居ない。そんなことを言うと自惚れているように捉えられるかもしれないが、自分がどれだけ妹に助けられたかを思い出すとやはり、ただでさえ不安に押しつぶされそうになる受験期に、心を寄せている兄と会えないのは心細いはずである。あと一年経って、入試を終え、無事彼女が大学に合格すれば同棲可能、――いや、すでに同棲をする予定を立ててはいるけれども、その肝心の一年間が彼女にとってどれだけ苦しい一年間になるのであろう。恐らく初希が今回しなびたのはそういうことが原因で、何があったのか推測するに、高校二年生となりて春を過ぎ夏を過ぎ秋を過ぎとうとう寒くなってくるや、あの高校のことだから、――自分の母校でもあるから分かるのであるが、口を開けば入試だの、受験だの、もうあと日も無いだのと言われ不安になったのだろう。自分の時はかなりのんびりとしていたから大して影響は無かったが、案外真面目で頑固者な彼女は先生の言うことを真摯に受け止めてしまったに違いない。しかもその先生というのが、どういう訳か妙に生徒を煽ることに関しては上手くて、入学したときからすでに口を開けば良く出来た先輩の話だったり、定期試験があればほんの少しの凡ミスでもああだこうだ言って自信を失わせるのである。どうしてそんなことをするのか良くわからないが、恐らく不安とか悔しさが本当にバネになるとでも思っているのであろう。それで、そういうことを真面目に受け止め続けてきた彼女はこれまでずっと将来の不安を燻らせていて、トドメに、――自分の覚えている限りではこの時期確か、センター試験の過去問かそれに似せた問題を本番さながらに解く、という行事があったはずで、………たぶん、本当にたぶん、そこであんまり良い成績が取れなかったためにとうとうしなびてしまった。と、こういう
そんな訳で、別にセンター試験など雀の涙ほどに圧縮されるから気にしなくても良いのにしなしなにしなびていた初希が、今朝方急に元気になって今ではこちらの手を引っ張り、でもしばしば歩みを緩やかにして後ろを振り向きニッコリと微笑むようになったので、倖希もまたかなり嬉しくなっているのであった。なぜかと言って、彼が妹を東京に連れて行くことにしたのは、先に述べた事情をだいたい全て予想していたからであって、もっと言うと初希が着いていきたいと我儘を言う前から、もっともっと言うと東京に住むことになった自分を送り届けてくれたあの日から、倖希は妹が受験生となる前にいつかは二人きりで過ごして数年後の自分たちの姿を想像しておいて欲しいと、そういう願いがあったのである。彼は建前では妹を仕方なく東京まで連れて行っていると言うし、自分の心の中でも二三日の爛れた日々のために手間もお金もかけた、と思っている折があるにはあるけれども、本当は妹を元気づけたい一心でいるのである。だから誰よりも、―――もしかしたら初希本人よりも彼の方が喜んでいるかもしれないのであるが、旅の始まりともあって少々盛り上がりすぎている妹に家を出る前からずっと手を引かれていると、やっぱり少しだけ呆れてもくるのであった。
寝台列車の中はあれほどホームに人が居たというにも関わらずひっそりと静まり返っており、ただ部屋の取っ手と、木の模様をした壁と、ちょっとした照明だけが付いている狭い廊下を、兄妹仲良く縦に並んで渡っているあいだ、この静かな光景は確かに初希の言う通り非日常的であると、倖希は感じた。木の模様は安心感を与えるとよく言われているが、人の気配が消えてしまった今ではどこか無機質で味気ない。手をひたりと当ててみても、熱いとも冷たいとも感じず、まるで木の幻に触れているようである。倖希は、本来そんな列車に一人で乗ることになっていたのかと思うと、ゾクリと背中が凍っていくような気がしたが、そこにもう忘れてしまった冒険心というものをくすぐられ、どんどん目が冴えてくるのであった。そうして、自分もスタスタと手を引かれながら歩いていると、恐らく一人用の寝台個室であろう、左右対称に部屋が狭しく並んだ車両にたどり着いた際、ふと初希が歩みを止めた。
「なんか、ステイサムの映画みたいだね……」
「どれ?」
「ほら、あの退役軍人なステイサムがマフィアだかなんだかをボコボコにするやつ」
「…………どれもそうだから分からん」
「んー、………ほら、あれ。こないだ見たやつ! ………の、ダンボールに押し込められた出稼ぎ中国人をステイサムがトラックの中で数えるシーン、あれみたい」
「あぁ、なるほど、分かった分かった。………確かにそれっぽいけど、例えがえげつなくない?」
「せやな。………」
そう言うと初希は、手に持っていたスマホを片手で器用に扱い、カシャッと、この一件面白くなさそうな光景を写真に収めた。が、微妙に薄暗いせいで光がぼんやりとしてしまい上手く撮れなかったのであろう、云々唸って何回も取り直している。倖希はそんな妹を多少愉快に思いながら改めて車両内を見渡したところ、案の定何にも面白い物が無く、それに窓が無いために今しがた感動した夜景も見ることが出来ず、ひどい閉塞感に包まれてしまった。それでも殊の外ワクワクして仕方がないのは、そんな閉塞感を感じているからこそ秘密基地に入っているような、言わば少年時代に戻ったような感じがするからであろうか。たぶん少し違っていて、先程ちらりと見えた一階へ降りる小さな階段を思い出すと、ホラー映画というか、SF映画というか、何やら入ってはいけない場所へ迷い込んだような、そういう気分になっているからなのであろう。なるほど確かに初希の言う通り「探検」である。そう合点すると彼は、いまだぴょこぴょこと細かく動いては写真を撮っている初希のことが映画のヒロインのように見えてきて、こんな風にとりあえず動いてみる女性がまず最初に謎を解き明かしたりするんだよな、…………と映画の世界に入り込みそうになり、なんだかおかしくなってきていつの間にか、ふゝ、………と笑みをこぼしてしまっていた。だがその様子を見ていた少女にニヤニヤと見つめられると、すぐに顔を無理やり引き締めて、眉間にシワを寄せて、………けれどもやっぱりその様子を笑われたので、ごまかすように口を開けた。
「そういえば、確か展望室みたいなのが逆の方向にあるよ。たぶん」
肩越しに親指で背後を差す。
「ほんと? 行こう行こう!」
「写真は?」
「もういいや。何回撮っても霧がかかっちゃうから、たぶんこれ以上は無理。………」
倖希は妹がスマホを手の中に丸め込んだのを見て、今度は自分が彼女を引っ張って行こうと足を踏み出した。
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