[二]

寝台列車というものは大方どの車両も一階部分と二階部分に分かれており、彼らが乗り込んだ車両では一階に二人部屋が、二階に豪華な一人部屋があるのであるが、その二人部屋というものは小さなベッドが二つ、人がひとり通れるか通れないかの隙間を隔てて配置された、例えるならホテルの一室を限りなく小さく且つ余分なものを削ぎ落としたような部屋であった。二人は列車に乗り込むと、まず狭い階段を下りて、狭い廊下を渡って、開け放しにされている部屋を見つけて、これが俺たちの部屋じゃないだろうかと思って切符を確認すると、案の定そうだったので、荷物を半ば押し込むようにして入れつつ自分たちも入った。するとその時ちょうど列車が動き出したらしく、扉を閉める際に廊下にある窓をちょっと覗いてみると、駅のホームがゆっくり動いていくのが見えたのであるが、それはそれでワクワクする光景だけど、まずは、まずは、と思い扉を閉める。ここでようやく初希が手を離してくれる気になってくれたのかその力が弱くなったので、名残惜しくなりつつ両手を自由にすると、コートやら何やらを壁に吊るしてとりあえずベッドに腰掛け一息ついた。そうやって、兄の方は束の間の休息に胸をなでおろしていたのであるが、同じようにしてベッドに座った妹の方は興味津々に、ベッドの頭側にある謎のスイッチやら何故か付いているラジオのつまみやらを、時々歓声を上げつついじくっている。と、急に結構大きめの窓を遮っていたカーテンが上がり始めたのを目にするや、今度はそっちに食いつき、徐々に見えてくる外の景色に感嘆の声を上げ始めた。

「お、お、お、………わお。…………」

そう言うと窓枠に手をかけてさらに車窓へ見入る。

「すっごい。…………ええやん。………ええやん。…………」

そして初希は、カーテンが上がり切る頃になるともう声をも出さず、目を見開いて窓の外を眺めるようになったのであるが、しばらく無言であった倖希もまたその移り変わっていく景色、―――たった一台の車のために色を変える信号機、読む者も居ないのにぽつりと立つ標識、住宅街の上を駆け抜けている電線、淡く青く光るように街灯に照らされている道路、……………そしてそれらをどこか物悲しい顔つきで見入る妹、―――などに心を揺さぶられ、やはり違う世界へ連れて行かれたのではないのかという気分になると、自身も妹と同じように窓辺に手をついて外の景色を眺めた。今見ている街並みは、まだ大阪のものであるのに、普段見慣れているはずなのに、二年前まではここで暮らしていたというのに、いまいち現実味が湧かず、隣に居る初希の存在を感じていると、ほんとうに恋人とどこか遠くに駆け落ちしているような、そんな錯覚さえしてしまう。果たしてそう思うのは、生まれ育ったこの地から離れようとしているからなのか、それとも儚い表情をしてをられる彼女の佇まいに当てられたのか、はたまたぼうっと辺りを照らしている街灯に哀愁というものを感じたのか、いずれにしてもいたく美しい光景が車窓には広がっている。――――

「確かにこれは、いいな。いいぞ。…………」

二人のあいだにはこの言葉を最後に、しばらく電車が線路を走る音のみが響いていたのであるが、倖希が咳払いをしたのをきっかけに手をもじもじさせ始めたので、それがどういうことを意味しているのか知っている初希は、一つ、くすっと笑うと、絡まり合っている手のうち自分に近い方を奪ってやる。すると案の定、隣に居る兄から力という力が抜けていき首もがっくりと項垂れていったけれども、気がついた時にはあの、苛めてほしそうな優しい顔でこちらを見てきていた。

「こ、――――」

が、初希が口を開けたその時、コンコンコン…………、と扉をノックする音が聞こえてきた。

「あっ、はーい!」

すかさず倖希が反応すると、ガラリと言う音と共に扉が開き、

「すみません、乗車券の方を、―――」

と、言いながら嫌に朗らかな笑顔をした乗務員が部屋に入ってくる。―――どうやら切符を見せないといけないらしい。そうは理解していても突然のことだったので、すっかり自分の世界に浸っていた初希は一瞬固まってしまい、そのうちに手を離されてしまった。

「はい、どうぞ~」

さっと財布を取り出し、その中から切符を抜き取った倖希が朗らかに言う。自分だってあんなに哀しそうな顔をしていたというのに、なんだその変わりようは、――と少しムッとする初希であったが、私も切符を見せないといけないんだろうな、………とすぐに気持ちを切り替えてベッドに座ったまま自分の荷物に手を伸ばす。

「あ、もう大丈夫です。ではごゆっくりどうぞ。―――」

「へっ?」

私のは見なくていいんかい、と、初希は心の中で言ったのであるが、本当に見せなくても良かったらしく、手を空に迷わせているうちに扉はガラガラガラ…………トスン、という音を立てて閉まってしまった。―――――

「びっくりしたなぁ。………」

「うーん。…………あー。………………」

「初希?」

「なんか、あれだね。あれ。そう、あれ。………………」

「あれ?」

「そう、あれ。うん。あれ」

初希は根本から折れたようにベッドに寝転がってしまっているのであるが、その返事は全くもって要領を得ていない。たぶん、雰囲気無くなっちゃったね、…………と、本当は言いたいのであろう。倖希はそんなことを思いながら、もう一度ベッドに座ろうと一歩踏み出したその時、ポキっと折れていた妹の体が突然跳ねるようにして起き上がった。

「うおっ! なんだなんだ、――――」

「お兄ちゃん、ちょっと探検しようよ、探検!!」

「えっ、………」

「行こう行こう。雰囲気無くなっちゃったし、それにさっきちらっと見えた向こう側の車両、めっちゃ良かったやん、なんか非日常的で。ねぇ、行こうよー。…………」

「えー。もうちょっとゆっくり、―――」

そう言いかけたところで、初希がこちらの手を取って引っ張り始めたので、こうなっては妹が止まらないことを知っている彼は、そろそろ開けようと思っていたお酒やらお菓子やらが入ったコンビニ袋をその辺に投げ捨てグイッとその手を引き、彼女を立たせてやる。

「お兄ちゃんのそういうところ、大好きだよ」

「はいはい、―――それじゃあ、行きましょうか、お嬢様。」

「ふふっ、なにそれ。つまんない。―――」

と言いつつも、くすくすと笑う初希の手を引っ張って足を踏み出した倖希であったが、部屋を出る頃にはもう妹の背中を追いかけるようになっていた。

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