陽昇
鏡禾一楊
[一]
「十号車、十号車、十号車、…………あ、ここだよ、お兄ちゃん、ここ、ここ!」
「わ、わかったから、引っ張らないでくれ! 荷物が。………」
「――――でも、どっちから入ったらいいんだろ。…………ま、どっちからでもいっかな。」
数字の小さい車両側からホームを登ってきた初希は、乗り込み口にたどり着くとようやく歩みを止め、手を引いている倖希の方に振り向いた。
「って、お兄ちゃん大丈夫? 一体誰に右手をやられちゃったの?」
見ると、キャリーケースやらトートバッグやらコンビニ袋やらを全て持たされているというのに、家を出てからずっと左手を妹に取られ無理やり歩かされてきた兄が、少し不満そうな顔をこちらに向けつつぷらぷらと右手を振っている。
「まったく、すこしは落ち着いてくれ。手がちぎれるだろ」
「ごめんごめん。ちょっと盛り上がっちゃって。―――でも、こんな時間に大阪駅にくるなんてはじめてだからしょうがないよ。お兄ちゃんだって、実は盛り上がってるでしょ?」
「いや、まぁ、………たしかにそうだけど、さぁ。…………」
倖希は未だに不満そうな顔をしているが、確かに初希の言う通りである。彼はこんな風に日が変わった頃合いになるまで大阪駅に居たことは何回かあるものの、やはり日中には感じないその独特な雰囲気にどこか興奮を禁じ得ないのであった。だがこの日ばかりはそういう幻想的な理由だけから興奮を感じていた訳ではない。と、云うのも、実家へと一週間ほど帰省していた彼は、これから香川県高松市の高松駅を数時間前に発った寝台列車に乗り込み、東京へ向かい、そして下宿先へと戻るつもりなのであるが、その道すがらずっと妹であり恋人である初希が着いてきて、しかもその後ほんの二三日ではあるが愛する彼女と、家族というしがらみを取っ払って過ごそうと、そういう計画を立てているのである。本当は一人で新幹線を利用する帰省の予定だったのが、友達の勧めで寝台特急に乗ることに変わり、その上なぜか初希がどうしても、どうしても一緒に着いていきたいと言うから仕方なく、仕方なく、本当に仕方なくバイト代を切り崩して連れてきたのであるが、これほどまでに嬉しそうな妹の顔は久しぶりで、これからそんな彼女とほんの数日間とは言え二人きりで過ごせると思うと、気をつけなければつい笑みがこぼれてしまうほどに、悦びが心の奥底から湧き出てくるのであった。
「―――寒くない?」
「全然っ。むしろさっきの待合室の中が暑かったから、今がちょうどいいくらい。―――お兄ちゃんは?」
「俺はめちゃくちゃ寒いんだが、ちょっとその元気を分けてくれ。…………」
「えー。………お兄ちゃんまだ二十歳なのに。―――」
そうやって呆れつつも初希がキュッと手に力を込めてくる。倖希はこんな、照れ隠しのような妹の優しさが好きで好きでたまらなく、毎度のことながら頬を赤く火照らせてしまい、彼女に悟られまいと壁にある広告に目を向けたのであるが、ふいに視線を感じて下を向くと、初希が眼鏡の奥から得意げな眼でこちらを見てきていた。――――本当に大人びてきたものである。いつも今日みたいに我儘を通したり、いつも今みたいにグッとくる仕草をしてきて、顔立ちも美人というよりは可愛いさの方が強いのだけれども、少しおっとりとした目元や、流れ落ちる水のやうに癖のない髪の毛や、真紅が横にすうっと伸びた薄い唇やらには、並の少女では身につけられぬ気品があり、ただただひたすらに麗しい。しかもその上、暗い紫色の眼鏡をかけているせいで知的な、…………いや実際にとんでもなく頭が良いので「見える」なんて言うとひどい状態にされそうだがとにかく、股が疼くほどの知的な雰囲気を身に纏っている。昔は何かあればすぐ泣きべそをかいて、お兄ちゃん、お兄ちゃん、と手を伸ばし抱っこをせがんでくる
「うん? なに?」
「いや、大きくなったなって」
「ふふん、そりゃそうよ。もうGよG。――っていうか、お兄ちゃんに揉まれてから大きくなるの止まんないんだけど。………」
初希が空いている方の手で豊かに育ちつつある自身の胸元を撫でながら困ったようにそう言うので、倖希はどこか勘違いされた気がするのであるが訂正するのも面倒だし、昨夜も精を搾り取ってきたその膨らみに一度目を奪われてしまっては考えも何処かへ吹き飛んでしまい、何をするのでもなくただ妹の頭を撫で続けていた。ふと気になって見渡してみると、駅のホームにはまばらとは言え意外にも電車を待っている人がちらほらおり、そういえば先程の待合室の中は一つ二つしか座席が空いてないほど一杯であったことを思い出すと、恐らく自分たちと同じように寝台列車に乗ろうとしている人が沢山居るのであろう。よく考えれば今日は三連休前の金曜日、…………いや、もう日は過ぎたから三連休初日の土曜日なのだから当たり前と言えば当たり前である。が、それにしてもこんな時間から電車に乗るのには一種の違和感というか、躊躇というか、何かロマンティックな物語の主人公の気分というか、何か黄泉の国へ連れて行かされるような気分というか、そういう不思議な気持ちを起こさせる何かがあるような気がする。なるほど確かに、友人の言ったとおりこの感覚は癖になりそうだ。―――――
「あっ、お兄ちゃん、そろそろだよ、―――――」
初希がそう声を出すと間もなく、ホームにいつも聞くチャイムが鳴り響き、周りの者たちがざわざわと賑わい始めた。家族連れはぴょんぴょん飛び跳ねる子供の世話に追われ、男女の組は変わらず話し合い、カメラを片手に持っていた者は皆線路脇で構えている。
「お、やっとか。いまさら遅いけど、忘れ物してないよな?」
と、倖希はそう妹に聞こうとしたのであるが、間が悪くちょうど「忘れ物」あたりで寝台列車が、ゴォッ………!、という音を立てて入ってくる。しかし初希にはちゃんと聞こえていたのか、
「もちろんもちろん。お兄ちゃんこそなにか忘れ物してない? この前充電器忘れたー! って言って大騒ぎしてたけど」
「あぁ、うん。たぶん大丈夫、………なはず。――ま、いいや、乗ろう乗ろう」
かなり訝しんだ目で見られているうちに列車の扉が開いたので、倖希は一向に離してくれる気配のない力強い手を引いて、でもやっぱり、忘れ物をしているような気がして足が止まりそうになったが、言うと初希にどれだけいじられるか分からないので、雲の上に浮かんでいるであろう綺麗な三日月を一瞬間眺めてから、黙って列車の中に入った。
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