彼女はうつろなマーマレイド(雨に向かって歩いてゆく)

フカイ

take #1




 紫色の雨が、うす汚れたゴミ溜めみたいな街路を濡らしている。

路面に映る、逆さ写しアプサイドダウンの夜の街は、まるでできそこないのウォルター・ヒルの映画のようだ。

 アッパーハレム。安モテルの三階の部屋。

 格子の窓越しに、私はもう二晩もこのうっとうしい雨を眺め続けている。この窓辺の固すぎるベッドに腰を下ろしつづけることには慣れたが、退屈なことにはいつまでたっても慣れそうもない。


 そもそもの事の起こりからして、退屈なことこの上のない事件だった。

 「女を捜してほしいのよ」と、オフィスで依頼人は言った。すべての刑事がハリー・キャラハンでないのと同様に、すべての探偵は、フィリップ・マーロォであることはできない。離婚訴訟の証拠収集が専門の、業界で言う「ドブさらい」と呼ばれる連中だって、鑑札だけは彼奴と肩を並べることができるし、それがいまの私だ。ただし、今回はドブさらいではない。人捜しとは、端で聞くより退屈なだけだ。

 きっと衿の内側に気取ったフランス語のブランド名が縫い取りがしてあるに決まっている、高級そうなスーツを着込んだその女は、私の顔にかからないように横を向いてタバコの煙を吹き出した。もらった名刺ネイム・カードにはさる公明な女性雑誌の名前と、編集長という大層な肩書がプリントされていた。

 長いこと他人には独身主義で通してきたが、ヘテロセクシュアルからの離脱はこの街のアートを取り仕切る連中のパスポートのようなものだ。ただし、それは決して表沙汰にならない。ならないから、私のうす汚れたオフィスに彼女は来ていた。


 「些細な喧嘩だったの」と、彼女はうつむいて言う。

 彼女がそのあと涙ながらに語った三十分を端的に要約すると、我々の業界で言うところの「痴情のもつれ」という奴に相当する。数年前に雑誌のモデルとして使ったのが、彼女とその消息不明の女のなれそめだった。ふたりは情熱的な恋に落ちたが、何故かそれがベッドにまで至らなかった。そのモデルがどうしてもそれを嫌がったのだという。そしてある日、彼女はガールフレンドからのプレゼントのきらびやかなダイアモンドのリングをベッドサイドに残したまま、忽然と消えてしまった。

 よくある話を、まるで初めて聞いたことのように驚いて見せ、共感した上で泣き出す前に必要事項を一通り聞き出す。それを手際と呼ぶならば、確かに私は手際の良い探偵オプだ。


 そういうわけで、私はいくつかのコネクションを使い、然るべき場所に電話をかけ、そこいらじゅうをつつきまわした。その結果が、この紫の雨が見える安宿というわけだ。

 私がそうやってこれまでのおさらいを済ますと、それを待っていたかのように噂の彼女が客を連れて、下の通りに現れた。私はやっと椅子から立ち上がると、壁のコートの衿を通し、ドアを半開きにして待った。彼女に一仕事させるぐらいの時間を与えても良かったのだが、なにしろ私は退屈していた。


 くたびれた背広を着た気の弱そうな東洋人が、彼女の先導で狭い階段をきしませて上がってくる。彼女は確かに雑誌のモデルをしていただけのことはある、見事なプロポーションだった。真夜中のように漆黒の肌にピンク色にめくれあがった唇。派手なオレンジ色に染めた髪。出会いが違えば私だって薄い財布をていたかもしれない。

 彼女が先に部屋に入ったのを確認すると、私は東洋人の背後に立ち、コートのポケットに右手を突っ込んで人差し指を突き立てると、それを彼の背中に押しつけた。

 「今日はお楽しみはナシだ。さっさと帰ってくれ」

 精一杯ドスを効かせたのが功を奏したか、どうやら観光客だったらしい東洋人はよくわからない言葉をどもりながら、血相を変えて階段を転げ落ちていった。


 部屋の真ん中でこちらを振り向いた彼女は、もちろん私に腹を立てていた。私は背中でドアを閉め、両掌を胸のまえで開いてから、彼女が文句を並べ立てるまえに言った。

 「あんたのガールフレンドが、心底心配している」


 その言葉を言い終えると、女の唇がゆがんで、言葉と一緒に大粒の涙がこぼれた。

 「かえれ…ない」

 片言だった。

 「細かいことはいい。とにかく帰ろう」

 「私、キャサリンに、彼女に応えること、できない。わたし、できない」

 「それは君たちふたりで話し合うべきことだ。すまないけど」

 私は紫色の雨のせいで、うんざりしていた。決して、眼前で美しい女が泣いているからではない。

 「わたし、感じられない。男と、して、お金、もらうほう、いい。キャスのこと、愛している。でも、感じられない」

 「なんのことだ?」

 

 彼女は自分の出身地であるアフリカの国の名前を言った。世界の田舎の中のさらに田舎、といった感じの国だ。

 そして彼女は自分の生まれ故郷の村で、少女の頃に割礼を受けているのだと語った。割礼は、クリトリスを破壊することで完結するのだという。愛するものとの性交は、彼女に絶望感だけを運んで来る拷問に等しいのだ。

 今度は私がため息をつく番だった。


 半時間後、紫色の雨を、私は彼女の部屋の窓際のベッドに腰を下ろしながら見ている。彼女は当座の荷物だけをまとめたちいさなバッグをひとつ抱えて、 オレンジ色の髪を揺らしながら何処へともなく歩いてゆく。引き締まったヒップと、ピン・ヒールパンプスが夜に映えている。

 胸の奥にやり切れなさを感じながら、私は依頼人に対する言い訳を考えていた。嘘を言うのが正しいのか、真実を言うのが正しいのか。そんなのは神のみぞ知る、というものだ。

 そんな私の胸中も知らずに、彼女は振り返りもせず雨のなかだ。

 昔聞いた歌の文句のようなそのワンシーンに、私は小さく鼻をならした。

 



     彼女はうつろなマーマレイド


     雨に向かって歩いてゆく


     彼女はうつろなマーマレイド


     雨に向かって歩いてく…





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