第12話

ガタゴトと揺れる馬車の中で私は、あることを思い出した。

エマのことだ。


フランツ騎士団の投票券を見つけた時から、何かひっかかるものを感じていたが、それが彼女であることに、今更気が付いた。


コロシアムが始まってから今日まで、私は騎士団のことで頭が一杯で、エマのことをすっかり忘れていた。


せっかくリッツガルドにまで来てくれていて、次もいつ会えるかわからないというのに、結局私は、賭博屋に行ったあの日以降、彼女と会うことが出来なかった。


エマは、気の弱い私を、いつも気にかけてくれている。

それなのに私は、彼女のことを忘れていたなんて。

彼女にも仕事がある。コロシアムの日にはリッツガルドに滞在すると息巻いていたが、それが終わった今、きっともう、彼女は街を後にしているだろう。


連絡をとって、見送りくらいすればよかった。


また、そのうち来てくれるかな?

そういえば、冊子をもらいに、彼女はお城のことを知り尽くしていた。城内の人にバレるかも、なんて言って帽子で変装?してたし。


そのくらい、彼女はリッツガルドに馴染みがある。だからまた、来てくれるだろう。その時は、またいつものようにバカ話をしよう、なんて思いながら、私は車窓に目をやった。


窓の景色は、馬車の揺れに応じて激しく上下する。気をしっかり持たなければ、酔ってしまいそうだ。


私の給料で雇える馬車などしれている。

一番安いこの馬車は、椅子も板敷で、お尻が痛い。

仕事で出かけるときは、もっとフカフカしたものばかりであった。フランツに入ってまだ、半年も経っていないというのに、こんなに安い馬車が心地悪いだなんて。贅沢に慣れていたんだな、と思う。


こんな安い馬車に乗ったのは、そう、リッツガルドに来た日以来であった。

同じ道、同じ風景。ちょっと曇った、同じような天気の日。

自然とその日のことが思い出された。あの日も確か、私は不安にさいなまれていた。

実力のない私が、王国直属騎士団で、ちゃんとやっていけるのだろうか。一人で馬車に揺られる中、そんな底知れぬ重い気持ちに押し潰されそうになっていた。


あの日の私と、今の私は、当たり前だが、同じ「私」である。

だけど、違う点が一つだけあった。今までの私は、どこか受動的で、自分で選んだ道なのに、誰かに歩かされているような意識を、常に持っていた。そうすることで、私自身、楽できたし責任逃れもできた。


しかし、今は違う。私は今、自分の意思で、自分の責任で、動けている、と思う。


不安な気持ちを抱いている、という点では、あの日の私と変わりないし、まだまだ情けないところがあるのは、百も承知だ。

だが、今の私は、なんだろう。それでも、前に進むんだという、確固たる意志があった。不安な気持ちと対になれるくらいの大きな意志だ。


私は、自分で何度もそれを確認し、なんとか自らを奮い立たせようとした。そんな気持ちに焦点を当てているときは、お尻の痛みも、馬車の揺れも、気にならない。

 


3か月くらい経った程度では、やはり校舎は何も変わっていない。

とんがったエンジ色の屋根に、少し汚れた白い塗り壁。その間には、木製の茶色い柱が均等に配置されている。

学校というより、どこかのお屋敷みたいな建物だ。ついこの前までここで生活していたのに、なぜか今、改めて見ると、この学校らしくない建物が妙に不気味に感じられた。


私は鉄製のアーチ型門をくぐり、校舎の間の細い道を通った。

守衛のおじいさんが、窓ガラスの張られた受付の部屋で、居眠りをしている。私はコンコンとガラスをたたいた。


「すいません。私、半年前にここを卒業した、シュナ・ポートマンというものです。会いたい人がいて……その……職員室に通してもらえませんか?」


「はいはい?あぁ?なんて?」


おじいさんは寝ぼけ眼をこすりながら、ガラガラとゆっくり引き窓を開けた。私は少し声を張る。


「ここの、卒業生なんですけど、職員室に、通してもらえませんか?」


「卒業生?入りたいの?じゃあ、えーっと、書類、書いてもらわないと。ちょっと待って。えーどこだったかなぁ」


ゆっくりと腰を上げたおじいさんは、後ろにある引き出しを、ゆっくりと上から順に開けては、閉めていった。

張りつめていたものが、なんだか緩んでしまう。今のご時世、たかが学校とはいえ、こんな人が守衛でいいのだろうか。肩の力が自然と、抜けていった。


「おじいさん、書類の必要はありません。この子は、私の教え子です」


不意に、誰かが私の肩をポンと叩く。聞き慣れた声。柔らかい声。振り向くとそこには、「彼」が立っていた。


「あー。クレイン先生の教え子さんですかぁ」


とぼけた様子でおじさんは言う。先生は、ふわっとした笑みを浮かべながら、優しいまなざしでこちらを見下ろしていた。


「シュナ。驚いたよ。どうしたんだい?何か困りごと?」


私と先生の間を、風が駆け抜ける。私の前髪は、それに合わせなびいたが、気にはならない。


「……先生」


私は息をのんだ。


先生の研究室は、以前と少しも変わらず、雑然としていて、ちょっと、埃っぽかった。少し、薬臭い香りもする。


こんな部屋に最近入ったことがあるな、と思い返してみれば、そう、レベッカの部屋だ。

薬の研究者というものは、みんなこんな感じの部屋に住んでいるのだろうか。


何年も拭かれていないのか、窓は少し曇っている。それに今日の天気も相まって、室内は昼間だというのに、薄暗い。天井の豆電球がともっていなければ、手元を見るのに苦労するだろう。


「お待たせ。どうぞ」


先生が入れてくれた紅茶からは、柑橘系の甘酸っぱい、良い香りがした。

先生はこの紅茶がお気に入りなのか、私達が研究室に来ると、必ず入れてくれていた。私も大好きではあったが、今回ばかりは、口をつけられない。


「今年度から、担任を外れたんだ。丁度研究に専念したいと思っていたところだったから、良かったよ。

君たちを送り届けたあとの、休養期間、とも取れるかな。だから、今日みたいに校内をブラブラしていることもよくあるんだ。こんな陰気くさい場所にずっとこもっていると、頭にカビが生えてしまいそうだろ?」


先生は、冗談っぽく微笑みながら、丁寧に椅子を引き、腰を下ろした。

私は目を合わせられず、紅茶の入ったカップを見ながら、それを触ったり撫でたりしていた。


「ところで、調子はどうだい?フランツ騎士団、だよね。仕事、楽しめている?」


「えぇ。まぁ」


「そうか。それならよかった。

卒業式の日、不安そうだったから。楽しめているのなら、なにより。

生徒の中には、すでに辞めてしまった子もいるからね。

ほら、覚えているかな、メラニー。このまえ彼女が僕を訪ねてきたよ。もう、仕事なんていやですって、泣きついてね……まぁ、この世にたやすい仕事なんて、ないからね」


「そう、ですね」


「本当に、そうだよ」


先生は、自分のカップを手に取り、紅茶をすすった。私はふと、視線をテーブルの上から本棚へと移す。


薬草百選、症状別 薬の調合法、応用薬学……本のほとんどが、薬関係のもので占められていた。が、その中に一つ、違うたぐいのものもあった。

「民主政治と王政」とある。政治についての本らしい。


「あぁ、本?気になるものがあれば、持っていっていいよ。実践的なものもあるし、今の君には、きっと、役に立つ」


先生は、私に気を使ってくれているのか、私がここに来た理由を聞いてこなかった。


たわいもない話をして、少し笑って、お茶を飲んで、静かになって、また話が始まって。その繰り返しだった。私が口数少ない理由も、問いただしては、こない。


あぁ、そうか。改めて思う。

私は、先生のこういう部分が、とても好きだった。学生の頃からそうだ。

温かで、穏やかで、でも決して心の奥に無理やり入ろうとはしてこない、心地の良い距離感。

この空気に包まれている時、私は現実の嫌なことを忘れることができた。

テストの点も、自分の進路も、未来も、すべてを脇に置いて、和むことができた。


今、私がこのまま帰れば、きっとこの愛おしい空間は維持される。

先生は、私の深い部分に、むやみに立ち入ってはこない。

そんな安心感で、今の私の心は満たされていた。疲れても、またここに来れば、こんな時間を過ごせる。


私が今からしようとしていることは、そんな、未来のささやかな幸せを、自らぶち壊すことにつながりかねない。私自身、それでいいのだろうか。


リリアのことを思い出す。カイのこと、ロベルのことも。

彼らのことと、この時間。

天秤にかけて、重い方はどっちだろう。


彼らははじめ、陰で私の悪口を言っていた。そんな人たちが本当に、この愛おしい時間より大事なのだろうか。だんだんわからなくなってくる。


「張りつめた顔をしているよ。大丈夫?」


ハッとなり、顔を上げる。見ると先生が、テーブルの向こう側から少し身を縮め、私の顔を軽く覗き込もうとしていた。


「い、いえ、別に……なんともありません」


私は肩を寄せ、俯きながら手を膝の上に置いた。


と、その時、ガサッとしたものが指先に触れた。見てみると、パンツのポケットから、何かがはみ出している。テーブルの下で、そっと広げる。


それは、フランツ騎士団の投票券だった。フランツ騎士団に私が賭けたときの、それだ。


胸がヒリヒリするのを感じる。

これを買った時、わたしはなぜか、ようやくフランツの一員になれた気がした。あのときの思いを、簡単に殴り捨ててもいいのだろうか。


いや、フランツの為だけではない。

私は今、私自身のためにも、先生に聞かなければならないことがある。

モヤモヤした気持ちを押し込めて、今、私がこのまま研究室を後にしたところで、私はおそらく、このモヤモヤを払拭することはできない。現に今、私は先生と楽しく話すこともできていないし、紅茶も飲めていない。


もうここまで来てしまった以上、引き下がれないのだ。

祈ることは、ただ一つ。

先生が、なにも関わっていませんように。


冊子の紛失、しびれ薬の混入、そしてフランツを取り巻く陰謀の数々。

それらすべてに、先生は全くの無関係でありますように。私は、膝の上でそっと手の平を組み、神様に、祈った。


ゆっくり、顔を上げる。前を、見据える。


「先生、今日、私は、先生に聞きたいことがあってきました」


「聞きたいこと?うん、なんでも言って」


軽く、深呼吸をした。もう、後戻りはできない。


「私が、王国から受け取った、入団式の案内通知。

その封筒の中に、騎士団にとっての、重要な冊子が同封されていたらしいのです。しかし、私の手に届いた時には、それはありませんでした。

先生、ご存じありませんか?」


「なぜ、僕が?」


先生は、穏やかな笑みを崩さない。


「学生の郵便物は、すべて事務室に送られます。その後、各生徒の手元に来るわけですが、その封筒の受領者のサイン。それが、先生のものになっていました」


「そうか……それであれば、僕が受け取ったのかもしれない。

でもごめん。僕が事務室にいる時に郵便が来ることなんて、いくらでもある。

僕が受け取ることもあるし、他の人が受ける時もある。ひとつひとつのものについて、いちいち覚えてはいない」


はぐらかされるだろう、とは薄々感じていたが、やはりそうであった。

私は、ぎゅっと唇を結ぶ。


「そう、ですか」


「お役に立てず、ごめんね」


 先生は、紅茶がなくなったのか、自らのカップを手に取り、立ち上がろうとした。


「待ってください。もう一つ、聞きたいことが」


 先生は黙ったまま、そのままカップを置き、静かに座る。


「何?」


「レベッカ・アドラー、という人をご存じですか?」


「レベッカ・アドラー。あぁ、知っているよ。彼女も有名な薬草の研究者だね。会ったこともある」


「彼女に、薬草を譲ったことは?」


「よくあるよ。それが、何か?」


私は呼吸を整えて、そっと告げた。


「……先生が彼女に譲った薬草から、しびれ薬の成分が、検出されました」


「……しびれ薬?」


「はい。彼女は、先生からもらった薬草で、私の団員に薬を調合しました。それを飲んだ団員が、倒れたのです」


「それは、僕が渡したものに間違いないの?」


「はい、間違いありません。

彼女は、団員に薬を渡す前に、完成品の一部を別の瓶に取っていました。

また、先生が渡した薬草も、すべて使い切ってはいませんでした。

団員が倒れた後、彼女は、それらを調べ上げたのです。

そして、しびれの原因は、先生が譲った薬草にあることが、わかったんです」


「彼女の調合ミスという可能性は、考えられないの?」


「えぇ。考えられません」


私は一呼吸置く。冷静に話すのだ。


「先生から譲っていただいた薬草と同じものを購入し、同じ調合で薬を作ったのですが、そちらには問題はありませんでした。

やはり、先生の薬草に問題があるとしか、考えられません。

実は、その真相を調べるべく、レベッカさんに依頼されて、私は今日、ここに来たのです」


私はじっと、先生の瞳を見据えた。口が渇き、テーブルの下で握った手は、すでにびっしょり湿っている。


鎌をかける、なんてこと、今まで行ったことがない。

どうか先生、ひっかからないで。

この嘘を見抜いて。

私はそこまで確信があって、あなたのもとに出向いたわけじゃない。

先生が、何もしていないなら、すぐに否定できるはずでしょう?

早く、答えて。


焦る私の気持ちとは裏腹に、先生は、黙っていた。

私の顔を見ながら。その静かな表情からは、どんな気持ちをも、読み取ることができなかった。


追求しているはずの私はすでに、息がつまりそうなくらいの心地なのに、どうしてそんな顔でいられるの。先生。どうか……。

 

「どう、思った?」


「へ」


「僕が、フランツ騎士団を陥れていると気付いた時、どう思った?」


先生は、テーブルに肘をつき、両手を顎の下で組みながら、温厚な笑顔を崩さず、言った。


それは、あまりに静かで、通常思い描くような真実の告白とは、大きくかけ離れていた。

それでも私は、その意味を解した時、胸を鋭い矢で射ぬかれたような、するどい痛みを覚えた。


「どう、思ったって……」


「色々あるだろう。意外だ、とか、悲しい、とか、そういう気持ち」


「……わからない、という気持ちです。先生がそんなことする理由が、だって先生は……」


「先生は?」


「先生は、私の、私の憧れだったから」


自分でも何を言っているかわからないくらい、その返答はちぐはぐなものだった。

私の声は震えている。しかし先生は、やはり冷静だった。

信じられないくらい、落ち着いていて、穏やかだった。


「シュナ、ごめん。僕は君を、利用した。薬草に細工したのも、冊子を抜いたのも、僕だ」


私は茫然と、前を眺めていた。神経の伝達回路が鈍っているのか、すぐには、先生の言っていることが理解できない。


先生は、ゆっくり語り出す。


「昨年度、僕が最高学年の担任を受け持つことが決まって、しかもその年に、フランツ騎士団のクルー公募があった。

これは、すごい巡り合わせだと思ったよ。

僕が、時代を動かす歯車の、原動力になれる日が来たんだと。

まぁ、原動力と言っても、微々たるものだけどね。

でも、それでもよかった。だってそうだろう?そういう力が、時間をかけて、少しずつ少しずつ合わさって、やがて大きな時代のうねりとなるんだから」


先生は笑みを浮かべ、嬉しそうに話していた。

それは、今までの笑顔とは全く別の、心からの喜びがあふれ出たような、そんな笑みだった。


「シュナ、民主主義って知っているかい?

王政が敷かれたこの国では、あまり聞かれない言葉だ。でも、遠くの国々では、少しずつ、この原理が用いられている。民衆の主導で、政治が敷かれることを指すんだよ。すごくないかい?

王様も、奴隷も、その原理を用いれば、すべてイコールなんだ。僕はこの考えに触れた時、衝撃が走ったよ。こんなことがあるん」


「先生」


呼び止めるように、先生の言葉を遮った。


「な、何をおっしゃっているんですか?それが、今回の件と、どう関係するんですか?」


先生は、我に返ったようにきょとんとした。そして、軽いため息をついた。


「ごめん。少し、急ぎすぎたみたいだね。話をもとに戻すよ。

僕は、今のこの王政が、少しずつ、悪い方向に向かっていると感じているんだ。

その一つが王国直属騎士団の存在。

強くもない、なんの努力もしない騎士団が、昔の名残で大きな顔をしてのさばり続けている。その象徴的存在がフランツ騎士団だ。

そこで僕は、そんな王政のほころびを、少しずつ広げていけば、やがて崩壊につながるのでは、と考えたんだ」


「王政の、崩壊……?」


「あぁ。その道具の一つに僕が選んだのが、君だ」


「私……?」


私の反応などよそに、先生は、よどみなく、スラスラと続ける。


「シュナ。君は正直、騎士には向いていないと思う」


面と向かって言われたその発言は、耳の奥で、こだまのように鈍く響いた。私の思考回路は、まだ、麻痺している。


「……君はお人好しで、優柔不断で、決断力がない。

才能も実力も、さほど、だ。そんな君がフランツに入ればきっと、綻びを大きくしてくれる。そう考えたんだ。だから、僕は、君をフランツに入れた」


「入れた……?」


「あぁ、この立場を利用すれば、本当に簡単だったよ。

内申点を高いものに操作し、最高ランクの生徒として、推薦状を送った。テストで君が一問でも解ければ、受かるような、そんなレベルのものにね。

面接は通ると思っていた。

君は真面目だし、思いやりもある。近年クルー入れ替えの激しいフランツはきっと、そういう波風を立てなさそうな人材を探していると、踏んでいたからね。

確かに君は、騎士に向かないほどのメンタル的弱さがある。でも、短時間の面接で、そこまでは見抜けない。そんな僕の読みは、見事に当たったんだ」


「読……み……」


目の前が、徐々に真っ白になる。が、先生は口を止めない。


「ただ、それだけでは弱い、とも思っていた。

君が騎士団で失敗して、綻びを広げていくのを、待っているだけというのもね。


だから、君宛ての封筒から、冊子を抜いた。

トラブルが起こりやすくするためだ。実際、それは上手く機能したようで、君は入団してすぐ、エマに手紙を書いていたね。学校宛てに送ってきたから、すぐわかったよ。中身までは読んでいないけれど、きっと愚痴かなにかだろう。順風満帆な人間は、就職そうそう、昔の友達に手紙など書かないからね」


私は、ただ、茫然としていた。

私には、彼の話が、まるで自分とは全く関係のない、背景で流れる音楽のように感じられた。

だって、そうだろう。道具、とか、機能した、とか、先生はまるで、当事者ではない、違う誰かに丁寧に語りかけているような、そんな口調で話している。


先生は、一体何を思い、温厚な笑みを崩さず、穏やかに話し続けているのだろうか。


次のことを考えるべきだ。

混乱した頭の片隅で、そんな気持ちがかすかによぎる。

先生は今、私に事の真相を話している。罪の告白をした犯人が、次に行うことはなんだろう。

私がこのまま、普通にこの部屋を出ることは、おそらくできない。

本当であれば、レベッカの時のように、相手の隙を伺い、短剣をいつでも取り出せるよう注意を払うべきなのだ。

わかっている。わかっているのだ。でもなぜだろう。何も考えられない。

先生の言葉一つ一つが、ドロドロと液化し、渦になって私の心に流れ込む。私は、それに溺れまいともがくだけで、次のことなど、考えられない。


彼は続ける。


「でも、それからが結構長かった。

僕は、君が1か月くらいで騎士団を去るだろうと思っていた。

『また、フランツのクルーが辞めた』なんて心象をみんなが抱けば、正直、僕はそれで十分だったんだ。事を急く必要はない。そうやって少しずつ少しずつ、フランツの評判を落とすことができれば、僕はそれでよかったんだ。


しかし、君は辞めなかった。

僕の予想に反し、君は一人、崩壊しかけの騎士団で、奮闘しているようだった。だから僕は、次の手段として、しびれ薬を使ったんだ。レベッカが、コロシアム用の薬草を欲していることは、知っていたからね。


でも、そのせいでこうして、君たちに勘付かれてしまっている。これは、僕の失敗だったと言わざるを得ないね……少々、焦りすぎたよ」


先生が、困ったように微笑んだ。

光で透ける灰色の髪に、深緑の落ち着いた瞳。

ずっと変わらない、私の大好きな表情。

でも、駄目だ。おそらくもう、先生は大体のことを話終えた。「次」がくるのだ。自らの生命の危機なのだ。

私は、自分を正気に戻そうと、太ももを思い切り、思い切りつねった。動かなければ。早く、早く!


鋭い痛みと共に、私は立ち上がる。

椅子が勢いよく倒れたが、関係ない。テーブル越しに、私は右手で構えた短剣を、先生の白く細い首筋に当て、見下ろした。


「両手を上げて、手のひらを前に!動かないでください。先生。私は、あなたを粛清しなければならない」


先生は、座ったまま、ゆっくり両手をあげる。先生は、静かに微笑んだままだ。


「うん。今の間の取り方、上手かったね。実力差のある相手と戦う場合、隙をついて先手を取る。これがもっとも有効だ」


私は、もう片方の手、左手にじわりと、魔力を集中させた。麻痺の呪文。先生の身柄拘束さえできれば、この場は収まる。そっと、印を組む。


と、その時だった。私の短剣ははじかれ、宙を舞った。瞬間、先生は立ち上がり、強く、私の手首を掴む。


「だが、君にはまだ無理だ。魔法を使う時、そちらに神経を使いすぎている。右手と左手。この場合だと、両方ともに注意を払わなければ」


短剣が、カランと音を立て、床に突き刺さる。私はすぐに掴まれた手首をねじり、それを振り切る。

と、同時に床を蹴り、間合いを広げ、短剣のもとへと跳ねた。


次の態勢を取る、そのふとした間に、目の前が一瞬ぐにゃりとゆがんだ。

足もとがふらつく。なんだ、これは。魔法を使われた記憶はないのに、この症状。幻覚?全くわからない。


鼻の奥が少々ひりついているのに、今更ながら気が付いた。

この空気が原因?部屋に仕掛けがあるのだろうか。だとすれば、一旦この空間から抜け出た方がいいのではないか。


私はすぐにドアに駆け寄り、ノブを引いた。開かない。駄目だ。閉じ込められている。


先生はゆっくりと、余裕の笑みを浮かべながらこちらに歩み寄る。

まずい。私は方向を変える。

足がもつれ、何かにつまずく。床に積まれた本が音を立てて崩れた。が、どうだっていい。ここから出なければ。目に入ったのは、窓だった。ここは確か、3階。


「大丈夫?」


先生の落ち着いた声が耳に触れたが、それはもう、私が決断した後だった。


私は短剣の鍔を握り、柄を前に向けると、勢いよく助走をつけた。床を蹴り、腕を振り、飛ぶ、一、二、三!!


――ガシャァァァン


鋭い音が、辺りを裂く。柄でガラスを叩き割り、私は自らの体を、空中へと放り出した。

ガラスのかけらと血が、宙に飛散していくのが見える。このまま地面に叩きつけられれば、間違いなく、死ぬ。


手を握る。冷静に、冷静に。呪文を唱える。


「この身を包め、プレベリア!」


淡い光が微かに見えた時、私は一気にそれを広げ、身にまとった。


――ガザザザザザッ


私は、校舎裏の植え込みに、背中から落ちた。光のベールのおかげで、衝撃は幾分和らいだようだ。


が、息を付いている暇はない。私は傷だらけの腕で地面を押し、体を起こした。左右の手足を振る。大丈夫。折れてはいない。走れる。


ここは、人のいる場所に出るのが得策だろう。目撃者が沢山いれば、彼だって、私を簡単には攻撃できない。一方私は、騎士団の名の下、戦える。運動場はどうだろうか。おそらく今は授業中。人はいるだろう。


立ち上がろうとした、その時。


「思い切ったね。見直したよ」


振り返ると、一歩ずつと近づいてくる、彼の姿が見えた。階段で下りてきたはずなのに、思った以上に早い。


私は立ち上がり、剣を構える。が、急に片足の力が抜け、地面に膝をつく。

視界もまだ、かすんでいた。だめだ。もう少し時間を置かなくては。これではまともに戦えない。


私は踵を返し、反対方向に駆けだした。この方向に進んでも、人目に付く場所には出られないのはわかっていた。

が、ここは一度、ちゃんと態勢を立て直したほうがよい。そのためには、相手と距離を置かなければ。


私は、砂利を蹴り、外と校内を分ける壁沿いに走った。

そうだ、そういえば、この辺りに裏門があったはずだ。そこからであれば、外に出られる。鍵はかかっていなかったはずだ。私は、よろめきながらも必死で走った。


裏門は普段からあまり使用されておらず、赤く錆びていた。

かんぬきには細い蔦が絡みついている。私はそれを乱暴に取り払い、重いかんぬきを両手でつかみ、体重をかけ引いた。動かない。ずっと力を入れ続けても意味がないと判断し、回数を踏んで、力を込めて一気に引くことにした。


かんぬきはなかなか外れない。錆の匂いは、血の匂い。私の手は、すでに錆びだらけだ。


勢いをつけ、四度目でようやくそれは、ゴロンと音を立て、地面に落ちた。

体全部を使い、門を押す。私が出た先には、胸の丈くらいまで伸びきった柔らかな草が生い茂る、なだらかな丘であった。


私は駆ける。この丘を下れば、森がある。なんとかそこに身を潜められないだろうか。


と、突然、足の裏が地面に張り付く。

突然のことで、私は前につんのめった。

上がらない。もう一度試すが、やはり上がらない。

なぜ?と考えた次の瞬間、全身の力が一瞬にして抜け、私はガクンと、地面に頭から倒れ込んだ。


目は、うっすら開く。音も聞こえる。

でも、体だけが動かない。

遠くから、足音が聞こえる。ザッ、ザッと、ゆっくり、でも確実に、こちらに近づいてきている。


「効きはじめるのに、5分ちょっと、といったところか。少しかかるな」


つぶやく声と共に、足音が止まる。私の目線の先には、大きな薄い影が一つ、落ちている。


「シュナ、お疲れ様。つかの間の逃亡劇だったね」


先生は目の前でしゃがみ込むと、私の顔を覗き込んだ。サラサラと風が、私達の間を通る。草も、それに伴い、揺れる。


「最近僕は、性別によって効力が異なる薬品の研究しているんだ。

レベッカに譲った薬草は、男性のみに効くものだったけれど、今回のは、女性のみに効力のあるもの。神経麻痺の薬を、お香みたいに部屋で焚いてみた。

少々匂うのが難点だけど、まぁ、うん。この形はなかなかいいかもね。軍部に売れるかもしれない」


そう言うと先生は、私の顔にかかった髪を、そっとまくった。


「唇。血が出てる」


倒れた時の衝撃でなのか、唇からは血が滲み、髪がにぺったり張り付いていた。それを先生は、人差し指で触れ、丁寧にはがす。


「そんなに全力で走らなくても。僕は別に、君を殺したりはしないよ。

だって、レベッカ達も知っているんだろう?君が僕のところに来たこと。今君を殺せば、僕は犯人ですと、公言しているようなものじゃないか」


そういうと先生は、ズボンのポケットから小瓶を取り出した。

手のひらに収まるくらいの、本当に小さなもので、中には、無色透明の液体が入っていた。

それが何なのかは、全くわからない。先生はコルクの蓋を開けると、片方の手で、私の口に手を入れ、そっと広げた。


「傷口に沁みないよう、飲ませてあげるよ」


独特の刺激臭からも、それは毒薬なのだろうと推測できた。

瓶の口が、ひんやり頬に触れる。

もう、どうすることもできない。


先生……私は……最後まで……


液が唇に流れ落ちようとする、その瞬間。


目の前を走り抜ける、細い光の矢。

パンッという音と共に、小瓶は勢いよくはじけ飛んだ。


「次は頭よ。その子を放しなさい」


鋭い声が響く。聞き覚えのある声。


「君は……。へぇ。その距離から当てるとは……。素晴らしい。さすが、フランツ騎士団の黒魔道士、といったところかな」


先生は、手を抑えながら立ち上がる。遠くまで聞こえるようにか、いつもより声を張り上げている。


「バカにしないで。その子から離れなさい」


足音が近づく。草と草の間から、遠くにうっすら、ピンクブロンドのなにかが揺れた。

リリア?……リリア、リリアだ。私を助けにきてくれた?でもどうしてここが……。


「かっこいいね。颯爽と現れるヒロイン。でも、君は今、非常に不利な状態にあるの、わかっているよね?

その魔法、準備に手間がかかるものだ。瞬時に何発も撃てないんだろう?それに、こちらには人質がいる」


そう言いながら先生は、ポケットからそっと小刀を取り出す。

柄を抜くと、横たわる私の首元に、薄い刃を突き立てていた。



「こうなれば、シュナを殺す方が、手っ取り早いかな。それ以上近づくと、危ないよ」


リリアの足音が止まる。私はなんとか腕を動かそうともがくが、一向に力は入らない。


だめだ。私はまた、みんなに迷惑をかけている。

今回だって、かないもしないのに一人で先生の元に行き、結果、このザマ。明らかに判断ミスだ。

「騎士に向いていない」、先生のその言葉は、正しかった。


涙で視界がぼやける。こんな時に泣いたって仕方がないのに。私は、本当に、本当に、弱い。


その時だ。


突然ガサッと後方から音がした。動く大きな影。

先生が刀を振り上げる。


何事かと思った瞬間、キィィーンと、金属同士のぶつかる音が、辺りにこだました。


「うちのクルーに、手を出すなぁぁぁ!!!」


先生は、勢いよく吹き飛ばされた。私の顔の隣には、見覚えをある靴が地面を踏んでいる。首は動かないため、目線だけを上げてみる。


そこには、必死の形相で剣を構える、ロベルの姿があった。


「……!」


ほとんど動かない口から、声にならない空気の音が出た。

嘘だろう。ロベルが、あのロベルが戦っている。


息は、すでに上がっていたが、それでもロベルは叫びながら、畳み掛けるように先生に飛びかかった。またもや、刃と刃がぶつかる音が響く。


「シュナ!!」


その隙にリリアが、私のもとに駆け寄った。私の体が動かないことがわかると、彼女はしゃがみ込み、私の腕を自らの肩に乗せ、立ち上がろうとした。

声が出ないのをわかっていながらも、私は言う。


「リリ、ア……ご、めん……」


「はぁ?!そんな声じゃ何言ってるかわからないわよ。黙ってて!」


リリアは、汗ばんだ手で私の腕を、自らの首に巻き付ける。

が、彼女は私より小さい。運ぶことなど到底できないのだ。それでもなお、彼女は歯を食いしばりながら、私をなんとか負ぶい、腰を上げた。


――ドサッッ


どこからが、打ち付けられるような音が響く。すぐさまそちらへ視線を向けると、今度はロベルが、地面に倒れていた。


「ロベル!!」


リリアが叫ぶ。先生は、口に入った泥を、乱暴に吐き出した。


「全く、舐められたものだ。君ごときの力で僕に挑むなんて。これでも僕は、魔法学校の教員。一般人よりは、戦闘の心得はある」


彼はそう言いながら、じりじりと一歩ずつロベルに迫る。


「一旦離すわよ!」


そういうとリリアは私を乱暴に地面に置き、すぐさま呪文を唱え始めた。

先生は歩みを止めようとはしない。そして彼がロベルの前に立ちはだかり、剣を振りかぶったその瞬間――


「劫火よ集え フォーコ・ダンシン!」


リリアの声が響くと同時に、一瞬にして、辺りに火の海が広がる。が、いつもより威力は抑えられている。敵は、ロベルと一緒にいるからだ。


しかし、隙を作るのには成功したようで、先生は炎を防ごうと反射的に手で顔を覆った。その隙にロベルは、這うように、炎から抜け出る。


「くっ……」


先生はその場でしゃがみ込み、手を膝についた。息もだいぶ荒く、苦しそうだ。リリアが戦闘に加わった以上、形勢は一気に変わる。


が、私には確かに見えた。先生が口をふさぎながらも、もう片方の手で印を組んでいくのが。


リリアが次の一手をと構えた時、突然、すさまじい強風が、私達の間に吹き抜けた。砂ほこりや葉が、まるで刃のように、私達の視界を駆け抜ける。反射的に閉じそうになるまぶたを、私は必死にこじ開けていた。


風の向こうの、先生が見える。彼は空を見上げ、とたんに表情を変えた。彼はふっとほほ笑み、こう言った。


「ごめん、君たち。一度、退散させてもらうよ。僕の、負けだ」


先生の口が動く。が、それ以上は、風の音で聞き取れない。ますます強まるその風圧に、思わず一瞬目を閉じる……。



そっと、まぶたを開く。


しかし時すでに遅し。先生はもう、その場には居なかった。


「目くらましの呪文を……もうっ!もう少しで捉えられたのに!」


リリアはそう言いながら、悔しそうに足裏で地面を蹴った。ロベルはこちらまで走り寄った瞬間、滑り込むように、地に体を投げ出す。


「はぁ~。なんとか生き延びられた~」


「もうっ!!あんた剣士でしょ?白魔道士にやられてどうするのよ?!」


「そんなこと言われても……はぁ~、あっ、シュナちゃん、大丈夫?」


ロベルは寝転がったままで、私を覗き込んだ。そのいささか間の抜けた声に、思わず表情が緩む。


「シュナ、あんた、顔の筋肉は動くんじゃない!」


リリアは驚いたような、あきれたような口調で、そう言った。

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