第10話

こんなところに家があるなんて、正直信じられなかった。

確かに、比較的魔物の少ない安全な森だった。

しかし、こんな奥深くでは、資材を運ぶのも一苦労だったのではないだろうか。


私は、カイにもらったメモを見直し、ここであることを今一度確かめた。といっても、こんなところにある家なんて一つしかないのだから、これで間違いはないのだろうけれど。


その家は、巨木の上に作られた、いわゆるツリーハウスであった。しかも一つではなく、まるで「家のなる木」のように、幹を中心に3、4個点在していた。

小さい頃、「秘密基地ごっこ」をした際に、枝や板を集めて、これまがいのものを作ったことはある。しかし、こんなしっかりしていて、細かく手の込んだものを見るのは初めてだ。


太い幹に備えられた螺旋階段。そこから伸びる枝と枝の間には板が渡され、その上に小さな小屋がある。小屋と小屋の間は、橋やロープなどで直接行き交うようにできていた。 


この大樹自体が、おそらく何万年も前からあるものなのだろう、幹も枝もすっかり蔦が絡まり、苔むしている。そしてそれは、小屋も同じだった。その住居設備はすべて、巨木と一体化しているようだった。


森の奥ということもあり、初夏のわりに肌寒く、全体的に薄暗い。が、ところどころに木漏れ日が差し込んでおり、濡れた苔が光できらめき、美しい。

奥の陽だまりでは、猫が一匹、体を丸くして眠っていた。


巨木のすぐそばには、古びた石製の井戸がある。同じく苔むしているが、釣瓶などは比較的新しい。私は、釣瓶の部分を握り、上下に三回、引っ張った。これは、カイに指示されたことである。


「レベッカはかなり警戒心が強い。普通の人間が急に訪ねてきても、決して迎えたりはしない。

複数の人間で行けば、たとえそのうちの一人が知り合いであったとしても、彼女は絶対に会わないだろう。

あいつに会うためには、一人で行く必要がある。そしてある手順をふまなければいけない」


カイの言葉が頭をよぎる。私は家の方を振り返り、窓の辺りを見た。

特に誰かが見ているような気配はない。この手順を踏んでいったところで、誰も見ていなければ意味がないのではないか、ふと、そんな風に思ったが、とりあえずやっていこう。


もう一度、メモに目を落とす。釣瓶を引いた次は……井戸の周りを三周回る、とある。周り終える。その次は……巨木を蛙飛びで三周回る。蛙飛び、か。


もしこれを、通りすがりの誰かに見られたら、確実に不審者だと思われるだろう。

でも、仕方がない。


私は荷物を地面に置き、ぴょんぴょんと膝を曲げ、蛙飛びをした。この家を訪ねる時、カイも毎回これをしているのだろうか?正直、想像がつかない。


その後も私は、与えられた命令を着々とこなした。丁度7つ目の工程、「井戸の底めがけてヤッホーと叫ぶ」を行い、顔を上げた時だった。

私の足もとに、一匹の黒猫がちょこんと座っているのに気が付いた。先ほど、奥で日向ぼっこをしていたやつだ。触りたかったが、8つ目の工程「巨木に向けて全力タックル」を優先させるべきだと考え、そっとそばを離れた。


「律儀なやつだなー。20工程全部やる気か?」


タックルのための助走の最中に突然、そんな声が聞こえた。私は驚き、足を止める。どこから聞こえたのだろう。


「こっち、こっちだよ」


声は井戸の方から聞こえる。見ると、先ほどの黒猫が、井戸の縁に、腰を下ろしていた。


「おまえ、初めて見るやつだけど、これを知っているってことは、誰かのお使いで来たのか?」


黒猫はすとんと井戸から下りると、私のもとへ寄ってきた。私は、今起きている状況がつかめず、ぽかんとしていた。


猫が、普通に、しゃべっている。


「おい、ぼんやり口開けてないで、何とか言えよ。無視かよ」


はっと我に返る。


「あ、いえ、すいません」


「すいませんもいいけど、どこのもんだよ」


「あ、はい、私、フランツ騎士団の白魔道士で、シュナ・ポートマンと言います。フランツ騎士団の槍使い、カイに教えてもらって、ここに来ました」


「へぇ、無口なカイも、若い女の子には弱いんだな。

あいつが他人に頼みごとをしたってのは、ちょっと信じられねーが。ま、いいか。おまえの律儀さに免じて、入れてやるよ」


そう言って黒猫は、巨木の螺旋階段へと歩いた。私もそれに、付いていく。


「あの、話すの、お上手なんですね。あ、すいません。私、猫がしゃべっているところ、初めてみたもので」


「まあな。レベッカに教わったのさ。あいつ引きこもりだから、話す機会もないの。ほら、声って出さないと、そのうち出せなくなるだろう?だからやつは、手軽な話し相手が必要だと感じ、俺を訓練したのさ」


「そうなんですか!でもすごいです。話せるようになるまで、きっとご苦労なさったんでしょうね。努力すれば、なんでもできるようになるものなんですね」


私は心から感心し、少し勇気ももらった。

猫ですら、訓練次第で話せるようになるのだから、私だって頑張れば、もっとちゃんとした魔道士になれるのではないだろうか。



螺旋階段を上がってすぐの、最初の小屋の前で、黒猫は歩みを止めた。


「ほら、ここだよ。ちょっと待ってな」


黒猫は、ドアの下に空いた、猫用の小さな蓋付き穴をスルリと抜けた。そして小屋の中に入ると、ジャンプをした。コツンという音か聞こえる。


「鍵開けたぜ。入りな」


私は、おそるおそるドアを開ける。その瞬間、様々なハーブやスパイスの香りが鼻に飛び込んできた。


中は思っていたより広く、少し埃っぽかった。

茶色い古びた戸棚が、片側の壁一面に並んでいる。

その棚ひとつひとつに、緑や青の液体が入った小瓶や、鉱石などと共に並べられていた。

戸棚の向かいは簡易なキッチンになっており、その横のカーテンレールには、ドライフラワーがぶら下げられていた。


一歩ずつ、きょろきょろと周りを伺いながら進む。奥の角を曲がると、暖炉の前で安楽椅子を揺らしながら読書をする、一人の女性の姿があった。


「あの、レベッカさん……ですか?」


おそるおそる声をかけたものの、私は自分から名乗るべきだったことに気が付く。


「あ、私、シュナ・ポートマンと言います。フランツ騎士団の」


「さっきニコルから聞いたわ。座って」


私の言葉にかぶせるように、彼女は言った。鈴の音のような凛とした、しかし深く落ち着いた声。彼女は、丸テーブルを挟んだ向かい側の小さい椅子に、目線を向けた。私は一礼して、それに腰を下ろす。


黒いロングヘアの彼女は、白いレース生地のヘアバンドを巻いていた。

本を閉じ、テーブルに置くと、スッと私の顔を、真正面から見た。

青く澄んだ瞳。その美しさに耐え兼ね、私は視線を膝元に落とす。が、やはりそれではいけないと思い、顔を上げた。


「カイの紹介で来たんでしょ?

私はレベッカ。かつてあなたと同じ騎士団で、白魔道士をやっていたものよ。お茶を入れるわ。ちょっと待ってて」


彼女は音もなく立ち上がると、そのままキッチンへと歩いて行った。

お茶を、出されるのか。

私は改めて思った。そして考えた。飲むべきか、飲まざるべきか。

彼女が故意に、カイの薬にしびれ薬を混ぜたとすれば、彼女は確実に「敵」だ。敵のふるまうものを口にはできない。しかし、現時点ではそれがわからない。


「おまたせ。どうぞ」


テーブルの上に置かれた白いティーカップには、紫色の透き通った液体が入れられていた。

香りはない。

これは、お茶、なのであろうか。


私は最初、話が終わるまで置いておこうと思った。が、椅子に座った彼女が、あまりにじっと私を見つめてくるので、仕方なく手に取り、唇だけ、カップのふちに付けた。飲んだ振り、である。


「ところで、今回はどんな御用で来たの?」


緊張が、私の体を走る。手が汗ばむ。しかし、尋ねなければここに来た意味がない。


「はい、あの……薬についてです。カイの薬」


「薬?私がカイに渡したもの?」


「はい。コロシアム用の」


「あぁ、あれ。それがどうしたの?」


 レベッカは、顔色一つ変えず、淡々と答えていた。だんだんと心拍数が上がる。言いにくいことを言うのだから、当たり前だ。


「……あの、非常に申し上げにくいんですが、その……薬の調合に、間違いはありませんでしたか?」


「間違い?なぜ、そんなことを聞くの?」


眉を寄せ、首を傾げるレベッカさん。

私は深く、息を吸い込んだ。


「試合中に彼は、その薬を使いました。その瞬間、彼の体が麻痺して、動けなくなったんです」


「……麻痺?」


彼女は瞼を上げる。


「はい。結果的にフランツ騎士団は、1回戦で無名の騎士団相手に負けました」


「なんだよ、おまえ!!」


さきほどの黒猫がテーブルに飛び乗り、話に割り込んだ。


「さっきから黙って聞いてりゃ、おまえ!レベッカが毒を盛ったって言いたいのかよ!」


そのあまりの剣幕に、思わず押される。だが、ここで引き下がってはいけない。


「し、正直、その可能性もある、と考えています。もちろん、調合ミスの可能性も。ただ、一つ確かなことは、その薬を使った直後に、カイが、動けなくなったということです」


「おい!いいかげんに」


「ニコル、黙って」


黒猫の言葉を遮るように、彼女は言った。


「それを、確かめにきたのね。あなた」


「……はい」


レベッカは指先を顎に当て、少し俯いた。何か考え事をしているようだ。

私は、ポケットに忍ばせていた短剣の柄に、そっと触る。何があっても、動けるように、だ。


「私がカイに渡した後、その薬が差し替えられた可能性はないの?」


「はい。カイは肌身離さず持ち歩いており、寝る時なども自室の鍵付き金庫に保管していたため、可能性は低い、と、彼自身、言っていました」


「……そう」


レベッカは軽くため息をつくと、立ち上がった。

そして私に入れてくれたお茶のカップを手に取り、一気に飲み干した。その姿に、思わずギョッとする。彼女は立ったまま、こちらを見た。


「だからあなた、私を異様に警戒しているのね。お茶にも口をつけないし。これでも私、フランツの一員だったのよ。疑われるなんて侵害だわ」


「なんで、フランツをお辞めになったんですか?」


「なぜ、そんな話を?」


彼女がカップを勢いよくテーブルに置く。


「あぁ、あなた。

もしかして私が、フランツともめた結果、辞めたとでも考えたの?それでその腹いせに、フランツを陥れようとしている……なんて。まぁ、動機としては、自然ね」


私は口を真一文字に結び、黙っていた。


「そうね。もめてはいないけれど……確かに私は、自分の意思で辞めたのではないわ。辞めさせられたのよ。ロベルに懇願されて、ね」


「ロベルに?」


「えぇ。私、クルーの中でも特に、ロイと親しかったから。ロイが死んで、ロベルが入った時も、私は、彼の中にずっとロイを探していた。彼には、それが耐えられなかったんでしょう」


ロイ?死んだ?一体彼女は、なんのことを言っているのだろう。


「あの、ロイって、どなたのことですか?ロベルのことではないですよね?」


「あなた、そうか。あなた新人さんよね。知らない、のね」


レベッカは、小さくため息をつく。

彼女の足もとでは、ニコルと呼ばれていた黒猫が、ロングスカートの間から覗く彼女の足首に、顔をこすりつけていた。そんな猫を彼女はそっと抱き、膝にのせる。


「ロイは、いわゆるロベルの影武者よ。フランツ家の跡取りが、あまりに出来が悪いからって、代わりに連れてこられたのがロイよ」


「……影武者?」


すんなりと理解はできない。影武者って、あの、身代わりをするための……?

王族ならともかく、騎士程度の人間に、影武者をつけるなんて、正直、聞いたこともない。


「納得できないって顔ね」と言いながら、レベッカさんは口角を上げ、話を続けた。


「確かに、そうね。一般人に影武者は不必要だわ。でもフランツは、王国直属となる前から、名門の騎士家系だったの。

何代にもわたって、その長男は騎士団キャプテンとしてフランツの名を継ぎ、成功してきたわ。その伝統と名声が、影武者を必要としたのね」


正直、信じがたい話だった。しかし、納得できる話でもあった。


コロシアムでの戦いぶり、リリアの救助、そしてドラゴンとの死闘……それらの行動は、ロベルとは別人によるものだった。そう考えると、様々なことが、腑に落ちる。


「ロイは、先代当主、ジゼル・フランツの姉の子よ。武術の才能があって、容姿はロベルと瓜二つ。しかも同い年。影武者にはもってこいってところね」


彼女は静かにニコルを撫でていた。ニコルは気持ちよさそうに、膝の上でくつろいでいる。


「でも、彼は、ロイは、もういない。あの日、私をかばって、ドラゴンの餌食となった」


一瞬、息を止める。

ドラゴン……例のレッドシークドラゴンのことだろう。雑誌にも載っていた、あの戦い。その時庇われた、仲間がいた。


「……白魔道士。ロベルがかばった白魔道士って」


「私よ」


彼女は声色一つ変えず、淡々と言った。しかし、猫を撫でる手は止まっていた。ニコルは催促するかのように、彼女の手に顔をこすりつけている。


「……話を戻しましょう。さっきのあなたの予測。確かに辞めさせられたという結果だけで推理すれば、私がフランツを恨んでいると思われても仕方ないわね。

でも、私は違う。私はロイに、命を救われたの。そして誓ったわ。この生かされた命で、ロイの意思を継いでいかなければならないって」


「ロイさんの……意思?」


「えぇ。ロイは、影武者という立場でありながらも、フランツ騎士団のことを本当に思っていた。

彼、口癖のように言っていたわ。自分はフランツのおかげで、こんなに素晴らしい人生を送らせてもらっているって。だからこそ、その恩に報いるために、フランツを守り続けなければって」


「フランツを、守り続ける……」


「このフランツっていうのは、おそらく、フランツ家や、騎士団クルー、そしてロベルのことも含まれていたと思うの。フランツに関するすべてを、彼は愛していた」


レベッカは、目を細める。


「だからこそ、私は、ロベルに騎士団を辞めてほしいと言われた時も、すんなり受け入れたの。

ロイの『守るべきもの』の中に、ロベルもいる。そんな彼が、私の脱退を望んでいるのであれば、ってね。フランツを守る手段なんて、団に属していなくても、いくらでもあるわ。だから、その要請があった3日後には、私は、団を抜けた」


「でも、レベッカさんは、とっても優秀な白魔道士なんでしょう?なぜロベルは、そんな人材を、みすみす手放すようなまねをしたんでしょう?」


彼女は、少し黙り込んだ。その後、そっと口を開く。


「私が……ロイと彼を比べすぎていたから、じゃないかしら。

ロイが死んだ後、フランツ騎士団はしばらく活動を休止していたの。表向きには、『ロベルの治療』のためとしてね。

その間にロベルに武術の猛特訓をさせて、ロイに代わり、本物のロベルをロベルとして、騎士団キャプテンに据えたの。でも、そもそも彼は、武術は苦手な上に、キャプテンの器ではない。活動休止中に、黒魔道士が辞表を出したわ。ロイのいないフランツで働いても、意味がないって」


「……そんな」


「仕方ないことよ。それほどロイは、人を引き付けるカリスマ性にあふれた人間だった。ま、黒魔道士の意見はわからなくもなかったけど、ロイの思いを受け継ぐためにも、私とカイは残ったわ」


「カイも、ロイさんの時代からフランツにいたんですね」


「えぇ。カイは自分の感情をあまり表に出さない人だけど、ロイのことは信頼していたわ。そこに、何も知らないお嬢ちゃん、リリアが黒魔道士として入った。新生フランツの誕生ってわけ」


「新生、フランツ」


私はつぶやく。彼女は、えぇ、と返答しながら、ふと、目線を窓の外にやった。


「自分で言うのもなんだけど、私、すごく頑張ったのよ。ロベルのサポート。

日々の会話だって、私から率先して話を振った。

信じられないでしょう?こんな私が、自ら話しかけていたなんて。戦闘時も、私がすべて、彼の動きを指示した。補助もしたわ。でも、ロベルには、それが反って煩わしかったんでしょうね」


「煩わしい、ですか?」


「ええ。でも、今だからわかる。私は、ロベルのためでも、ロイのためでもなくて、自分のためにそうしていたんだって。『ロベル』を、『ロイ』にするために、自分の理想に作り上げるために、そうしていたの」


彼女は、少し遠くを見るような目をした。


「だって、ロベルは本当に、ロイにそっくりなの。あくまで外見上だけだけどね。

ロベルを見ていると、ロイの死が嘘に思えることが、何度もあった。

だから私は、彼をロイにしようと躍起になっていたのだと思う。

そうすることで、私自身の罪、ロイを死なせてしまった罪を、忘れることができる、気がしていた、から」


レベッカは、ふーっと長いため息をついた。暖炉からはパチパチと、薪がゆっくり、燃え尽きていく音が聞こえる。


「でも、ロベルにはそれを見抜かれていたんでしょうね。

ある夜、私はロベルに呼び出された。閉店間際の、サイモンホテルのパブ。そこで、頭を下げられたわ。どうか、騎士団を辞めてほしいって。

ロベルはこう言っていた。私の気遣いが苦しいって。自分はどれだけ頑張っても、ロイには追いつけないって。その時初めて、私は自分の過ちに気付いたの。だから、すんなり、フランツを辞めた」


そう言うと、レベッカは黙って椅子から立ち上がった。ニコルは驚き膝から飛び降りる。彼女は台所に進むと、薄い皿を取り出し、ミルクの瓶を手に取る。


「ロベルには悪い事をしたと、今でも思ってる」


ミルクを注ぐ手が、ふと、止まった。


「彼はきっと、つらかったのでしょうね。

ロイの死後ですら、ずっと彼の幻影に取りつかれて。……どんな気分なんでしょうね。自分より優秀な自分の分身が、ずっと隣にいるのって」


私は、発する言葉を失っていた。


自分より優秀な自分の分身。

きっとロベルは、幼少期からずっと、ロイと比べられ続けていたのだろう。自分の価値を見いだせない、そんな環境に閉じ込められていたのだろう。


だから彼は、その反動で自慢めいた言動をするのでは、と思った。

自分の弱さを隠すために、軽口をたたいて、虚勢を張って、必死で、明るく振る舞っている。


コロシアムで会った、ロベルのお父さんとお母さん。それらを想像に含めるとなお一層、彼の息苦しさを感じることができた。


「……話が、長くなったわね。

誰かと話す機会もないから、つい、ペラペラ話してしまったわ。

でも、これでわかったかしら。

私には、フランツを陥れる動機がないってこと。フランツを守り続けたい……今はこんな暮らしをしているけれど、私の信念は、今も昔も、何一つ変わってはいないの」


彼女は、皿を床に置いた。ニコルがすばやく駆け寄ってくる。

ミルクを飲むニコルの背を、優しく撫でる彼女を見て、なんとなく感じた。しびれ薬を混入させたのは、彼女ではないのだろう、と。


「あの、長居してすいませんでした。もう一度、考え直してみます」


私は立ち上がり、ショルダーバッグを肩にかけた。

こうなれば、薬をカイが受け取ってから使うまでの間。その間のことをもう一度、徹底的に調べてみるしかない。


「あら、帰るの?私の疑いは晴れたってことかしら」


「申し訳ありませんでした……また、調べて、何かわかればご連絡します」


私は深々と、頭を下げた。


「そう。私の方も、調べてみるわ。毒味もしたけれど、万が一ということも考えられるから。材料調達の段階から、疑わしい可能性がないか、順を追って確かめてみるわ」


「ありがとうございます。ところで……参考程度に伺いたいんですけど、薬の材料は、どこから調達されているのですか?」


ドアに向かう間に、私は尋ねた。

私も、同じ場所で同じように材料調達し、原因をさぐることを思いついたからだ。


「色々よ。自分の畑で作るものもあれば、普通の店で買う時もある。譲ってもらう時もあるわ。今回のものは、畑のものと、譲ってもらったものと、両方使ったと思う」


「譲ってもらう?」


「えぇ、古い友人でね。信用できる人よ。

普段は教員をしているんだけど、薬についての研究も行っているの。彼の調合は本当に素晴らしくて、たまにここに招いて、お互いの知識を共有しあうのよ」


教員で、研究者。私は、ドアを開けたところで、足を止めた。


「あの、その方のお名前って」


「クレインよ。クレイン・アドリーク」


「クレイン、アドリーク……」


なじみの名だ。その名を、こんなところで聞くことになるなんて、思ってもみなかった。


クレイン・アドリーク。

クレイン先生。あの、クレイン先生だ。


外から急に、強めの風が吹き込んだ。ドアが押され、部屋に引き戻されそうになったが、私はノブを握り、ドアが閉じないよう力を込め、耐えた。


部屋に流れた風は、棚の小瓶をカタカタと揺らしたが、すぐに止んだため、何も倒れはしなかった。


「なんだか、空も曇ってきたわね。嵐でも来るのかしら」


レベッカは、見送る際に空を見上げ、そう言った。

雲行きが怪しい。だが、立ち止っているわけにもいかず、私は、レベッカに別れを告げ、はしごをつたい、巨木の根本へと降りた。


「あなた」


私が歩き出した瞬間、上から声が降ってきた。そっと振り返る。ツリーハウスのドアの前には、ニコルを抱えたレベッカが、私を見下ろしていた。


「あなたは、フランツにふさわしい人ね。

こんな騎士団でも、愛してくれているんだもの」


その声は、離れた場所にいる人間に呼びかけるにはふさわしくないくらいの、たいして大きくない声であった。しかしなぜが、私にははっきりと聞き取れた。


胸が熱くなる。


ふさわしい、人。


その言葉を、心の奥でかみしめながら、私はもう一度、彼女に向かって大きく頭を下げた。

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