23 ツンとデレの近づく温度

 りく乃とは違い明らかに有害物と判断された誘拐犯たちは、屋上組も地上見回り組も全員最早神速でボコられ縛られてそれぞれの場に一纏めにされていた。さすがは王子院家のエージェントたちだ、仕事が早い。

 一方、マット上に倒れ込んだままの王子院は幸せそうににへらっと笑った。


「君のこういう無下な所に甚だ安心する」

「黙れマゾ変態」

「だがしかし君はこんなマゾで変態ちっくな俺を嫌いじゃないんだろう?」

「なっ……」


 図星だったせいでりく乃は動揺を見せたが、そこはやはりこれまでの経験値の賜か、半眼になって王子院を睨んだ……かと思えばふっと気が緩みでもしたように表情を和らげる。


「まあ、たとえ天地が引っ繰り返っても私がしのりんを好きなのは変わらないし、王子院も橘美影を好きなのは変わらないだろうし、私は私だし、あんたはあんただし、やっぱり未だに地面は足の裏にあるでしょ」

「ああ、それが?」


 正直な所彼はりく乃が釣れない答えをくれるのだろうと経験から嬉しくない予測をしていた。


「でも確かに一度天地は引っ繰り返ったじゃない?」

「ああ、……え?」

「王子院はまともじゃないアニオタだけど、私に対しての気持ちはまともだったんだよねってわかったから」

「美影たん……?」

「少しだけ、あんたのための隙間を作ってもいいかなって」

「美影た……――りく乃おおお!」


 感激して飛び付こうとした王子院はふかふかして不安定なマットに足を取られ大きく体勢を崩した。


「おっおっおーッ!?」

「王子院!」


 オットセイのような奇怪な声を上げよろめいた彼をりく乃は反射的に腕を伸ばして支えようとした。しかし彼女も同じマットの上なのだ。

 急に動いたせいもあって同じく不安定な体勢になり、倒れ込んできた少年を支え切れずに二人一緒にマットの上に沈んだ。

 少しだけ気掛かりそうにマットの上を覗き込んだ護衛たちは、一様に手で額や口元を覆った。


「…………」

「…………」


 りく乃も王子院も言葉もなく相手の目を見つめていた。

 たった今自分の身に一体何が起きているのか俄かには信じられなかったのだ。

 感覚ならある。


 相手の唇が自分のそれに当たっている確かな感触ならば。


 事態を認識し、見る間に真っ赤になる少年と見る間に蒼白になる少女は何とも好対照に周囲の目には映った。


「何てベタなお約束展開……。ですが坊ちゃん初キスおめでとうございます」


 護衛の誰かが感極まったようにそう口にした。他の護衛たちも感涙に濡れた目元をハンカチで拭う。

 彼女がいた事はあっても何故かキスの一つもしなかった王子院は、よりにもよって現在まだ彼女でもない相手と決めてしまった。

 互いに呆然としたまま未だ動けずにいたのは果たして良かったのか悪かったのか……。

 先に自分を取り戻したのはおそらく王子院の方だった。

 呆然として僅かに身を離した彼はこの上なく近くにある愛しい少女の顔に我慢できなかった。


「りく乃……」


 小さく囁いて離したはずだった距離をゼロにした。


 ――直後。


「……離れろ」

「もももがもがもがっがーーーーッ!?」


 うっかり不埒を仕出かした相手からガッと骨同士が当たる音が出そうな瞬速で顎を鷲掴まれ、彼は唇を強制的に離された。気のせいだろうが、逆光のように翳ったりく乃の両眼がファンタジーの魔王のように赤く光って見えたという。それ程に畏怖と恐怖を与えられたのだと彼は証言する。


「どさくさに紛れてもう一度するとは良い度胸だな、王子院アホツキ」

「ほ、ほほへはひゃあいは? はひゃひゅひひゃ」

「日本語を話せ」


 王子院はこれのせいこれのせい、との意を込めて凄むりく乃の手を軽く何度か叩いた。

 彼女は「ああ道理で」とあっさりと手を外す。


「お、覚え間違いか? 暁だ」

「貴様にはアホツキで十分だろ。バカツキでもいいがな」

「いやだから……」

「ならエロツキか?」

「え、あ、じゃあアホで……」


 途中で抗する気力が萎えたのは、りく乃の目付きがサイコ映画の中の殺人者のそれだったからだ。

 しかし王子院はある一点において心から予想外だった。


「正直な話、即刻ビンタされるかと思ったんだが」

「へ~え、ふう~ん、ビンタされるって思っててもキスしてきたんだ~」


 墓穴を掘る馬鹿と書いて王子院暁とルビを振る。もしくはその逆でも可。

 睨むのをやめてむくりと起き上がったりく乃は疲れたような溜息をついた。


「時に王子院、私に言う事は?」

「後悔はしていない!」

「反省しろ!」


 乾いた叩音が高く上がった。


 頬に赤い手形を付けた王子院は患部を擦りながら自身の身長以上はある厚さのマットから軽やかに飛び下りた。即座に振り返りまだ上に居るりく乃を受け止めようと両手を広げたが、足を挫いても嫌だった彼女は慎重を期してか、マットの縁に腰かけるような姿勢から一人で滑るようにして華麗なる着地を決めた。


「うん、予想はしていた」


 寂れた場所で風に揺れる笹竹のような気分で王子院は両腕を下げる。


「坊ちゃん、相原さん、ご無事でようございました」


 二人が声のした方に目を向ければ、そこには黒いリムジンを停めその横に佇む男性運転手澤野の姿があった。


「お迎えに上がりました」


 彼は静かに後部座席のドアを開けて二人を車内に促してくる。


「ええと……」


 帰りの足は確かに必要だがまさかのリムジンかと戸惑うりく乃へと、王子院は小さく苦笑してポンと軽く背を叩いてやった。


「細かい事は気にせず帰ろう、りく乃」


 派手に平手打ちを食らわせた手前、しばし気まずそうに彼を見ていたりく乃だが、当の本人が全く気にしていないようなのでひとまずは了承に頷いた。

 澤野の促しで先に乗り込んだ王子院に車内から手招かれて、微妙に羞恥を感じていたりく乃は一人口の中で言葉を転がした。


「……何だ、全然平気そうなの」


 その声音がどこか拗ねたような響きを孕んでいるのに、りく乃本人は気が付いていない。

 リムジンに乗って走り出した車内では、王子院の隣りに座るりく乃は眉根を寄せたまま彼女からはしばらく言葉を発さなかった。王子院の言葉にうんとかすんとか短く答えるだけだ。明確に怒りを示すでもない態度には、さすがに王子院も気まずそうになっている。


「その、美影たん、そんなに嫌だったか?」

「……何が?」

「俺とのキス」

「…………」


 りく乃はまたしばし黙り込んだ。


「…………キモいけど嫌じゃなかった、かな」

「曖昧!」


 希望を持っていいのか絶望していいのか判断の付かない微妙な言葉のチョイスなのは誰が聞いてもそうだろう。


「じ、じゃあ試しにもう一度するか! そうすれば気持ちも確定するかもしれないだろう」


 はああ、とりく乃は盛大な溜息をついて頭を抱えるように深く項垂れた。


「どうした美影たん? 具合でも悪くなったのか?」


 彼女はふるふると否定に頭を振った。


「…………ろ」


 次に聞き取れない小声で何かを言ったようだった。


「…………しろ」

「何をしろと? ああ、反省はしないと…」


 遮り食い気味にりく乃は勢いよく顔を上げた。


「――この先私とキスしたいならしのりんの顔に整形しろッッ! それなら交際を考えないでもない」

「な、ん……だと!?」


 いつにない彼女の真剣極まる眼差しに王子院は激しく動揺する。裏を返せばしのりん顔になればキスが出来る。


「キスし放題だと?」

「そこまで言ってねえよ! ってか本気にするなアホ! あんたのしっかりした体でしのりんフェイスなんて最悪よ!」

「……ひどい」


 ぶっちゃけ、一瞬かなり本気で整形を考えた王子院だった。


「あ~ッしのりんを思い出したら悔しさが込み上げる~ッ、肉眼で見たかったあああ~ッ」

「美影たん、そう落ち込むな」

「そんなの無理! 何よ他人事だと思って」


 打ちひしがれるりく乃に王子院がそっと寄り添う。


「また王子院家のコネでチケット取るからさ」

「王子院……ッ、実はあんたって良い奴……ッ」


 現金にも感激の余り彼に抱きつくりく乃は、今日は色々とあり過ぎて普段の情緒ではなかった。その後無事に家に送り届けてもらい布団に入って冷静になった彼女が自己を顧みて頭を抱え悶える羽目になるのだが、それはまた別の話だ。


「…………これいいな」


 そして、キラキラと目を輝かせるりく乃の様子に、王子院は餌で釣る方法を学んだのだった。





「送ってくれてどうもありがとう」


 自宅前に到着したリムジンから降りてりく乃が中へと声を掛けると、後部座席の窓を開けていた王子院が名残惜しそうに彼女を見つめた。


「りく乃、君の神経全部で――俺に恋するといいぞ! 王子院家の先祖からのご利益たっぷりだ」

「神経全部……」


 りく乃はパチパチと瞬いた。

 言葉のチョイスが微妙だったし、また唐突に意図を酌むのが難しい事を言い出したと呆れた。


(大体、先祖のご利益って何)


 それでも、


 ――私に恋しちゃいなよ!


 いつかのしのりんと被る趣旨の台詞にりく乃は胸を打たれていた。

 偶然なのか歌詞を知っていての引用なのか、どっちなのか。


「……ホントあんたって厄介」


 極々小さく呟くりく乃はやや下を向いて微苦笑を浮かべるも、その笑みをさっさと消して堂々とした皮肉気な笑みを貼り付けた。


「そんなの、全力でお断りよ。それじゃあまた学校でね王子院…………暁」

「!?」


 言うや駆け出して、さっさと家の中に入ってしまった。


「言い逃げ……」


 手で口元を押さえ赤くなる王子院は、


「これからは彼女と話す際はレコーダーが必須だな!」


 鼻息も荒く発奮した。


「坊ちゃんはどうしてそう激しく間違った方向に行くのでしょうねえ……」


 ゆるゆると首を振る澤野がどこかしみじみとした声で、嘆いた。

 かくして滅多にない経験をし危機を乗り越えた二人の関係は、かたつむりの一歩程度しか進展しなかった……わけでもないのかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る