20 脱出

 りく乃は目を点にした。それは漫画の中で凄腕忍者がするような縄抜けの技ではないだろうか、と。まじまじと王子院を見つめる。


「子供の頃から拘束時の対処を訓練してもらってて役に立ったよ。手首の方はまあ王子院家が開発したボタン型ミニ刃物で切った。こう言った時のために開発された物で、王子院家の人間は皆普段から身に付けているんだよ」


 何だそれ、と彼女は疑問を募らせる。

 シャツの袖ボタンにごく薄い刃物が仕込まれているとの説明をくれつつ自身の足首の拘束も解いた彼は、りく乃の傍にしゃがみ込む。

 彼から全ての縄を切ってもらったりく乃は最早何に驚いていいのやらだ。


「関節は平気なの?」

「ああまあ、何とか」


 一体どんな教育を受けたのかは知らないが、自力で関節を外して戻すなど至難の業。少なくとも何日か肩の安静が必要だろう。王子院は痛そうにこそしていないが我慢しているのかもしれない。


「無謀さはともかく、どうしてもっと早くこうしなかったの?」

「王子院家が動くと踏んでいたからだ。しかし予想に反して救出部隊が遅いから、こっちから動いたってわけだ」

「救出部隊なんているんだ。凄いわね王子院家は……」

「ああ凄いだろう王子院家は、どうだ美影たん、明日にでも嫁に来ないか?」

「法律無視しないで」

「くっ……」


 残念ながらまだ十七歳だった王子院は保身のために、もう一つの最大にして最高の理由は口にしなかった。

 彼はりく乃と背中で接して温もりを感じていた間、ここは天国かっと言わんばかりの至福の時間を味わっていたのだ。しかも恋のライバルのライブでりく乃と一緒に過ごすよりもこっちの方が彼的には断然マシな展開でもあった。ただこれはりく乃が小さな怪我一つしなかったからと言えた。

 彼としてはどうせなら日が暮れるまで一緒に縛られていたかったが、万一救出が来なければりく乃に想像したくもない危害が加えられてしまう懸念があった。故に彼は涙を呑んでこのラッキーお触りタイムを終わらせたのだ。


「美影たん、とりあえず行こうか」

「そうね」


 二人は互いの顔を見合わせしっかりと頷きあった。





 時は遡る。

 りく乃と王子院が攫われた直後の広場では、通報すべきだろうと意見を交わす目撃者たちでざわついていた。当然大半がライブを観に来たファンたちである。

 パターン模様の描かれたコンクリートタイルの地面には、拉致された際に王子院が落とした一台のスマホだけが残されている。

 操作していないので当然ながらその画面はしばらく黒く沈黙していたが、ふと唐突にそれは光り出した。

 誰かからの着信ではなく、画面に自動的に文字を浮かび上がらせたようだった。

 それでようやく目撃者たちは残留品の存在に気付いて興味本位で近寄った。

 一人二人と覗き込めば、スマホの画面にはこうあった。


 ――心拍感知不能。緊急事態発生。


 見ていると、横断歩道の信号のように画面は点滅し始め、しかしそれは止まりそうにない。

 まさか爆発でもするかと周囲のドルオタたちは常識外の不気味な動作を見せるスマホを拾うべきか否か顔を見合わせる。

 その時、囲む輪に入って来た誰かがそれを拾い上げた。


「まさかこんな事になっていたとは……。デートどころではないですね。必ずお助け致しますのでどうかそれまで自棄を起こしたりなどなさいませんよう、坊ちゃん」


 スマホに目を落とし心配そうに眉根を寄せるのは、運転手の澤野だ。


「お騒がせ致しました。皆様方での通報の必要はありませんので、あしからず」


 そう言うと、もう彼は周囲を気にする事なく即座に踵を返した。

 しばし呆気に取られたようなドルオタたちの視線だけが彼の背を追っていた。

 スマホは王子院が故意に落としていったものだと澤野にはわかった。

 何故なら、普段王子院は決してスマホを肌身から一定距離以上離さない。不注意で落とすなどこれまで一度もない。

 一大企業王子院家の子息として日々一般人よりも狙われる可能性の高い彼は、誘拐などの予期せぬ目に遭った際、その発生を逸早く護衛や身内に知らせる必要がある。

 しかしこの日はりく乃とのデートに無粋だとして、護衛たちにライブ会場に近寄るのを彼自身が禁じたために駆け付けられなかった。

 だがしかし、彼のスマホには半径数メートル以内にあれば彼個人の心拍を計測する特殊機能が備わっており、それが計測不能になると彼の身に何かが起きたとして自動的に王子院家の方へとその報せが行くようになっていた。

 資材倉庫の中で王子院暁はそれ故に救出を待っていた、というわけだった。

 ただ、予想外に捜索が難航したせいで不運にも関節外しなどをする必要が生じたのだが……。





「ああもう~~ッ折角のしのりんのコンサートに行けなかったなんて、死んでも死にきれない! 携帯だって盗られたままだしっ。目的は身代金なんでしょ、一円だってあげたら駄目だからね?」


 自分の鞄を拾い上げ埃を叩き落とし、りく乃は同じく鞄を拾って歩き出した王子院の後に続いた。声を小にして念押しするように覗き込めば、上へと続く階段に足を掛けていた王子院はそんな視線にちょっとまごつく。

 りく乃はここでハタと気が付いた。


「え、ちょっとどうして上? こう言う時は見張りの有無を確かめて、居たらそいつらの目を他に向けさせて外に逃げて助けを求めるべきじゃないの? 袋の鼠よろしく階段上っちゃったら駄目じゃない。隠れんぼでもするつもり? それとも屋上にヘリでも来るわけ?」


 王子院に怖がっている様子はないが、そう見えないからと言って本心はわからない。彼のおかげで自由になれたのだ。りく乃は自分たちのためにもここは自分が動かねばと強く思った。


「よしわかった。王子院はどこか見つかりにくそうな場所に隠れてて、私一人ででもここを脱出して助けを呼びに行くわ」


 彼女が決心したように踵を返すと、咄嗟に王子院が腕を掴んで止めた。


「無計画に出て行くのは危険だ。第一俺たちはここがどこなのか、周囲に何があるのかまだ知らないし、外じゃ誘拐犯の一味が見張っているのは確実だろうから見つかってまた縛られる可能性の方が高い。この建物の上が屋根になっているのか屋上になっているのかは知らないが、そこに出られればきっと何とかなる」

「……妙に自信あり気だけど、根拠は?」


 半信半疑なりく乃へと王子院は黙って得意気に口角を持ち上げた。

 イケメンスマイルだが、彼女には全く効果をなさない。むしろ勿体ぶったせいでイラッとした。とは言え、彼の言は一理ある。上に出れば自信の根拠も明らかになるだろう。

 従って、文句は言わずに彼と共に階段を上っていく。

 なるべく大きな音を立てないように注意しながら二階部分に進んで、照明が落とされ薄暗い二階通路の先に見つけたのは更なる上階への階段だった。

 非常階段のようで、階段手摺の隙間から覗き上げれば五階か六階までありそうだった。

 小さいながらも階の踊り場ごとに窓があったので足元が真っ暗ではなかったのは幸いだった。

 使われてはいない建物だったのか誰にも会わず、見回りの誘拐犯にばったり出くわすなんて不運もなかった。

 そうして、最上部の踊り場のドアを出れば屋上に至った。

 やや黄色味を帯びてきている午後の光が二人の上に降り注ぐ。

 屋上の端には落下防止の手摺は無く、簡単に足を乗せて立ててしまえる膝の高さくらいの縁取りがあるのみだ。


「やっぱり郊外のどこかみたいだな」


 早速と周囲を眺める王子院が、小さく高層ビル群の見える遠方へと両目を向けて細めた。

 この建物の付近には他に高い建物はなく、ビル群とは反対方向の遠方に水平線が見えた。誘拐されたのでなかったなら見晴らしが良いと気分もさぞかし爽快だった事だろう。

 縁に寄って地上を見下ろせばもっと詳しい地形や場所がわかるのかもしれないが、地上から見える位置に姿を晒せば万一見つかる危険があったので不用意に端には寄れなかった。

 無難に見える範囲にはここより背の低い工場なのか倉庫なのかの屋根が延々と続いていて、その先は人工林なのか緑が広がっている。

 こんな市街地から離れた場所では、仮にこの建物を出て逃げたとしても車もなしには人の多い場所に辿り着くのは難しい。


(王子院には本当に何か助かる公算があるの?)


 眩しさに目を細めるりく乃が疑問を口にすべきか迷っていると、前方の王子院が足を止め振り返った。


「美影たん、鏡を持ってないか?」

「鏡? あるけど小さいよ」

「小さくても十分だ。さすがはリアル美影たん、アニメの美影たんとはやはり違うな。あっちの彼女はその手の女子力は皆無だ!」


 微妙な褒め言葉に半眼になったりく乃は文句を言う気にもならない。

 鞄を犯人たちに乱雑に扱われたせいで中で割れてないよう願いつつ取り出して確かめれば、折り畳み式の手鏡は無事だった。

 彼に手渡せばくんかくんかと鏡のにおいを嗅がれたので「貴様その鼻っ柱をリアルに折られたいのか?」とりく乃はぎゅうぎゅうと鼻を抓んでやって制裁を加えておいた。

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