17 振り出しからの3
人を好きになるって何だろう。
恋って何だろう。
愛って何だろう。
漢字に含まれる「心」の位置で恋と愛を区別するような話を聞いた事もある。
それも一つの考え方だ。
(でも私は……区別できない)
しのりんへは恋であり愛であり、もしかしたらもっと別の物かもしれない感情を抱いている。
はあ、とりく乃は教室の机に頬杖をついた姿勢のままで小さな溜息をついた。
古典の授業はりく乃の思考など置いて進んでいく。
あと数年で定年と言っていた気がする古典担当の教諭は、詩吟の趣味でもあるのか教科書本文を辿る声はとても滑らかで味がある。
今日の内容は恋だの愛だのを綴った随筆だ。
平安時代の人間も、世界の問題から見れば些細な事で日々思い悩んでいたらしい。
いつの時代も人間には変わらない部分がある、そう思うと少し和んで少し可笑しかった。
そんな最終の授業を終えた放課後、
「――と、言う事で美影たん、俺とデートしよう!」
「貴様はまた……。脈絡がなさ過ぎて反吐が出るわ」
「美影たんの反吐になら塗れても本望だ!」
「くっそ最低」
いつぞやの延長のようにまたもや王子院と屋上にいるりく乃は、仁王立ちに腕組みをしての頗る不機嫌顔だ。
今日はしのりんの配信はないが、王子院に捕まったという点で根本的に面白くないのだ。
呼び出されて余程無視してやろうかと思った彼女だが、それはそれでただ面倒事を後回しにするだけだとわかっているので、苦々しく思いつつも応じたのだ。
いつも変態的主張を押し付けてくるだけの相手は今日もその気配を揺らがせない。
「実はな、俺は新生王子院暁になったんだ」
「うわーまた妙な事を言ってきたー」
「傷付くからうわーとか言うな!」
当然りく乃は意識せずとも視線が冷淡になった。
「じゃあ、へえー……。で、だから何?」
「美影たんが大好きだ」
「変わらないじゃない」
「フッ、ところがどっこい俺はもう昔の俺じゃあないんだ。思い違いという試練と悟りを得て精神がタフになったからな」
「ふーん、それで?」
王子院はすうぅーっと静かに大きく息を吸い込んだ。
その意味不明の深呼吸を十回は繰り返したので「用はないようね」とりく乃はさっさと背を向けたが、王子院が両脚に取り縋ったので去れなかった。
りく乃の忍耐のおかげで仕切り直した彼は、更に三度の深呼吸「ちょっとまたなの?」「あッいやすまん今言う!」の後、とうとうに口に出した。
「付き合ってくれ!」
「ハイハイごめん無理」
「いや違うんだ、これに限っては男女交際の申し込みじゃなくてだな」
「え、違うの?」
冬でもないのに明日は雪でも降るかとりく乃が目を丸くしていると、王子院はスラックスの後ろポケットから定型内の白い封筒を取り出した。
しかも中指と人差し指で挟み、スススス……と無意味に封筒の白い残像が見える独特な動きで顔の前まで持って来ると、陰陽師よろしく世界にただ一つの祝詞を唱え出す。
「天の美影たん地の美影たん御影石の美影たん世界中の美影たん、俺の求めに応じ今ここに
さすがに予想外の異常さにりく乃が絶句し完全にドン引きしていると、王子院は呪いの札でも入っていそうな封筒を彼女の方に真っすぐ差し出した。
「えっ要らな…」
「――俺と篠崎まりんのライブに行こう!」
りく乃は言葉が理解できなかったようにたっぷり五秒は間を置いた。
「えええええーっ!?」
屋上に素っ頓狂な叫び声が上がる。
「熱でもあるの? どっかに頭打った? まさか今日って地球最後の日なの? 宇宙人の襲来なの? 隕石が落ちてくるの!? そもそもあんた本当に王子院!? アブダクトされてブレインウォッシュされたとか!?」
SF映画の見過ぎか、忙しなく上空と王子院を交互に見やるりく乃はハッとした。
「まさかこれが新生王子院ってわけ!?」
正解とでも言うようにドヤ顔になる残念イケメン王子院暁。
「君との時間を一秒でも長く共にできるなら、ライバル三次元女のライブを視界に入れるくらい我慢する。煮え湯さえ飲み下す所存だ。まあ実はライブに関しては点数稼ぎのつもりで前にも誘おうとしたんだが、その時は色々と予期せぬ不都合が生じて駄目になったから、今回はそのリベンジと言うか何と言うか」
「はああ!? しのりんのライブなんて行くに決まってるじゃん! 何で不都合なんて踏みつけて誘ってくれなかったのよ!」
「いや、あの時踏みつけられたのは俺の方だ。まさかの殺人現場かって感じで血みどろだったし……」
「殺人!? 血みどろ!? ちょっと王子院ってば家が財閥過ぎてライバルの財閥から暗殺者送り込まれてるの?」
「韓ドラの話か何かか? まあ金目当てに誘拐されそうになった経験はあるな」
「怪我までしたなんて、命は一つしかないのよ。しっかり必要な所では自己防衛しないと駄目じゃない」
「美影たんの尊いお言葉……! わかった以後しっかり肝に銘じる」
何度か彼を半殺し同然にしている張本人はすっかり忘れて案じているし、その事に王子院本人の方も全く思い至っておらず、むしろ感激している辺り相当のポンコツ脳だ。
「それで、後遺症とかはないの?」
「あ、いや、実は怪我したわけでは……」
訂正を入れようとした王子院だが、基本怒りか嫌悪か侮蔑のりく乃からの滅多にない心配の眼差しと出合い、
「そ、そんなに大した事はなかったからもう大丈夫だ。王子院家の洗剤開発に一石を投じた程度だ」
セコくも被害者面をした。まあある意味被害者でもあったので半分は許されるかもしれない。
「そう? ならいいけど色々と気を付けなさいよ。いつまた身代金目的の誘拐犯に狙われるともしれないんだから」
「ハハハ物騒だな」
「冗談で言ったんじゃないってば。もしも攫われてもアニメの世界じゃないんだし、大好きな魔法少女が助けに来てくれるわけじゃないのよ」
「ふっ美影たんはいつでも俺の心に現れる! リアル美影たんも然りだ! ふと夜中目が覚めて人肌恋しくなった時はいつも君の隠し撮り写真を愛でている……!!」
「頼むから法律遵守して……! 全く、誘拐犯の前に私が殺人犯になりそうだわ」
「で、どうなんだ? ライブ一緒に行ってくれるのか?」
「そんなの勿論じゃない」
「じゃあこれ、チケット」
「やった~!」
りく乃はとても嬉しそうな顔で封筒を受け取った。
中を取り出して夕日に翳してうっとりする。
「ありがとう王子院! 実はこのライブチケ、抽選外れちゃったから諦めてたのよね。あ、お金は明日でいい?」
「俺が勝手に誘ったんだし別にいいよ」
「駄~目。前も言ったでしょ自分の分は自分でって。それにその方が思う存分楽しめるから」
「むう……」
正直ちょっと不満だった王子院だが「じゃあやっぱやめた」と言われたくなかったので了承した。
「もう一度言うけど、本っっっ当にありがとう! 今だけは王子院が神様だわ! ……なあ~んて、私って現金よね、えへへっ」
王子院は白昼夢でも見ているようにポカンとした。
りく乃の笑みがキラキラとしていてとても眩しい。
「それなら君の方が……」
「ん?」
「いや……」
天使だろ、と彼は思ったものの、変な話だが何となく口に出したら本当に天に還って、いやキモがられてソッコーで家に帰られてしまうだろうから、今は胸の内にだけ留めた。
もう少しだけ二人きりの屋上を楽しみたかったのだ。
「じゃあ当日は家まで迎えに行くな」
「通報されたいの?」
「…………」
現地集合決定。
そこはやっぱり相変わらずの塩対応りく乃だった。
帰りのリムジンの中で、運転手の澤野は坊ちゃん頑張れと内心でエールを送った。
いつになく嬉しそうな王子院が微笑ましかったのだ。
自らで誘って一緒にお出掛けの約束を取り付けた彼は、その日から延々りく乃に言われて好きでもない三次元女子たちの歌と振り付けを覚える羽目になるのだが、アニメ観賞の時間を割いてまで行ったその苦行さえも、好きな子とのデートというものの前では自らを奮い立たせる燃料であり、血を吐いてでも這い上がるべきステップの一つなのだった。
そしてライブ当日、某時間――……
(ああもう王子院の考えなしーッ! このまま死んじゃうなら、お別れなら、王子院のこと一回くらいきちんと考えてあげれば良かった、かも……)
りく乃は遠のきそうになる意識の中、そんな風に思って内心で苦く笑った。
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