15 振り出しからの1

「はあ……」


 朝の送迎のリムジンの中で王子院はアンニュイな溜息をついた。

 アニメの美影特大クッションを膝の上で伸ばし縮みさせる彼へと、バックミラー越しにお抱え運転手の澤野が無言で目を向ける。


「なあ澤野、両想いって何だろうな……」

「お互いに相手を好きという事では?」

「両想い同士なら当然付き合うよな?」

「大体はそうでしょうね。坊ちゃんは違うのですか? 何度かお乗せしましたあのレディは相思相愛のお相手なのでしょう?」

「それはそうなんだが、俺とりく乃の間はちょっと複雑でなー、両想いからのカレカノ展開はそう簡単じゃないんだ。両想い=男女交際開始と思うのは甘かった。付き合うには幾つもの試練と手順を踏む必要があるようだよ……」

「何分わたしは女房としか付き合った事がないですし、昨今の若者の標準的恋愛観などはもうよくわかりませんが、坊ちゃんが素直に付き合おうと言えば宜しいのでは?」

「素直に……」


 王子院の両手にぎゅっと押し潰されて、美影の笑顔が歪になった。

 悪気もなく、無意識の行動ゆえに彼は気付かない。


「そうです。一度で駄目ならまた一度、それでも駄目ならもう何度でも。真摯に真心を込めて想いをお伝えする坊ちゃんを袖にする女性なんて、きっとおりませんよ」

「ははっなるほど。そうだな」


 カーブに沿って滑らかに四輪を駆動させながら運転手が送った激励の言葉は、王子院に無駄に勇気を与えた。





「美影たんおはよう! 早速だがもういい加減俺と付き合おう! 俺を好きなくせにいつまで焦らして遊ぶつもりなんだ。この小悪魔ちゃんめ!」

「寝言は寝て言えーッ!」


 教室に入って早々やらかした王子院へと、りく乃は華麗なる跳躍でラリアットを食らわせた。

 ざわつく朝のクラスメイトたちは彼の言葉を半ば真実のように捉えている。そんな表情たちに囲まれて、りく乃は今日も厄日だと悟った。


「あらあら、三千院さんぜんいんくんってば朝から貧血みたい。保健室に連れて行くわね!」


 何故か背景に京都を窺わせるりく乃が誰にも有無を言わせず白目を剥いた王子院の襟首を引きずって教室を出て行く。彼女の貼り付けていた笑顔の仮面に見ている者は背筋を寒くした。

 貧血じゃなく相原がラリアットかけたから……という黒い真実は、無言の圧の前に黙殺されていた。

 ズルズルズリズリズリ……と廊下を不穏でホラーちっくな摩擦音が遠ざかっていく。


「いや、王子院だよ」


 呆然としたクラスメイトの一人から齎された的確なツッコミは完全に機を逸し過ぎていて、言葉は教室の空気にほろりと砕けた。





 保健室からケロリとした顔で帰還した王子院がいつものようにそっくり君と昼食を共にしている時間、りく乃はりく乃でクラスの友人と過ごしていた。


「ねえりくのん、朝のって痴話喧嘩?」

「え、何の話?」


 心当たりが全くないりく乃が顔のパーツを中央に寄せて疑問符を浮かべる。


「ほら王子院君にラリアットかけたやつ」

「あははラリアットは見舞ったけど、どうしてそれが痴話喧嘩になるの」

「え、だって」


 りく乃の幼馴染で友人の紀野きの百合菜ゆりなは柔らかい表情で次のようにのたまった。


「――王子院君と付き合ってるんでしょ?」


 今日は天気も良いし外で食べようと相談して中庭に下りる外廊下に差し掛かっていたりく乃は、古典的ギャグの女神でも降りたのか、見事なまでにバナナの皮を踏ん付けたような華麗なるズッコケを披露した。


「あいたたた……」

「ちょっと大丈夫りくのん!? お弁当は……良かった無事だよ。でもどうしたの?」

「青天の霹靂に撃たれたレベルの精神的衝撃に見舞われてね」

「比喩内容が死亡レベルだけど……。それより立てる、りくのん?」


 さりげに突っ込みつつ案じてくれる優しい女友達の百合菜。

 りく乃は知らないが、案外クラスにはツッコミ担当が多いのかもしれない。

 腰を摩っていたりく乃は謝意と共に、友人が自分へ差し伸べてくれた手を取った。


「はいお弁当も。まだ包みに入ってて良かったね。ところでドジっ娘属性でもないりくのんが何もない所で転ぶほどの精神的衝撃って?」


 話しながら中庭に出てベンチの一つに陣取ったりく乃は、モンゴルの草原に佇む遊牧民のようなどこか大らかな遠い目になった。


「ゆりちゃん、言っとくけど私に特定の恋人はいないわよ」

「えっ!?」

「そうよ、王子院とは付き合ってな…」

「不特定の恋人はいるの!?」

「何でそうなる! 誰ともお付き合いしてません!」


 りく乃がハッキリと訂正を述べると、百合菜は隣りで弁当を広げつつ怪訝そうな顔をした。


「またまた~、王子院君とは順調なんでしょ?」

「だから違うってば」

「この前一緒にスイーツバイキングしてたって聞いたよ?」

「あれは成り行き」

「でも二人では行ったんだ~?」

「本当は別の人と行く予定だったのを、何故か彼が代わりに来たってだけよ」

「え!? なになにそれってもつれ合う三角関係の臭いがするよ!」

「そんな展開はないから」

「本当に違うの?」

「うん、宇宙規模で違う」

「スケールでかっ!」


 やはりツッコミ役らしい友人はここで何故か残念そうな面持ちになった。


「……りくのんに彼氏が出来たんだ、良かったなって思ってたのに……」

「それ言うなら私より先にゆりちゃんでしょ。二年になって何人目だっけ、告白斬りしたのは」

「も~っ、りくのんの意地悪! 斬るとか言わないでよ~。これでもちゃんと誠心誠意お断りしてるんだからね」

「ごめんごめんお~よしよし。ゆりちゃんのお眼鏡に適う男はいずこにいるのかしらね。それにしてもいつもながらに癒されるわ~」


 ふざけてりく乃が抱き付いて頭を撫でると、ローサイドテールのゆるふわ髪の百合菜は苦笑しつつもぎゅっと抱き返してくれた。いつも彼女からは女子らしい良い匂いがする。

 ここが異世界ファンタジーの世界なら、百合菜は間違いなく王国一位二位を争うヒーラーだ、とりく乃は密かに思った。

 彼女はりく乃のしのりんオタクっぷりは知っているが、しのりんマジラブはまだ知らない。でも彼女にはそのうち話したいと思っている。


「付き合ってなかったんだ。だけど王子院君はさ、美影たんとか何とか言いつつ何だかんだでりくのんが大好きだと思うんだよね。……純粋な好意を向けられてて全然ときめかないの?」

「あの人は私に重ねてアニメのキャラを見てるだけでしょ」

「それは半分はそうかもしれないけど、全部じゃないと思うよ」


 自分の弁当箱を開けたりく乃は、さっき落として偏ってしまった中身とご対面して、やや不満そうにアヒル口になった。


「何かゆりちゃんってば王子院の肩を持つわねえ」


 仕方がない顔付きでおかずを咀嚼そしゃくするりく乃。

 そんな横顔は明確な答えを欲してはいないのだとわかる。

 百合菜は「うーん、判官はんがん贔屓びいきかなあ」との言葉で濁したが、りく乃はその曖昧さには気を向けなかった。


「もー、ゆりちゃんは優しいんだから。特別にイチゴ一個あげちゃう!」


 無駄にテンションを上げたりく乃が、ひょいっと自分の弁当から美味しそうな赤い果実をわけてやると、百合菜は百合菜で「じゃああたしはオレンジあげるね」と控えめな仕種でお返しした。

 仲良しの二人はそのまま楽しく昼食を終えて、周囲の似たような中庭弁当組に先んじてベンチから腰を上げる。

 先に空の弁当箱を包み終えたりく乃がゆっくりと外廊下へと歩き出して、遅れて追い掛ける友人を立ち止まってちょっと振り返った。

 しかし追い付かない場所で速度を落とした友人は、何かを言いたげにじっとりく乃を見つめた。


「ゆりちゃん?」

「……だって王子院君なら、あたしなんて全然敵わないから」

「え? ごめん何?」


 小さな呟きが聞き取れず、りく乃が一歩戻りかける。


「家も容姿も申し分ないし、まだならさっさと王子院君とくっ付いちゃえーって言ったの!」

「まだその話ー? もーうちの家族だけじゃなくゆりちゃんまで何なのー。……よりにもよって王子院?」


 心底嫌そうにりく乃は顔を歪めた。


「死んでもないって」

「あはは言い切ったね。王子院君が可哀想」


 他方、百合菜はふわりとしてはいるものの、どこまで本気か読めない同情の笑みを浮かべた。

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