3 二人の日常1

 少女の細く白い指先が、光沢ある雑誌表面を優しく、それでいてどこか触れるのを躊躇うように、撫ぜた。

 色鮮やかなある人物の上を何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も……。


「ああああ~ッ、いつ見てもマジ可愛い~ッ神! しのりんの全てを奪いてえ~~~~ッ!!」


 荒い呼吸を繰り返し、相原りく乃は萌え……いや悶えていた。

 明らかに欲情していた。

 しのりん、とは地下アイドル時代を経てメジャーデビューし、ここ数カ月の間に人気急上昇中のアイドルグループ「CHU×3チュチュチュラブッチュ」の一人、篠崎まりんという少女の事だ。


「ふうああああ~ッもう何この可愛さやばいでしょ! ミニから伸びる太腿とか涎出るう~。こんな紙切れ一枚だけで私の心臓を鷲掴んでそのまま握り潰す気なのこのしのりんめはッ」


 彼女はしのりんを思い描くだけで血圧は一気に二百を超す。

 雑誌や動画など姿を視神経が知覚するだけでも、しのりんを欲する本能が疼いて仕方がなかった。


 一つ断っておくがりく乃は歴とした女性である。


 アイドルの篠崎まりんも女性だ。


 まあ人間趣味嗜好はそれぞれ。

 頬を赤くし感極まった声を上げるりく乃は、現在校内図書館の奥まった書棚の陰でぺたりと床に尻を着けて一人で座り込んでいた。床の角の方には埃が溜まっていて汚いが火照った体にはこのタイル張りの床がひんやりとして気持ちいいのだ。行儀が悪いと言われればそうだろう。だが現在咎める目はない。

 学生鞄を傍らにしのりんの切り抜きや写真集を広げ、放課後の図書館の隅っこ暮らしを閉館時間まで満喫する不審者りく乃に近付く者は皆無。数少ない利用者たちは気付いても敢えて見なかったフリだ。場所が奥なおかげで声を上げても読書に支障がなかったというのもあるかもしれない。

 だから繰り広げられている趣味全開の鑑賞(りく乃にとってしのりんは最早芸術)会は今日も余裕で進んで――


「ああ見つけた俺のリアル美影たん……!」


 ――は行かなかった。

 邪魔な男が現れたせいだ。

 図書館の奥までりく乃を捜しに来て声すら掛ける。おそらくは世界中を探してもこんな奇特な男は彼一人だけだろう。


「!?」

「はあ~、駄目な美影たんだな、君はまた実在のアイドルなんかに興奮してるのか? 三次元女子としての存在が許されたもうのは美影たん、君ただ一人じゃないか!」


 恵みの雨は天から降るように、天に召される心地の少女に水を差すのもまた天の采配か。

 突然狭い通路の向こうから顔を覗かせた少年が息を切らしながらも不愉快そうに顔をしかめる。

 りく乃の頬がヒク付いた。


「アイドルなんか……? 貴様調子こいて私のしのりんを侮辱するな。よくも至福のしのりんタイムを邪魔してくれたわね。というかよく居場所を嗅ぎつけたな。人間辞めて犬にでもなればいい。そしてさっさとね、このアニオタ風情が……っ!」

「ふぅああああっ美影たんが俺だけを見つめている……! これは今夜はお赤飯決定だ」

「何をたわけた事を」

「さあ美影たん、こんな汚い床に君は似合わない。俺と来い。君のために最高の変身衣装を用意してあるんだ!」


 りく乃はあからさまに顔を歪めた。


「どうせ魔女っ子コスチューム一式でしょ」

「当然!」

「きもッ」


 大いなる拒絶を向けられるもしかし、りく乃の同級生で同じクラスで隣の席の男子生徒――王子院暁はめげた様子もなく素早い動作で彼女を抱き上げた。彼は器用に鞄も一緒に指に掛ける。


「はあ!? ちょっと何なの下ろして!」

「床は汚いだろ。スカートの端っこに綿埃が付いてるし」

「自分の足で立つわよ!」

「恥じらわなくていい」

「曲解すんなーーーーっ!」


 りく乃は軽い方だが、それでも地べたの人間を苦もなくそれでいてよろけるでもなく抱え上げた腕力は、さすがは体型に恵まれた男、王子院と言える。

 彼はイケメンで頭もよく背も高い。

 加えて家は国内屈指レベルで裕福でつい先日この高校の生徒会長にも任命された。

 一言で言って、ハイスペック。

 女子にモテないはずがない。実際にモテる。


「さてと行くか、俺たちの愛の巣に」

「だぁれが行くかあああああーーーーっっ!」

「ふごォッ」


 筒状に丸めた雑誌アッパーが見事に決まった。いきなり抱き上げられたものの、りく乃は咄嗟に全てのしのりん資料を腕に抱え込んだのだ。

 仰け反るほどの衝撃に彼の制服のポケットからスマホが飛び出しそうになり、ガチャで引き当てたレアな美少女アニメの可愛らしいストラップが顔を出す。

 それは今期の放映で三期目となる大人気魔法少女アニメ「魔法少女フルーティーマロン」の主人公橘美影の二頭身人形だった。

 ついでに言えばスマホの待ち受けも美影。

 制服下のTシャツの柄も美影。

 下着もチビ美影の顔がランダムにプリントされている普通は子供用のものを、わざわざ王子院暁用にメーカーに頼んで特注生産してもらったものだ。鞄に付けるストラップも筆記具も、身の周りの物は掛け布団に至るまで全て美影仕様。

 それが王子院暁だ。

 因みに、主人公は魔法少女「マロン」つまりは「栗」なのに、名字が何故か柑橘系の「橘」なのは、ファンの間では決して突っ込んではいけない設定だ。



「ひッ、やあああっ、殴ったのに何で放さないわけ!? このっこのっ放しなさいよ変態オタク!」

「くっ、ぐあっ、案外雑誌は凶器……ッ、しかしどんな障壁があろうとも、この俺が俺の最愛の美影たんを手放すものかよ……!」


 カッコイイ少年漫画風な台詞を口にしているが、鼻の穴が広がっていて顔面偏差値は一時的に大暴落していた。


「いやあああキモイキモイキモイ生理的に無理無理無理その顔付き! キモイイイイイイイイーーーーッッ!!」


 普通メンズなら心がめった刺しな面罵にも、ここは王子院暁、図書館内を進むしっかりとした足取りに揺らぎはない。

 両腕の中には大好きなリアル魔法少女美影たんもとい相原りく乃が坐すのだから。


「くううっいつ見てもアニメ画面から出て来たのかと思うくらいにまんま美影たん!!」


 そんな彼女になら殴られようと愛しさしか湧かない王子院だ。

 最早マゾ属性と言われても否定できない。

 生涯添い遂げるなら彼女しかいない、と彼は心に固く決めていたりもする。


「美影たんの事は何があっても俺が護るからな。俺の財と権力を全て行使してでも将来君が勤める会社を潰させたりはしない」

「何言ってるかわけわかんないっ! とにかく下ろして。私はしのりんの物でしのりんは私の物……はあはあっ、しのりん……!」

「俺の胸の中で他の奴の名を呼ぶなあああっ! ……いや、これも愛の試練か」


 決して己の心の炎は消さない王子院暁という男。

 彼はモテるくせに過度の変態が故、現在は恋人がいなかった。女子たちは観賞用だと割り切っているのだ。

 りく乃はアイドルしのりんに陶酔し、王子院はそのりく乃に執着している。

 つまりは見事な恋のトライアングルが構成されていた。


「大体ね、良く聞けこのアホんだらっ、私は美影じゃなくて相原りく乃よっ!」

「ふっ、今更そんな仮の名を強調しなくてもいいぞ、俺には全てわかっているから気にするな。人に正体を知られてはいけないんだろう?」

「アニメの話だろそれは! 現実を見ろ! ホントマジで私は貴様の変態度を今すぐ全宇宙に知らしめてやりたいわッ!」

「別にいいぞネットに書き込んでくれても。俺は美影たんラブを隠すつもりは微塵もないからな。どころか頑張って結ばれて下さいと世界中から応援メッセージが届いている!」

「既に晒してるんかいッ! ああもうバッカじゃないの!? 私はしのりん一筋だしそもそも貴様のような男なんて好きじゃない」

「やれやれ言葉遣いが乱暴だな。駄目だぞ美影たん、もっと優しい言葉を使わないと」

「貴様だけにしかそうしてねえから安心しろ」

「そ、れは、つまり……――特別扱いか!」

「うんうんそうそう嬉しーでしょー?」


 何故かりく乃の声のボリュームが下がった。訝しく思った王子院が見ればいつの間にか彼女は雑誌を開いてその中のしのりんにうっとりしていた。

 王子院は平面印刷のアイドル以下な自分に血が滴るほどに唇を噛む。かつて自分は平面女子が至上主義だった因果だろうか、なんて哲学までした。

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