八
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そうしてわたしは松永と共に、彼女の家へ向かった。
すっかりと夜も更け、知らぬ間に、時計は新たな日付を示していた。そうしてこの、あたりは閑散どころか、生きた動物の気配など、全く存在せず、やはり、唯、その中で、向こうの竹藪のような無人の集合住宅街が、その、無数の窓の目で、わたしたちを覗き込んでいるばかりだった。
――青木は、どうなったろう。
わたしは逸る気持ちを抑えながらも、然し、半ばあきらめながら運転を続け、ようやく彼女のアパートにたどり着いた。
みると、青木や、他の警官たちが駆けつけたらしいパトカーが3台、しっかりと寄りつけられていた。然しそのどこにも、そこに存在すべき人間を、その中に取り込んではいなかった。
わたしは車を降りながら、「まずいな」と思った。それは松永にも伝わったのか、彼女は白衣のまま、そうしてなにやら、乗り込む前に持ち出してきた、農業用の、農薬を撒く為の散布機を、後部座席から取り出すと、それを自身の身体へと、装着し始めている。
「――何に使うんだ」
「使えばわかるよ」
わたしは外套の下に携帯する拳銃を取り出し、聞いた。
「どっちが、役に立つかな」
「さあね」と松永は云った。
そしてタンクを背負い、噴射ノズルをさも機関銃のように構えた。
× × ×
「アヤコさん。わたしです。真田です」
わたしはアパートの扉を、三回ノックした。
然し――返事がない。
「アヤコさん。約束通り、帰ってきたんです。ですから、此処を開けて下さい」
「……約束って、なんだ」
わたしの後ろで松永が、そう呟いた気がしたが、わたしは無視した。やはり返事がない。
と思った次の瞬間。ドアが独りでに「ガチャリ」と啼いた。
わたしは暫く、音の鳴ったドアノブを眺めていたが、入っても良いということだろうかと思ったので、松永へ合図し、そうしてドアノブへ手を掛け、ひと思いに回した。
× × ×
「――なんだ、ここは」
そこは、わたしの知る、彼女の部屋ではなかった。
いや正確には、それは部屋と云うよりも――本当の意味で、化物の巣、そのものだった。
壁は一面、何らかの、黒々しい芋虫のようなもので、お覆われている。それも、その一匹一匹は、ただ、黒々と太っているのではなく、その『黒』は、その全てが、斑な模様の、小さな黒い点々が集合し、こびり付いた、文様なのであった。
生臭い臭気の中で、壁が、天井が、床が、その全てが、限りなく細かい黒点々の模様を有した、芋虫共の、その、どれ一つとして、同じ周期となることのない、芋虫共の蠕動、が――――。
それを理解した途端、わたしは強烈な吐き気に襲われた。ここはどこだ。本当にあの、あの美しい女の、アヤコという女の棲まうべき――
「真田」
松永がそう云って、私の太股を、機関銃めいたノズルで叩いた。
「しっかりしろ。お前の見ているものは全部、まやかしだ」
「だ、だが――」
「見えているなら、見るだけだ。受け入れるしかない。だが受け入れるなら、その更に奥を見ろ。それしかない」
気が動転したわたしは、松永が何を云っているのか、理解できなかった。だが、『とにかく中へ進め』と云っている事だけは理解できた。
そうしてわたしは足下に芋虫の蠕動を感じながらも、なるべく堅い足の踏み場を探そうと、一歩一歩、奥へ進んだ。
そうするうち、何故か、ドアが勝手にその口を閉じてしまった。
わたしが思わず振り返ろうとすると、松永はただ冷静に、
「振り向くな」
と云った。
わたしは歩を進め、深淵の奥を目指すしかなかった。深淵には、なにやら生臭い臭気と、なにかの鈍い水音が、奥の深淵の向こうから、延々と鳴り響いている。
延々と、延々と。
それは、何かに。
何かの、上で。
何かに、何かを。
打ち付け、て――――。
「――ッ」
わたしはそれがようやく、ある一人の男と、粘液と、太くミミズめいた蠕動のままに、男を弄ぶ女の『情交』であると気が付いた。
それはナメクジとナメクジがおこなう交尾のように、互いの身体を、境目の判らなく程に密着させ、捻れあい、よがり、その体で、互いに互いの肉を、唯々、貪り、擦り、舐めとりあっているように見えた。
――青木、なのか。
――あの、恐ろしい肉の塊の下に埋もれ、笑っているのは。……
わたしの眼下に、身を横たえる彼は、穏やかなる微笑みを浮かべ、彼女の翡翠色した目を、延々と覗き込んでいた。いや、覗き込まざるを得なくなっていたのだ。
自身の上で延々と、女としての機能を有した、肉塊の壷の奥深くへと。
肉塊は男を受け入れ、蠢き、のたうっている。
「ア、アハ、――ッ、あ、あぁ、……ぅ、ぅく、……ふ」
青木は唯々、一心に、名状しがたき存在との、忌むべき交配を、享受していた。あの日聞いた嘔吐きともと違う悲鳴が、わたしの耳にこびり付いてゆく。
わたしは声が出なかった。出せなかった。そうして延々と、己の破滅を受け入れてゆく、その――青木の姿を、漠然と捉えるばかりだった。
「真田ッ」
突如松永が叫び、そして松永がわたしの前へと飛び出した。
そうして。ノズルを構え、タンクの中の溶液を、肉塊めいた女めがけ、放とうとした。
然し――。
「うッ」
彼女は、その名状しがたい存在の、長い黒髪、その一本一本から延び、枝分かれし、蠕動する、丸々と太った触手のうねりをモロに浴び、撥と跳んだ。
わたしはいつか、動くという行為そのものを、忘れ去っていった。
「惑う、な。さな、だ。お前の、みるべき、もの、を」
松永はそう、壁面の芋虫共に囚われながらも、必死に取り払おうと、もがいている。
そしてそのまま、わたしの目線を、気味の悪い壁一面へとうつしたとき、わたしはあることに気が付いた。
壁一面に警官達が、へばりついている。
捻れ死んだ男と、同じままに。
恍惚たる狂気の笑みを浮かべて――。
「ア、アハ、アハハ、ハ。――――あぇ」
あえいでいた青木が一声啼いた。
すると、彼の上へと撓垂れかかる肉塊は、粘液にまみれた顔を上げ、そして、その、蛭のように彼へとまとわりつく己の蠕動を止め、あの翡翠色の瞳ごと――嗤った。
途端、青木の身体が、軋みながら、歯をガチガチと鳴らし、音を立て、そうして、見る見るうちに、その身体は、絞め殺しの木がごとく、己自身を締め上げられていった。
「ギ、ギギギギ、ギ。……」
わたしの目の前で、永遠の快楽を感じるままに、青木は、己から望み、望むままに、無残にも、あの男のように、捻れ死んでゆく。
そうして青木が捻れたとき。
『彼女』はわたしの『名』を呼んだ。
「ユキヒコ、サン」
わたしの名を呼んだ。いや、叫んだとでも云うのだろうか。その、酷く歪んだ、わたしの脳幹を直接掴んだような、あの声音は。……
「マッテ、イタノ。……デモ、サミシカッタ。ダカラ、タベチャッタ」
彼女はそうして、わたしの身体を、その、頭から延びる植物の触手で包み込むと、あの、翡翠色をした瞳で、わたしの奥底をのぞき込でくる。
「デモ、モウ。……モウ、サビシクナイ。ネ。……ネ」
そうして彼女は、わたしに、わたしの脳髄に、忘れられえぬ快楽を、刻み込もうとする。粘液にまみれた身体へ、わたしの身体をうずめると、一言、また一言と、わたしに語りかけていった。あのとき、わたしの中へうずもれ、背を抱き、濡れるままに語った、あの、あのとき掴まえ損ねたモノを、取り戻してゆくかのように。
だが――。
「―――エ」
一瞬、部屋の中に、銃撃音が鳴り響いた。
「……ドウシテ、ナノ」
気付けばわたしの掌に、一つの大きな穴が空いた。
誘惑に負け、己が己の快楽の陶酔へ浸ってしまう前に、わたしの掌を銃で撃ち抜き、そうして、痛みをわたしの脳へと伝えることで、わたしを現実へ引き戻したのである。
「ドウシテ。ドウシテ。……」
わたしの背へと巻き付いていた触手は、次第に力なく離れ、彼女のそばへと戻ってゆく。
血潮が溢れ、その痛みが、脈打つ波動が、わたしの身体を支配し、視界が歪む中、わたしは彼女の、その翡翠色の瞳の奥を、しかと見つけ、云った。
「わたしは――わたしは君を愛していないッ」
そう云いながら、わたしは彼女の中を離れていった。途端、目の前の彼女から、云いようのない悪臭が、漂い始める。みるみるうちにその身体が、腐ってゆく。彼女自身が、その錯覚から、目覚めるように。然し彼女は、それを拒んだ。
「どうして」
女は叫ぶまま、わたしの首に組みかかり、わたしを縊り殺そうとする。
だが――。
「――よく云った」
突然、蟲どもの拘束から逃れた松永が、わたしの前へと駆け込んだ。そして、重機関銃でも構えるように農業用農薬噴射機を据え、勢いよく彼女に向けて、何らかの液体を掃射した。
それは強い刺激臭がした。
と思うと、松永はライターを取り出し、火を見せながら、
「どうなると思う」
と云った。
――ガソリンだ。
独特の臭気が、わたしの鼻をツンとつく。彼女もそれに気が付いたのか、うっと止まり、松永をみる。
「松永ッ。よせッ」
わたしは、松永が行なおうとしている事を察し、とびかかろうとした。だが、松永はお構いなしに、そのまま彼女へ、一つの、火の灯るオイルライターを示すと、尋常ならぬ自棄を起こして、そのライターを女に向けて投げつけた。
「ウ、ウウア、ア、ア……ッ」
見る見るうちに、わたしの眼前で、女の身体が燃え上がってゆく。炎の中、女の形相は、崩れゆく彼女の顔面は、幾重にも塗り固められた鉄仮面が、熱に融け出しているようだった。
「逃げるぞ」
声と共に、松永はわたしを引っ張った。
わたしは促されるまま、燃えさかる彼女の部屋を、脱出した。
× × ×
燃えさかるアパートの前で、命辛々逃げ出したわたしは、松永を殴ると、掴みかかった。
「何故殺した」
松永は抵抗もせず、わたしの仕打ちを受け入れている。
「何故あんな事をした。お前は、お前は」
「当然の行為を、しただけだよ」
松永は悪びれもせず云った。
「なに」
思わずわたしは、松永の頬を、穴のあいた掌で、張り飛ばした。彼女の頬に、わたしの血が、紅のようにへばりつく。
「彼女はあの部屋で、もう、何人も、君の仲間を殺したんだ。だったら、それに対して、僕がそうした制裁を加える事は、なんら問題のある行為だとは、思えないがね」
「お前は、お前は」
わたしは言葉に詰まった。目の前の友人がそんな事を口走っている。そうした、人殺しを行うことを由とするなど、いくら、いくら彼女が人殺しだとしても、到底受け入れる事は出来なかった。
こんな事なら、松永を此処へ連れてこよう等と、勢いだとしても思わなければ良かったのだ。そうでなければ、せめて、死ぬのはわたしか、わたしと彼女だけで、済んだのであるのに。
そうしてわたしは、彼女の、その小さな肩を掴んだ。
「なんだよ」
「――俺は」
「俺は、なに」
「俺はお前にだけは、こんな事をしてほしくなかった。お前は、お前の大切に思う事だけをやっていて欲しかったんだ。だから、これは俺の役目だったんだ。俺が行うべき事だった。なのに、俺は、お前に甘えて、お前を、此処へ連れてきたばっかりに。……」
わたしは力なく、松永の身体に頽れた。
知らぬ間に、わたしの頬を、一筋の涙が流れてゆく。
「ん、ン――――」
すると、何故か、松永はどうにも決まりが悪いのか、口を真一文字に結び、三、四日は洗っていないのであろう頭を、ポリポリと掻いた。
「えっと、真田。その――えっと、なぁ」
「なんだよ」
「なんと云えばよいか」
「なんだよ。……」
そして彼女は、云った。
「これは全部――『演出』だ」
「――――は」
なにを云ってるんだ。こいつは。
「馬鹿云うな。お前は――」
あんなに燃える様子が見えないのか、と云おうとした。
しかしふと気付くと、目の前にあったアパートは、どこ吹く風という様子で、閑散とした路地の中で、ただ、ひっそりと建っているばかりであった。
わたしは唖然とした。
「貴方――まんまとわたしの『演出』に引っかかったのよ。や、ぶっつけ本番だから、どうなるかなと思ったけど、――中々、上手くいくもんだよね」
「どういう、ことだ」
わたしはいつか、彼女を掴む手を、解いていた。
「『におい』を応用してみたんだ。コーヒーのにおい、煙草のにおい、あの果実のにおい。人はなんでも、においに敏感に反応する。だから、さも『ガソリン』らしい、ないしは、かなり強烈な臭いのするものを混ぜ込んだ。同じように強烈な刺激臭のするモノを、ガソリンだと思い込ませるために撒いて、そして、ライターを見せて。……」
「混ぜ込んだって、何を」
「――――『果実』さ」
「な……お前まさか!」
「そういうこと。――本当は、取っておきたかったんだけどね」
「じゃ、じゃあ、彼女は」
「彼女はあの果実のにおいで、お前や、警官たちを、一つの空間の中に支配し、捻り殺した。だが、それはつまり、自分自身もそうした演出に陥りやすいと云う事を意味している。彼女は、彼女自身が用意したあの部屋で、彼女自身の把握しない『果実』のにおいを吸い込んだ。そしてわたしの行動により、『ガソリンに火が付く』という錯覚に陥り、それで――」
「だ、だがそれでは――彼女は血を流さずに死んだ男のように、焼け死んで」
「ああ、その点なら大丈夫だ」
そう、わたしが心配すると、彼女はこう云った。
「わたしはあくまでも『どうなるかな』と云っただけだ。『焼き殺す』等とは、一言も云っていない。彼女が勝手に『思い込んだ』だけさ。お前みたいに」
「……そんなの屁理屈じゃないか」
「ああ。そうだ。だが、云うか云わないかで、結末に大きな変化をもたらす事になる。言葉は、使いようによっては、人を操り動かす、恐ろしい思考さえ、植え付ける事ができる。それに――」
「なんだ」
「彼女が『燃え死ぬ』と思う前に、『果実』と一緒に仕込んだ薬品の所為で――彼女は気を失っている筈だからね」
わたしはあっけにとられるまま、松永の顔を覗き続けた。
その後警察が駆けつけると、確かにイチカワアヤコは、ただ、気を失っていた。捻れ死んだ死体と共に、穏やかなる表情のまま。彼女の為の匣の中、ひっそりと眠りについて。……
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