七
七
「――――遅い」
大学へ赴いたわたしを待ち受けていたのは、いつもの調子で腕組みし、白衣のままに、レンズの大きい、古くさい四角形をした眼鏡をかけた女――松永であった。
「それはこっちの台詞だ。四日も待たせやがって」
「『四日ですませた』と云ってほしいな。私だからなんとかなったのに。それが判らんとは、貴方。あれか。あの――なんだ。もぐりか」
「なんの」
「子供じゃないんだからそれくらい自分で考えなよ」
「……なんだそれ」
「知るかよ」
そうしてわたしは導かれるまま、久しぶりに彼女の研究室へと入った。
× × ×
研究室へ入ったわたしは、そうして、彼女のデスクの前へ座った。
「ブラックよね」
「ん」
わたしは返事をし、彼女が、ビーカーで沸かし、マグカップへ注いだコーヒーを受け取った。冷たくなった手に、その、コーヒーの温かさが、染み込んでゆく。
だが、その中に、わたしはふと、あの、彼女の湿った柔肌の温もりを、想起せざるを得なくなった。
「……どうしたのさ」
それに気付いたのか、コーヒーカップを片手に、彼女はわたしの顔を、少しのぞき込んだ。それはあの、翡翠色の瞳の迷宮とは違い、唯、確かに、わたしの目の前に、確かな問いかけをもって、存在している。
「――いや、ちょっと」
「ちょっとってなんだ」
「ちょっとはちょっとさ」
「……ふうん」
松永はそうして、わたしを覗き込む事を止めると、研究室の中にある冷蔵庫から、牛乳パックを取り出して、黒々とした液体の中に、渦を描きながら、彼女はこう、私に問いかけた。
「貴方さ、コーヒー一日にどのくらい、呑む」
無花果の話でも何でもなく、ただ、コーヒーの話を始めたので、わたしは少し、どう答えればよいものか、迷ってしまった。
「なぜ今コーヒーなんだ」
「いいから。……どのくらい呑むのさ」
わたしは少し考えて、云った。
「二、三杯って、とこか」
「じゃあ、煙草は」
「……一箱」
「成る程。ま、それなりってとこか」
言葉のまま、彼女は丁度ひたひたになるまで牛乳を注ぎ込んだところで、「よし」と頷いた。
「――私たちの生活っていうのはさ、いつもそばに植物が関係している。たとえばコーヒーなんかは、ある植物の種子から生成されていて、その中にはカフェインという、毒が含まれている。これは、適切な量を接種すれば、脳の働きを活性化させたり、眠気を覚ましたりする恩赦を、わたし達に授けてくれる。煙草の場合もそう。ニコチンによって一時的なリラックス効果をもたらす。だから、人間は毒を接種することで、どこか充実した幸福感を、感じるようにできあがっている」
そう云って、松永は、今度は、角砂糖をその、ひたひたになったマグカップの中へと、一つ、二つと、入れてゆく。
「だがそれは、少量であっても、やはり毒は毒なのさ。適量であれば害を及ぼさない薬でも、過剰に接種すれば死んでしまう事があるのと同じさ。故にコーヒーはカフェイン中毒に、煙草はニコチン中毒になる。そして、その成分が常に存在する状態が正しい事だと思いこむようになり、成分が体内から居なくなった状態の方を、間違っていると判断するようになる。用はそういう、植物に含まれる成分ってのは大なり小なり、どれも麻薬のような禁断症状を起こすというワケ。だから僕たちは、植物の創り出す成分の魅力に、勝つことはできないんだ。私はコーヒーを飲むのを止めないけどね」
松永のコーヒーは、表面が盛り上がり、今にも溢れ出しそうになっている。が、それはこぼれる事無く、その緊張を、どうにか保ち続けている。しかし彼女は、口を縁に付けると、ずずっとコーヒーを吸い込み、ぐっと持ち上げ、のけぞりながら、いかにも甘ったるそうなコーヒーを呑み干した。
「――さて」
松永は空になったマグカップを置くと、白衣の袖で口を拭い、そうして、ポケットから、例の、あの、気味悪い色をした果実――『無花果』を取り出し、そして云った。
「この無花果は、無花果のようでそうではない。性質としては、むしろ太古の原生的植物に近い。そしてこいつは幻覚物質を有している。つまりこの無花果の『毒』だ」
「毒、だと」
思いもよらぬ真実に、わたしは唯、そう、答えるしかなかった。
「どうしてこんな植物が、こんな所にあるのかは判らない。が、何百年も前の植物の種子が、芽を出した、という記録もある。――確か、この果実のあった部屋には、ずいぶんと古めかしい匣が、鉢植え代わりに据えられていたんだよね。そして、その『捻れた男』が、ある商人から手にいれたと。……匣の中で果実は密かに守られ続け、そして、誰かが匣を開けることを、ずっと待っていた。そして――」
「そして男が、その匣を、開けた」
「彼や彼女の供述を全面的に信じるならば、そういう事になる、ね」
「だが、待て。しかしそれだけじゃ、男が『捻れ死んだ』説明には、ならないぞ。どう云うわけで、あの男は、ああして――」
「演出さ」
「『捻れ死んだ事』をか」
「そうだ」
「……誰に」
「『捻れ死んだ』――男自身に」
「どうやって」
「だから――『人喰い植物』なんだよ」
「……お前。まさか、『植物が女に化けて、男を捻り殺した』なんて云うんじゃないだろうな」
「うんそう。いや少し違う」
「どう、違うんだ」
「私が云いたいのは、『女が植物に化けて、男を捻り殺した』さ」
わたしはなんだか、こうして真剣に訪ねている事が、少し馬鹿馬鹿しくなった。
「巫山戯るのも大概にしろ。俺は、お前が判ったっていうから、こうして――」
「私が云いたいのは、『人喰い植物に捻り殺される』という事を、『女が男に信じ込ませた』結果、『男が勝手に捻れ死んだ』という事」
「……なにを云ってるんだ、お前は」
すると松永は、また、語り始める。
「そもそも人喰い植物――『マダガスカルの木』というのは、昔、或る博士が、マダガスカルの島で発見した人喰い木――というものだ。だが、それはあくまでも、その博士の創作した、ホラ話だと云うことになっている。だがもし――それが、『マダガスカルの木』の出す成分によって、博士がそう、『信じ込まされていた』のだとしたら。そうすれば、博士がそうした文章を書いた事も頷ける。それは博士が、植物の出す液体を『すきとおって糖蜜のように甘い』と表現している事からも、明らかだ」
わたしはまだ、疑問符が浮かぶばかりであった。
「それで、だ。文章によれば、『植物を信仰する人々は、その、人を虜にする麻薬を得るべく、生け贄の女を植物に捧げた』とある。そして女は、液体を呑み、植物の上へ乗り、植物によって絞め殺され――その後、骸骨となって発見される」
彼女は一度話す事を止めると、また、改まって語り始めた。
「これはかなりの極論だから、憶測の域をでないんだけど、『そもそも博士が出会った植物は、食人植物でもなんでもなく、唯その女や部族たちが、博士にそうした事実を信じ込ませるための演出だった』のではないか、と思うんだ。
博士は幻覚剤を呑んだ結果、目の前の、ありとあらゆる事象が、本当の事のように思えた筈だ。だからつまり、『女が植物に包まれる』場面と、『女が髑髏になって』放出される場面を目撃すれば、『女が植物に消化され、死んだ』という道筋が生じることになる。
つまり、『女』と、『女の骸骨』は一つではなく、それぞれ別々の人間で、用意したものだったんだよ。だが博士は、それを一つの、連なった事象だと思いこんだ。……」
「しかしそれは、別に博士を殺す訳ではないじゃないか。どうやって『男を捻れ殺す』んだ」
松永は一息つき、また話し始める。
「こんな話がある。
或る女が、男に目隠しをして、椅子に縛り付ける。そうして、ボールペンか何かで、血の出ぬ程度に男の首をひっかいてやる。そして女は、男の首もとから、男の血液と同じ温度に暖めたお湯を、ある、一定の間隔で注ぎながら、『このままでは、貴方は三時間もすれば死ぬ』という事柄を、恐怖とともに『演出』し、男に信じ込ませる。
すると、縛られた男はある種の催眠状態に陥り、そして彼の脳が、本当に『自分の首からは血液が流れ続けており、このままでは本当に血液を失い、三時間後に死ぬ』という暗示に掛かり、その体は本当に『失血者と同じ症状』に陥る。
そして――死ぬんだ」
松永は続けて云う。
「こんなのもある。
右腕の、肘から下を事故で失った男がいる。彼自身は、その腕が『ない』事を自覚しているのに、彼の脳は、まだその腕が『ある』と思いこんでいる。故に、無いはずの腕の位置に、痛みや、痒みを覚える。故にこの男は、幻視痛に苛むことになる。が、ある治療を施すことにより、その症状を和らげる事ができるようになる。
それは鏡箱のなかに、健康な左腕を入れ、そうして右腕を鏡の後ろへ入れ、左腕の『虚像』を、さも『失った右腕』のように見せかけると、脳がそれを誤認識し、左腕を動かしていながら、『私は右腕を動かしている』という『錯覚』が生じ、幻視痛が改善する場合がある。
偽物の腕を本物の腕だと、脳を『だます』事で」
そこまで云うと、松永は一旦息を止めた。
「――つまりね。それだけ私たちの脳みそってのは、かなりいい加減にできているのさ。だからもし、何らかの限定的な状況で、そうした『演出』をしてやれば、簡単にその事柄を、信じ込んでしまうんだ。そうしてさも、その虚構が、現実の自分自身に、本当に起こっている。自身の身体が本当に、そうした状態に陥ってゆくと信じてしまう。故に……」
ここまで聞いて、ようやくわたしは、彼女の説明したい事柄の意味を理解した。
「故に男の身体は『捻り殺される』事を錯覚し、自身の身体に受け入れながら、本当に『捻れ死んでしまった』……とでも云いたいのか」
わたしの言葉に、松永は満足した。
「そうだ。そうして、そのための幻覚材――それがあの『腐った』においであり――彼女自身の、異性に対する誘惑が、そうした感覚を、誘発させるための『着火点』となる。つまり彼女は、悲劇の女を演じておいて、本当は、とんでもない事をしてかしている――とんでもない悪女なのさ」
「だがどうして人によって、『良いにおい』だと感じたり、『悪いにおい』だと感じたりしたんだ」
「ラフレシアと同じさ。そのにおいが『腐った肉』だと思う奴は、自分の利益にならない天敵。そうして、『よいにおい』だと思う奴ら――つまり蠅共は、ラフレシアの事を『腐った肉』だと錯覚し、利用される。受粉――つまり『植物のセックス』の為に」
わたしはあのにおいを、良いにおいだと感じた。
わたし自身、女にとって、都合の良い一匹の蠅でしかなかったのだろう。
そう言うと松永は、少し目を伏せて、
「僕にできることはあくまで、そうした存在が『ある』と証明する程度のものだ。どれだけとんでもない話であっても、『ない』ことの証明はできない。……とんでもない話だけれど」
その顔は何処か、疲弊して見えた。
そのとき。わたしの携帯が、再びその音を鳴らした。
それは青木巡査からであった。
わたしが何気なく電話に出ると。
「さ、さなだ、さん。ッあ……お、俺ッ、俺…………」
それは青木の、悲鳴だった。
そうして青木巡査はあの日聞いたような嗚咽を、漏らしていた。
「青木、どうした」
「ッう、うあぇ……おれ、ぅおれ、……グぅ、あ……」
するとそこに、青木ではない、もう一人の――。
「ダ ア メ」
あの、彼女の声が、響いた。
「あ、だ、……や、やめ」
「ダぁメ。…………ね」
「あ……ん、う、うう、ぐ。……」
「ネ。……ミテ…………モット、モット、ワタシ、ワタシ、ヲ」
「あぁ、あ………あ、あは、あはは、アハハ、ハ。……」
――そして電話は切れた。
松永の話を聞いたわたしは、脳裏に、その『行為』の実感を、そして『末路』を感じ取ることは、充分だった。
わたしはゆっくりと、携帯を耳から離してゆくと、松永を見据えた。
彼女は暫く押し黙った。が、即座に意を決したらしく、
「往こう」
と云った。
こうしてわたし達は、事件の全てを終わらせるべく、車へと乗り込んだ。人を喰らい、淫欲の限りを尽くす、婬婦の棲まう巣窟へと。……
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