三
三
こうしてわたしは、女の入院する病院へ向かった。受付には、事情を話した医師が待っており、彼の案内するまま、わたしはその、病院の中を、歩いていった。
「どうです、彼女は」
「今は随分、落ち着いているようです。目覚めてから暫くは、余りにも恐ろしい目に遭ったのか、常に酷く怯えていましたから。……」
医師が小声に云うまま、我々は病院の中を歩いてゆく。コツコツと、壁や、床に反響する音が、院内の静かな空間の中に反響してゆく。
わたしが三階の、三〇二号室の前へ辿り着くと、医師は、「こちらです」と云った。みると、その部屋番号の下には、カタカナで、『イチカワアヤコ』と書かれている。
「イチカワ、アヤコ――ですか」
「ええ。彼女がそう。……さ、どうぞ中へ」
「ありがとうございます」
そうしてわたしは、取っ手を掴むと、ゆっくりと横へ退け、女の部屋へ入った。
× × ×
「イチカワアヤコさん――ですね」
部屋へ入った私は、戸を閉めると、彼女にそう訪ねた。
女は暫く俯いて、じっと押し黙っていたが、なにか意を決すると、おもむろにその面を上げた。
「――はい」
その顔はまさしく、あの日わたしが見た、『雨に濡れる女』だった。彼女は入院服を着て、ベッドの上で身体を起こしていた。下半身は掛け布団の下にあり、そうして、彼女は自身の前に、しゃんと両手を重ね、背筋を伸ばし、私を、その長い睫と、切れ長の目尻に縁取られた、翡翠色の眼で、じっとわたしを、あの日と同じように、見つめていた。
長い黒髪は、いかにも柔らかく、手入れが行き届いている様子であった。そうしてそれは、彼女の肩へと垂れ下がり、そのまま、ベッドの上へ、波打っている。前髪は丁度、眼に掛かるか掛からないか、という長さで、その隙間からのぞく瞳は、どこか高貴な雰囲気さえ、感じさせる程であった。
頬は薄く、淡い灯りをもち、その、少し丸みを帯びた顔が、すらりと長い頸の上に据えられている。彼女の顔の様相は、とてもじゃないが、人というよりも、どこか、想像の中にだけ存在するような、儚げな雰囲気を醸し出していた。
「どう、なされたのです」
彼女は少し声色を整え、そう、わたしに問いかけた。
「あ、ああ。すみません。……」
わたしは、少し咳払いをして、自身の調子を整えると、本来、私が彼女に行うべき目的を果たすべく、あの日の出来事を訪ねる決心を固め、そうして懐から、警察手帳を取り出して、
「真田です。実は、貴女に少し、お尋ねしたい事がありまして。……」
彼女は少し驚き、息を呑んだようであった。そして何を聞かれるのかを判っている様子で、少し眼を伏せた。
「単刀直入にお聞きします。――あの日貴女は、一体、何をしていたのです。あの部屋で一体、何があったのです」
わたしがそう云うと、彼女はどこかいじらしくわたしをちらを見ると、暫くは押し黙っていた。が、意を決すると、ゆっくりと、しかし確実に、わたしに、『捻れた男』の顛末を語り始めた。……
× × ×
供述4/『捻れ死んだ男』の情婦
……私は彼と、依存的な、性の関係に陥っていました。でも、彼は私に、暴力を振るい続けるのです。しかし私は抵抗することもせず、むしろ、その行為さえも、彼の、私に対する愛なのだと感じ、その全てを受け入れていました。だって、彼は決まって、そうして暴力を振るった後、私のことを強く抱きしめると、暴力を振るったことを、延々と泣いてわび続けるのです。それ故私は、この人の元を離れることができませんでした。そして私は思いました。『この人は私が居なくなったら、本当にダメになってしまう』と。
醜い愛の形であると、あなた方はおっしゃるやもしれません。でも、私には、私たちにとっては、これこそが私たち、あるべき、本能としての、愛の形だったのです。
しかしそれは、あの日。突然終わりを告げました。
彼はこの頃、なにやら変な植物を育てていました。それははじめ、なにやらうやうやしい、一つの、厳かな装飾のなされた箱の中に入っていました。「道ばたの、とある商人に譲ってもらった」と、彼は云っていましたが、本当の所、それをどうやって手に入れたのかは、私には全くわかりません。
それ以来でしょうか、彼がおかしくなっていったのは。
どうにも彼は、どんどんと、その植物の虜となっていったのです。そうしてしまいには、その植物を愛でるために、日々の生活を送り続けていました。しかし私は、その植物のにおいが、どうしても好きになれなかったのです。
彼はその植物のにおいを、「よいにおい」だと云いました。しかし、私にとって、そのにおいは、何か、肉の腐ったにおいのようにしか、思えなかったのです。
それに、その植物を育て始めてから、彼の顔色はどんどん悪くなって行きました。それは彼が何か、悪い病気にかかっているか、なにか、よからぬものに手を出したが故なのではないかとさえ思いました。
ゆえに私はとうとう、「その植物を捨てて欲しい」と彼に云いました。
すると彼は散々、私を殴りました。殴り続けました。
その時ばかりは、私はこのまま死んでしまうのだろうと、感じました。しかし、そうこうしていると、彼はその手を取め、私にすがりつくと、わんわんと声を挙げ、泣き出したのです。そして云いました。
「ごめん。ごめんよ。僕はもう戻れないんだ。ごめん。ごめん。……」
そう云って、彼は私を求めました。血混じりの口の中へ、舌を絡めると、私の衣服をひんむいて、散々、私を犯し始めたのです。まるでそう、なにかの存在を、恐ろしい出来事を忘れ果てようとするかのように。……
そのまま私たちは、夜遅くまで語り続けました。そして知らぬまに、私は眠ってしまったのです。
気付けば朝になっていました。私達はカーテンも掛けず、そのまま二人で愛し合っていたものですから、窓から日の光が、私の顔を照らしました。そして私は目を覚ましたのですが、そのとき、そこにあった光景は、恐ろしいものでした。
昨日までああして、私と語り合っていたはずの彼が、私の目の前で、『捻れた』なんとも得体の知れぬ、恐ろしい肉塊と成り果てていたのです。
私は思わず声を挙げ、飛び起きました。そしてそのままベッドを転げ落ちると、キッチンの方まで逃げ、扉を閉めました。しかし、もしかすれば私の見間違い立ったやも知れません。そう思いましたからもう一度、恐る恐る扉を開け、のぞき込んでみました。が――やはりそこにあったのは、私がみた、あの、『捻れた』彼の肉塊と、何処か穏やかにさえ見える、彼の亡骸の表情でした。……
その後のことは、あまり覚えていません。ただ、判っているのは、私は必死に、そのことを払いのけるが如く、必死に何処かへと走り続けたのです。
気付くと、私はまた、元の場所に戻ってきていました。雨が降っているのに、傘も差さず、痣だらけの顔は髪に隠れていましたが、雨に濡れた為に、凍えてしまいそうでした。
『ここにいたら、疑われるかも知れない』
私は怖くなって、その場を立ち去りました。
そしてきっとその後に、意識を失ったのでしょう。……
私はどうすればよかったのでしょう。私は、それとも私が、彼を殺してしまったのでしょうか。私が。私があの『捻れ死んだ』、彼を――」
× × ×
彼女はひと思いに云い切ると、そのまま咽び泣き、うなだれ、それから掌で顔を覆った。そのときわたしは、何故だか、彼女が指の隙間から、わたしを窺っているような気がしてならなかった。
その後、わたしはそうした話を、本庁へ伝えた。然し、現場からは彼女の犯行を裏付ける証拠は一切出なかった。
故に女は、一先ず放免となった。然しそれは、彼女に何らかの協力者が居るのではないかという可能性からでもあった。
――もし、彼女の云い分が本当であれば、あの「捻れた」死体を目撃し、平常でいることは出来ぬであろう。だがもし、彼女の供述が嘘であるならば、彼女はそうした、恐ろしい様相を眼にしても、全く、同様を示すことなく、自分を演じて、見せることが出来るという事である。どちらにせよ、彼女をこのまま放置しておくことが、賢明でないのは確かである。
だがわたしが、「彼女は本当に、唯の被害者なのやもしれぬ」と思い始めた頃、何者かが彼女の自宅に進入し、その部屋を散々荒らしていったのである。……
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