第六章
第六章
一方、蘭は。
「本当にどうして?」
製鉄所に来訪できない悔しさからか、なんだか最近どうもいらだってくるようなのだ。
何でなんだろう。
今日も、杉ちゃんがいつも通りに料理をしに来てくれたけど、それがいやな気持ちになってしまうのだった。
「おーい、蘭。お前さんは、デミグラスソースと、大根おろしとどっちにするかな?」
台所から声がする。
「ああ、デミグラスでいいわ。」
思わずボソっと口に出して言った。
「どうしたんだよ。なんだか蘭らしくないな。変に疲れてないか?」
そんな変な心配はしないでくれ。僕は、何でもないんだから。ただ、水穂のことが心配で仕方ないんだから。
「杉ちゃん、僕はそれよりも心配していることがあるの、知らないのかい?」
蘭はそういってとりあえず食堂へ行った。
「ああ、とっくに知ってらあ。水穂さんのことならいい加減にあきらめろ。もう、無理なものは無理なんだからよ。」
杉ちゃん、そういうことじゃなくてね。
「お前さんは、学校で決してあきらめないことが一番大事だと言われて育ってきたんでしょうけど、あきらめたほうがいいこともあるんだぞ、蘭。」
蘭はそういわれてまたがっかりしてしまった。
「もう、あきらめないことは綺麗なことばっかりじゃないからな。かえって負担を大きくする。それも覚えとけ。よし、焼けたから食べよう。」
杉三はよく焼けたハンバーグを皿の上に乗せて、蘭のさらにはデミグラスソース、自身のさらには、大根おろしをかけ、皿をテーブルに乗せた。
「よし、さっさと食べよう。いただきまあす!」
と言ってすぐにハンバーグにかぶりつく杉三。杉ちゃんいいなと思いながら、蘭はうらやましそうにハンバーグを食べる。
「水穂は、ハンバーグも何も食べられないのかなあ。」
と言って、ボソッとため息をついた。
「いい加減にせえよ。蘭。もう毎回毎回水穂さんのことばっかり考えて、水穂さんもいくら咳き込んでも、足りないだろ。それより、畳をいくら張り替えても足りない。」
「だって、本当に何もしてやれないんだもの。いくらお医者さんに任せておけばいいと言われたって、こっちは、本当につらいんだからな!その気持ちなんか、聞いてくれる、人も、ものもないじゃないか。」
「そんなこと知らないわ。だから、いい加減にあきらめろよ。そのほうが、お前さんにとっても、水穂さんにとっても、気持ちが楽になるというもんだからなあ。」
杉ちゃん、何で君はそういうことを言うんだよ。
「そんな冷たいせりふ、どこから出てくるんだ?杉ちゃんも、青柳教授も、何でそんなに冷たいこというんだよ。二人には優しさってもんがないのかい?やさしさってのは、できる限りやつが楽になってくれるというか、やつがなるべく苦しまないでいられるように、何とか手を出すもんじゃないのか?」
蘭は、そういったが、杉三は何食わぬ顔をして、
「それがどうしたって言うんだよ。本当のやさしさというのはな、楽になるといって、ああだこうだとうるさくいうことじゃない。本人の旅立つのを、黙ってみててやることだよ。本人が、苦痛になったら、たまに手を出せばいい。それだけのことだよ。」
「杉ちゃん。それってなんだか冷たすぎるって言うか、なんだかひどいせりふだな。そんなことは、果たして、本当にやさしさなんだろうか?たとえば、スーダンの飢えた少女の写真知ってる?あの写真を撮った人は、その前に餓死してしまいそうな女の子を助けるべきじゃないかと言われて、大変な目にあったそうだね。杉ちゃんの言っていることは、そのカメラマンと同じことのような気がするんだ。僕もあの写真を撮った人には、非常に疑問が残るよ。あんな写真をとる前に、あの女の子を抱っこして、安全な場所へ逃がしてやるほうがよかったのではないかと思うんだ。杉ちゃんは、どう思う?」
蘭は耳の痛い話を始めた。
「いいんじゃない?あの写真のおかげで、いろんな人が、アフリカの現状をわかってもらえたんだからよ。一個の写真で、いろんな人が感動したんだから、それでいいんじゃないのか。そう考えると、あの写真は、すごい写真だと思うけどねえ。」
「杉ちゃん、あのな。大勢の人を動かす写真を撮るのと、水穂一人を何とかしてくれと頼むのと、どっちがより身近で、どっちがより重大なのか、考えてみてくれよ。あの写真を撮っても、彼女には、直接的な支援は何もないぞ。写真はとっても、彼女は、何も変わらん。でも、先に彼女を何とかしたら、やつは、動ける様にもなって、歩けるし、食べれるし、いろんなことができる様になるよ。それを考えて見てくれ。それと一緒なんだ。杉ちゃんのいうことはその写真を撮るのと同じことじゃないか?どうもそれって、何か違うような気がするんだけど、僕は、いけないことを言っているんだろうか?」
「お前さんの言うことは、一番できそうで、実はできないこっちゃ。まあ、気にしないで、いい加減にあきらめろ。」
杉ちゃんのような考え方は、どうしても難しいなと、蘭は思ってしまうのだった。
「でも、僕はまだあきらめんよ。いくら、できないと言われても、僕はまだ、最後の手段は残っているからな。あの、小杉というお医者さんが、出してくれるんだからな。」
蘭は、自身に言い聞かせるように言った。
「馬鹿なこと言うな。あれは危険すぎるからな、もう取りやめにしようって、ジョチさんがそういってた。沖田先生にも相談して、もっと作用の弱い免疫抑制剤を使ったほうが、良いんだって。その強いやつは無理だよ。金もかかってしまうし。それより、もっと穏やかなやつのほうが良いんだよ。ま、あの人は、何をしても、体の過敏すぎることで有名だからよ。あんまり強すぎると、その後のはねっかえりがすごいし、副作用としての頭痛もひどい。かわいそうだろ。だから、それでは危なすぎるとしてやめたほうがいいんだよ。それはな。」
杉三のその一言が、なんだか、ナイフの様に見えた。
「なんでだ。せっかく新しいの使って、何とかしようと思ったのに!なんでいつも台無しにするんだよ!」
蘭は、思わず怒りが生じてそういうと、
「だから言ったでしょ。あんまりにも辛そうだから、やめようなってことになっただよ。それに、つらい思いをして、わざわざ長く持たせるのもどうかと。」
と、ぼんやり答える杉ちゃん。
「どうして、みんなそんな風に思うんだろう?」
蘭は、がっかりした顔でそういった。
「みんな、少しでもやつに何とか治ってもらいたいという、気持ちにならないのかなあ?そう思ってしまうのは、いけない事だろうか?」
「うーん、それはな、親とか兄弟とか、そういうやつらの考えるセリフだよ。ほかのやつらはそうでもないと思う。僕たちはそれよりも、水穂さんが、少しでも楽に過ごしてほしいという気持ちなわけ。もちろん、遠くへ逝ってしまうのは確実だよ。だから、そこの負担を少しでも楽にしてやりたいわけよ。例えばさ、重大な抗がん剤を使ってもさ、副作用にずっと悩み続けるのは、やっぱり周りのやつらもつらいでしょ?それと一緒だよ。頑張って何とか、というより、後に残った時間というもんを少しでも楽にしてやりたいかな?」
杉ちゃんの発言は、蘭にとっては、ただ、看病するのを怠けていて、それが嫌だという風にしか見えなかった。
「杉ちゃん。それよりもさ、とにかくこっちにいてほしいというのが、愛情というもんじゃないのかい?誰だって、人が逝くってのは、悲しいことだしさ、それはなるべくなら回避したいというか、そういう気持ちにならないかい?」
「バーカ。そんなこと言ってるからお前さんも苦しくなるんだよ。もう、そういうことは避けることはできないんだから、だったらもう、頭を切って、じゃあ、本人が楽に逝ってもらうには、どうしたらいいのかを考えろ。」
つまるところ、あるテロ組織の教祖が発言していた言葉、「人は必ず死ぬ、死は避けられない」と同じようなもの。杉ちゃんは、それを手伝っているような発言をしている。
「杉ちゃん、それ、ある意味自殺を助けようとしているのと同じことになるのでは?やっぱりさ、生きている限りは、なるべくならこっちに居させてやろうと務めるのが人間の宿命ではないのかな?」
「蘭はうるさいな。自殺でもなければ他殺でもないの。これはしょうがないの。あんまりな、こっちに居させてやろうなんていっていると、かえって、おかしな弊害も生じるよ。さっき言った、薬の副作用苦しむことだってそうだし、色んな商売に巻き込まれて、かえっておかしくなることもあるよ。だから、もう、こういう時はスパンとあきらめたほうが勝ち。蘭はよく言ってたでしょ。日ごろから、僕らは誰かの援助なしでは生活できないんだから、胸張って歩いてはいけないとな。そんな奴が、ほかの人の話に手出しできると思う?そうじゃなくて、ゆっくり逝かせてやろうと思ってやるのが、一番なんじゃないのかよ。」
まさか自分が過去に口にしていたセリフをそのまま引用されるなんて、蘭は、驚きを隠せなかった。それまで、杉ちゃんに利用されてしまうとは。自分もダメ男になってしまったな、、、。
でも、水穂が、逝ってしまうのはどうしても避けたかった。だって、そうなれば、もう奴のピアノを聞くことはできなくなるのだからな。
蘭は、いまだに、母がしたことについて、未練を持っている。
あの時、母は、いじめっ子であった水穂の実家を破産させるほどの賠償金を支払わせたと言って、やっと安心したと豪語していたっけ。だけど、本当は、彼に暴言を言われたとか、暴行があったなんて言う事実は一つもなかった。あの時は、自分もしっかり発言できる能力もなかったし、何より子供が発言するなんて、許されていなかった。なので、蘭をいじめた犯人は、自動的に水穂となってしまったのだが、たぶんきっと、部落民を犯人にしておけば、簡単に片づけられるということだと思われる。
大人は、毎日やることに精一杯で、子どもの学校の事なんて、基本的に、見ている暇はない。特に現在であれば、核家族化が横行しているし、もっとひどい場合は、母親が財力も教育もすべて一人で背負うという家庭も珍しくない。例えば、財力面は現役の父母が行い、教育面は年寄りが、という家庭ならまだ余裕があるが、そうではない家庭がほとんどなので、大人たちは、平気で事なかれ主義にしてしまう。なので、部落民である、水穂を犯人して、それでよいということにしてしまったのだ。
たぶんきっと、真犯人は、どっかで幸せに暮らしているんだろう。もしかしたら結婚して、どっかで家庭をもっているかもしれない。それが蘭にはすごく憎たらしかった。それと同時に、もし、自分が発言さえしていれば、もう一度真犯人を探し出すことをしてくれるかもしれないと思った。でも、富士には私立の中学校が存在しなかったため、母が、安全性を考えてと言って、蘭の身柄をドイツへ送ってしまった。当時は、つらかった学校生活から逃がしてもらえたのでうれしいと思っていたが、今となっては、重罪を犯したような気がする。
だってただ、逃げただけじゃないか。
もちろん、逃げるということは、時には役にたつこともある。それは、ある程度は認められている。だけど、自分のしたことは、役に立ったのかというと、そうではないと思う。子供だった蘭は、ドイツの家庭に預けてもらって、すぐに楽しい生活だと思ってしまい、見事にドイツの生活に染まった。日本では、ちょっと違うだけで、すぐに大騒ぎになるが、ドイツではそれがないので居心地よかったのだ。日本のことも、学校のこともすぐに忘れて、結局大学院まで進学してしまった。あの頃は本当に毎日楽しかったけど、今は、二度と繰り返してはならない、自分の歴史だと思っている。だって、自分がドイツでのんびりと暮らしている間、水穂は賠償金の支払いができなくて、親に捨てられ、極道のおじさんたちの間で育ったのだから。
そういうわけで、蘭は、どうしても、生きていてもらいたかったのである。今まで一度も本人に謝罪をしたことがないし、蘭の母、伊能晴にも、一度でいいから、しっかり謝ってもらいたい。そして、贈賄したのをしっかり認めてもらいたい。蘭はそう考えていた。
「おーい、早く食べろよ。でないと、ハンバーグがまずくなるよ。」
不意に杉ちゃんの声が聞こえてきて、蘭はハッとした。
「あ、ああ、ごめん。急いで食べるから待ってて。」
蘭は、我に返ってハンバーグにかぶりつく。杉ちゃんのハンバーグはすでにすっかりなくなっていた。
「じゃあ、お皿を片付けるから、早く食べちゃってくれよ。」
杉三は、自身のハンバーグの皿を洗い始めた。本当に気が早いんだから、杉ちゃんは、と思いながら、蘭は、ハンバーグを食べ続けた。杉ちゃんの作ったものらしくハンバーグは意外に分厚く、結構食べきるにはボリュームがあった。
なので食べるのには時間がかかり、ちょっと考えながら、食べることができた。蘭は、ハンバーグを食べながら、
「月がーでたでーたー。月がーでたー、よいよい。」
何て、いつものベルカントで歌いつつ、お皿を洗っている杉三に、僕は絶対に負けないぞ、必ず水穂とやり直すんだからな!と、心の中で宣言していた。
そのころ、大学病院では、道子がまた研究室に閉じこもって、一生懸命何か書いている。
掃除のおばさんが、また心配そうな顔をして、彼女の研究を見物していた。
「道子先生。何をやっているんですか。もう、夜九時過ぎちゃいましたよ。早くしないと、終電も過ぎちゃいますよ。」
おばさんは、心配そうに彼女に言った。
「ええ、急遽、実験しなきゃならなくなったものだから。」
「へえ、どういうこと?今までの実験では足りなかったってこと?」
「そうなのよ。」
道子は、がっかりしてため息をついた。
「はあ、、、。大変ね。また何かあったの?また院長先生が命令を出したとか?」
「そうじゃなくて、命令したのは、また違う人だったのよ。これ以上新薬の投与を続けるのは、やめてもらいたいって。だから、ネズミを使って、別の薬で何とかならないか、実験しているんだけど、どうしても、あの薬ほどは敵わなくて。」
道子は、おばさんにわかりやすいように説明した。まあ、なかなかこういう話をしても、難しくてわからない、と言われてしまうことがほとんどであるが、おばさんは、別に嫌そうな顔はしなかった。
「まあ、あたしは掃除のおばさんだから、何もわからないけどさ。でも、道子先生が、一生懸命患者さんを何とかしてやりたいと思っているのは認めるわ。」
おばさんはわかってくれている、と道子は思った。
「でも、決してしてほしくないんだけど。」
おばさんは別の意味で心配そうなことを言う。
「道子先生が、自分の地位を上げるために、研究を続けるっていうのなら、それはやめてもらいたいな。きっとそればっかり考えていたら、きっとその人も嫌な気持ちしかしないと思うの。」
「そりゃ、執刀医じゃないから、直接患者さんの体をどうのこうのということはしないけれどさ、あたしだって、なによりも患者さんのために働くっていうのを、忘れないでいるから。」
道子はおばさんの心配をにこやかに笑ってごまかすが、それは、意識していなくても、頭の中で思っている気持ちだった。だって、今まで役に立たない研究ばかりしている、ダメな研究医だとさんざん言われてきて、つらい思いをしてきたんだから、それを何とかしたい気持ちは、常に頭の中にあった。
「本当にしないでよ。そうしたら、ほかの先生と変わらない、出世ばかりの堅物になっちゃうもの。」
掃除のおばさんは、まだ心配そうだ。
「そうね。」
そういって、鳥かごの中に入れておいたネズミを見つめた。やはりネズミにこの薬をあげても、回復している様子は見られない。人為的に免疫をおかしくさせたネズミに、薬を投与して、できるだけ暴走させず、症状を抑えさせるという実験なのだが、いつまでも成功しなかった。
「これでもだめかあ。」
レポート用紙に、実験失敗と道子は書き込んだ。
「でも、あきらめないわ。別の薬を使ってみる。あるいは薬の併用療法もいけるかもしれない。」
また薬の辞典を引っ張り出して、使えそうな薬の名前を調べ始める道子だった。
「道子先生。もう、明日にしたらどうですか。早くしないと、本当に終電の時間になってしまうわよ。この辺りは田舎だから、東京見たいに、夜遅くまで電車が走っていることはほとんどないのよ。」
掃除のおばさんはそういうのだが、道子は一生懸命調べ物をしている。
「道子先生。ほら、もう帰らないと。あと30分くらいで終電よ!」
おばさんは、ちょっと語勢を強くして、自身の腕時計を道子の前へ突き出した。
「道子先生!」
「は、はい!」
ハッと気が付いて、道子はおばさんに見せられた時計を見ると、もう、30分くらいで終電の時間である。この辺りは、一時間に一本程度しか電車が走っておらず、逃してしまうと、駅に寝泊まりしてしまうことになるのは、道子も知っていた。事実、道子も終電を逃したことは数多い。幸い、その時は駅前にあるちっちゃなビジネスホテルに泊まらせてもらって難を逃れていた。しかし、ホテルの支配人から、夏の富士登山シーズンになったら、観光客ですぐに一杯になってしまうから、今度来るときは、予約をしてから泊ってね、何て教えてもらったことがあった。そうなると、駅で一夜を過ごさなければならない。女性の道子はそれはどうしても避けたかったので、
「おばちゃん、ありがとう!」
と急いで言って、鞄をとり、研究室から飛び出した。
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