第五章
第五章
そのまま、杉三たちは、製鉄所を出て、例の「秘密基地」としているラーメン店に行った。恵子さんは利用者の食事を作るため、製鉄所に残った。由紀子もそばにいてやりたいからと言って、その場に残った。
水穂さんは、詰まったものが取れてやっと楽になってくれたようで、すやすやと眠っている。ちょっと安心したけれど、もうこれ以上、あんな修羅場は見たくないなと思った。そのうち、夕方になってきた。
日が落ちてくると、周りの空気も自動的に寒くなる。かけ布団一枚では寒いかなと思ったので、由紀子はうす掛けを上からかけてやった。掛け布団を整えてやると、目が覚めたらしく、目が開いた。
「あ、ごめんなさい、起こしてしまったかしら。」
しばらくあたまがぼんやりとしていたようで、回答はなかったが、数分後、はっと気が付いたらしい。
「す、すみません。ご迷惑かけました。本当に申し訳ないです。」
と言って、布団の上に座ろうとする。由紀子は、無理しなくていいから、と言って、再び布団の上に寝かせた。
「ごめんなさい。由紀子さんまで長居をさせてしまって。もし、用事があるのならお帰りになったほうが。」
「謝らなくていいわ。とにかく楽になるまでゆっくり休んで。あたし、ずっとこっちにいるから、すぐには帰らないわ。」
「そうですけど、早く帰らないと、仕事に間に合わなくなってしまいますよ。」
「大丈夫。田舎電車の駅員なんて、ほとんどやることはないし、気にしないで。あたしはあたしで、予定の管理くらいできるわよ。」
「あ、ああ、すみません、、、。」
できれば、謝ってもらいたくなかった。そうではなくて、気にしないで眠ってもらうのが一番だったのだが、それはどうも無理なようだ。
相変わらず、申し訳なさそうな顔をしてなぜかもじもじしている水穂さんに、
「どうしたの?眠ってくれてかまわないわよ。あたしのことは気にしないでくれていいから。ほら、休んでよ。」
と、由紀子は言ったが、
「いや、どうも申し訳ないというか、悪い気がしてたまらないんですよ。」
と、答えが返ってきた。
「じゃあ、あたし、どうしたらいい?どうしたら、悪いなんて言わないでくれるかしら?」
そういった由紀子だが、水穂さんはさらに困った顔をする。
「答えを言ってよ。」
一寸いら立って、そういってみた。何か答えが返ってきてくれるだろうか?
「だ、だって、そうなったら、由紀子さんも傷つきますよ。いえるわけないじゃないですか。」
ある意味、こういう言葉を言ってくれたほうが、親切なのかもしれなかった。何を言っているのか、この辺りでわかってくれる人もいる。それが日本人らしさ、という人もいるが、由紀子はそういう気にはなれなかった。
「具体的に答えを言ってもらえませんか。あたし、雰囲気でどうしろと言われても、わからないタイプですから。それは今の時代、許されないわけじゃないでしょ。」
一寸、語勢を強くしてそういうと、水穂さんも少し考えてくれたようで、
「わかりました。具体的に言うと、僕は由紀子さんにそばに居られると、申し訳なくてたまらないので、」
と、言いかけたが、これは若者のわがままか、先に答えがわかってしまうと、言ってもらいたくなくなってしまうのだ。由紀子は、その先、どんな文書が出てくるのか、大体わかってしまったので、
「それ以上いうのはやめて!嫌だって言ったら!」
と思わず口に出してしまったのである。
「嫌でも、かえってほしいのですが、、、。」
そういう水穂さんは、何か困っているようだった。
「水穂さんも嫌な人ね。私は、絶対に、帰らないわよ。それで、もういいってことにしてよ。ここに居させてよ。」
ボロボロ涙を出して泣き出してしまう由紀子に、水穂はそっと手拭いを渡して、涙をふくように促した。
「ごめんなさい。ムキになって。」
思わずそんなことを言うと、気にするなとでも言いたげに、そっと笑いかける水穂さんであったが、すぐにまたせき込んでしまうのである。由紀子はすぐに彼の背をさすってやった。
一方そのころ。杉三たちの秘密基地、「いしゅめいるらーめん」では。
「だからあ、もうやめようよ。あんな女の指示に従っていたら、其れこそお先真っ暗だ。もう、あんな危険な薬はやめてさ、もっと楽に過ごせるようにさせてやろうぜ。」
杉三が、そうでかい声で言った。
「そうだけどねえ、杉ちゃん。今までよりもさらに悪くなっていることは、まぎれもない事実だぜ。杉ちゃんと一緒に、フランスから帰ってきたあと、酷く疲れてしまったみたいで、あのあとからずっと具合悪そうにしているんだもん。」
ブッチャーが、ちょっと辛そうに言った。
「馬鹿野郎。人のせいにするな、人のせいに。もうだれだれのせいとか、そういう言葉はなしだ。そうじゃなくて、悪くなったという事実、そして、薬が合わないという事実、これだけ見ればいい!」
「青柳教授だったらそういう言葉使っていいけど、杉ちゃんに言われると、なんだかムカついてしまうのはなぜだろう?」
また首を傾けるブッチャー。
「俺、まだまだ修行が足りないのかなあ。どうしても、あそこまで悪くなった水穂さんを見ると、フランスへ行って、かなり体力を使ったとしか思えないんだよ。それを企画したというか、一緒に行った杉ちゃんも、嫌な奴になっちゃう。」
「まあまあ、この辺りは、杉ちゃんのほうが勝ちですよ。だれだれが悪いとか、何とかしてくれとか、相手に求めてもしかたありません。事実に対してどう動くかが一番大事というのは、向き合うにあたって、必ず実相に触れることになりますからね。まあ大体の人は、見かけやらなんやらで判断してしまって、実相はどうのなんて、ほとんど考えられないでしょうけどね。」
ジョチさんのこの言葉で〆てもらわないと、二人の討論は、収まりそうもなかった。この言葉を言われて、ブッチャーはやっと今までの考えをやめて、
「そうか、実相か。えーと、今回の実相は何だろう。まあ、とりあえず事実から判断すると、、、。」
と、気持ちを切り替えてくれた。
「じゃあ、まず事実を挙げましょう。まず、水穂さんに関しては、明らかに悪化したことは、皆さんもご存知だと思います。そして、小杉道子先生が処方した薬が、さほど効いていないと。」
「違うよジョチさん。そうじゃなくて、効かないではなく、合わないんだよ。」
ジョチの発言に杉三がまた揚げ足を取る。ブッチャーは、効かないと合わないの違いはなんだかよくわからなかったが、今は発言するのをやめておいた。
「そうですか。ごめんなさい。では合わないとしておきましょう。例の薬は、咳き込むことを眠らせることによって消すことはできますが、切れてしまえば、これまで以上にせき込んでしまうことになる。これが
、体に合わないということになりますね。」
さすがジョチさん。杉ちゃんの発言もうまく書き直して、わかりやすく修正することもできるのか。
「そうだよ。だから、そういう劇的に効く奴はだめなの。そういう奴は、切れたときの瞬間を怖がって、ますますそれなしではいられなくなっちゃうから。蘭の話では、あれ、20万したそうだぞ。そんな大金払い続けられると思う?」
「え、に、20万したんですか!いやあ、そ、それは確かに大変ですね。それを永続的に使用するなら、蘭さんのお宅はいくら大金持ちであっても、難しいんじゃないかな?」
「偉い。ブッチャー。そこをよく言った。薬を手に入れるために、こんな大金がぶっ飛んでいくなんて、やっぱりいやだよな。そして、体に合わないとなればやっぱり最悪だろ。だから、いくらこんにゃくがあっても足りないよね。きっとその金は蘭が払っているのだろうが、もう、合わないくせに、使い続けるようじゃ、経済面でもさっさとあきらめた方がいいよね。」
ブッチャーは、二十万という金額を聞いて、びっくりしてしまった。杉三も大金ということは、しっかり理解しているらしい。
「だから、あの小杉道子という女は、道鏡みたいな女なの。そうやって、抵抗しない患者から、効きもしない薬出して、大金をだまし取るわけ。それじゃあ、水穂さんばかりではなく、蘭も可哀相だぞ。」
「いいたとえですね。道鏡なんて。よく知ってますね。」
ジョチが、杉三のたとえに感心して、思わずそう漏らすと、
「はい、味噌ラーメンができた。」
ぱくちゃんがそういいながら、味噌ラーメンの乗ったお盆をもってやってきた。
「あ、すみません、そこにおいてください。」
ジョチの指示でぱくちゃんは、味噌ラーメンのどんぶりを、テーブルの上に置いたが、
「ねえ、みんな大事なこと忘れてない?僕はとにかく、水穂さんにもう一回ラーメンを食べに来てもらいたいと思っているのだけど、それは、思っちゃいけないの?」
と、悲しそうに言った。
「まあ、理想的に言ったらそうなりますが、現実問題、それは、無理だと思います。」
ジョチが静かにそう答えると、ぱくちゃんは、涙をポロンと流して、
「無理かあ。」
とだけ言った。
「まあ待て待てぱくちゃん。ほかにも行ける方法はあるかもしれんぞ。また恵子さんたちが、お前さんの店へ出前を頼むこともあるじゃないか。そうすれば、必ず水穂さんもいるんだから、それでお前さんのラーメン、食べてくれるさ。」
杉三がそう励ますが、ぱくちゃんはまだまだ落ち込んだままだった。ブッチャーはぱくちゃんに何か言ってやりたかったが、口が下手なために、どうしても思いつかないのである。俺も杉ちゃんみたいに、すぐに何か言葉が出てくればいいのになあ、、、とじれったく思いながら、とりあえずお茶を飲む。
「ねえ、杉ちゃん。杉ちゃんの言っている、道鏡ってだれかなあ?」
ぱくちゃんは、そう聞いてきた。
「ああ、道鏡は奈良時代の悪僧として有名な人物ですね。確か、孝謙天皇でしたっけ?その看病をしたこときっかけに、愛し合う関係になってしまって、ついには天皇家を乗っ取ろうとまで画策した人物ですね。そういう善人ぶって、裏では悪事を働く人って、結構いるんですよね。」
「そうそう、ロシア帝国のグレゴリー・ラスプーチンも似たようなところがあったぞ。二人とも、変なところが共通していて。こんな句があったじゃない。道鏡は、座ると膝が三つでき。」
ジョチの解説に、杉三が口を挟んだ。
「杉ちゃん、余計なことは覚えないほうがいいですよ。そんなのは、後世になってからの推測ですからね。おそらく、女帝と愛し合う関係になったから、そういう説が出ただけの事じゃないですか。」
「と、いうことは、孝謙天皇という人は、ものすごい美女だったんですか?」
ブッチャーはやっとそこだけ口を挟んだ。
「いや、どうでしょうかね。僕は、共産党の代表と一緒に、東京国立博物館に行った際、彼女の肖像を見させてもらったことがありますが、さほど美人とは思いませんでしたよ。それよりも、当時は、病気になるって、すごい一大事だったから、それを治してもらったというだけでも相当、ありがたく思ってしまうんじゃないでしょうか。そして、道鏡本人も、そこを十分知っていて、そこを利用して、皇室を乗っ取ろうと思ったんじゃないですかね。まあ、彼自身が本当に帝になりたかったかというところは、いろんな歴史家によって意見がわかれているそうですけどね。」
本当に、ジョチさんは、政治的なことは何でも知っている。やはり、政治家と接触してきた人物は、こういうところがちゃんとしていて、かっこいいなと思ってしまう。
「そうだよね。日本の王朝みたいなもんでしょう?天皇家って。そこを乗っ取るわけだから、かなりの重大事件だよね。」
ぱくちゃんもそう納得してくれたようだ。
「だから、もう一回考えるぞ。何とかしてその小杉っていう女を止めなくちゃ。このままそいつが暴走したら、蘭の家も破産しちゃうし、水穂さんもいつまでたってもよくならないままになってしまう。本当に、新しい治療とか、そういうものを試してみて、その実験中に亡くなるという逝き方は、非常に無念で切ないというもんだ。ほんとに、わずかしかない時間を薬に振り回されて過ごすことになるわけだからな。それよりも、思い出をたくさん作ってさ、最期だけでも生きててよかったと思ってもらうようにしなければいかん。」
杉三が、また硬い話を始めた。
「そうですね。もちろん、水穂さんには同和地区の出身者であるという、関門がいつもありますので、そこを取り払うのがまず難しいと思いますけどね。それは、どうしても僕たちにはできない事ですからね。僕たちがいくらもう時代は変わったと言い聞かせても、彼は納得はしないでしょうからね。」
ジョチは、一番難しい問題を話した。そうなると、同和地区の概念を持たない、フランスにいたほうが良いのだけはないかと、いう考えが出ても仕方なかった。
「そこは仕方ありません。それに、あのままではいずれにしても、さほど長くはないでしょう。確かに、最期には、普通の人間と同じようにという杉ちゃんの気持ちもわからないわけではないです。しかしですね、散々差別的に扱われていると、それから解放されたとしても、人間、かえって落ち着かないという概念も生じてくる。」
「僕は、少なくともこっちに来てからは、悩んだりしたことないけど?中国にいた時はすごい酷かったけどね。」
と、ぱくちゃんが言った。
「まあそうでしょうね。こんな言い方は失礼ですが、ぱくさんのご先祖は、中国の最高王朝と言われた、唐を滅ぼした民族とされていますからね。それによって人種差別されるのも確かにつらいですよね。」
唐と言えば確かに、中国人の多くがあこがれる王朝と言われる。日本でも、阿倍仲麻呂のような人が交流をもった記録があるし、ある意味では、花の都に近いかもしれない。
「僕はそういう訳で、どこかよその国家へ逃げてしまうことは悪くないと思う。だって、そのほうがよほど、楽だもん。」
「そうですね、ぱくさん。ある意味では幸せですよ。そういうことができちゃうんですから。そういう手もありますが、まず、一番大切なのは、一番の理解者が要るということじゃないでしょうか。例えば、今は出前の配達に行っているのでここにはいらっしゃらないですけど、ぱくさんには亀子さんがいるんだから。」
「そうなんだよなあ。ジョチさんの言う通り、水穂さんに一番足りないところはそこだよな。誰かアピールしてくれる人がいても、頑として受け付けない。」
ぱくちゃんとジョチが相次いでそういうと、杉三が、また口を挟んだ。
「まあいい、とにかくですね、歴史上の話に脱線しないようにしましょうね。もう一度本題に戻ります。水穂さんには、先日小杉先生に出してもらった薬は合致しないし、大金もかかりすぎることから、中止した方がいい。僕たちの導きだすべき結論はそれですね。」
ジョチは、もう一度結論をまとめた。ブッチャーは、できれば、咳き込まない状態でいてほしかったが、やはり危険な薬を使ってしまうのは、良くないということで、やめることを決断した。
「おう、ぜひそうしてくれ。でないと、完全に道鏡に騙される。」
「俺も、水穂さんにとって、あぶないのであれば、そのほうがいいと思います。俺の姉ちゃんも、体に合わない薬を飲まされて、さんざんな目にあいましたので、同じことを水穂さんにさせたくはありません。」
ブッチャーも杉三も、相次いでそう発言する。
「じゃあ、そうしましょう。もし口で言っても、彼女がわかってくれないようであれば、僕が嘆願書を書いてもいいですよ。」
「理事長、僕が、もう一回ラーメンを食べに来てほしいと言っていると、嘆願書に書いてね。」
ジョチがそう結論付けると、ぱくちゃんが、しゃべり方こそ敬語ではないが、表情は真剣そのもので言った。
「水穂さんに病気には負けないでと言ってね。」
みんな、もう確実に負けるんだよ、と一瞬思った。でも、それを口にしてしまうと悪いような気がして、
「わかりました。伝えます。」
と、ジョチが代表して答えを出した。
「さあ、ラーメンいただきましょうか。でないとすぐに伸びてしまいますから。」
三人は、箸を受け取ってラーメンを食べ始めた。さすがに太い麺なので、あまり伸びるということはなかったが。
水穂さんは、まだせき込んだままだった。
「大丈夫?苦しい?」
由紀子が、背中をなでたりたたいたりしているが、もう一回痰取り機のお世話になったらどうしようと、ひどい不安を隠せない表情をしていた。
「吐きそうなら、言ってね。」
そういうと、水穂もせき込みながら、頷いてくれたので、由紀子はまたタオルを口元にあてる。水穂はさらにせき込み、ついにタオルが朱に染まった。こうなるとかえって良いものだと思った。あの、痰取り機という、いって見れば戦争で使う、危険な兵器のような機械のお世話になるよりも、本人の力で吐き出してもらったほうが、ずっといい。
「水穂ちゃん、ご飯よ。」
もうそんな時間かあ。
と、由紀子が考えていると、恵子さんが、お盆をもって、四畳半にやってきた。
「あら、まだいらしていたの?もし、仕事があるようなら、早くかえってくれていいわよ。」
恵子さんはそういうが、
「いえ、あたしはぎりぎりまでいたほうが、気持ちが楽です。」
と、由紀子はきっぱりと言った。
「そう。それじゃあ、悪いんだけど、ご飯食べさせてやってくれないかしら。もうこの人にご飯くれると、毎回毎回苦労するから。」
恵子さんの口調に悪気はないが、由紀子は少し悲しそうな顔をした。それでも、恵子さんは、そうなってしまうんだろうな、仕方ないと思いながら、
「わかりました。やります。」
とだけ言った。
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