第二章
第二章
翌日。
食事をしている水穂に、恵子さんが様子を見にやってきた。
「どう、少しくらい食べられた?」
「はい。」
恵子さんの質問に対し、水穂はおかゆの器を恵子さんに差し出した。とりあえず、三分の一くらいは、減っているらしい。
「ああよかった。また何も食べなくなっちゃったら、本当におばさん困っちゃうところだった。もうこの間みたいなことはしないでね。体に変わりない?」
「はい、変わりありません。」
恵子さんの質問に、水穂は素直に答えた。
「変わりないか。それじゃあ、正直力が抜けちゃったわ。もっとよい答えを出してくれるかと思ったのに。あの先生が出してくれた薬もらって。」
と、恵子さんは一つため息をつく。
「よくなったと思ったのにな。」
「でも、本当に、変わりないのですから。」
水穂も返答に困ってしまう。
「まあいいわ。知らせがないのはいい知らせっていう言葉もあるくらいだから、それでいいにしておく。」
おそらく、そう考えるのが一番適切だと思われた。
「でも、咳き込むのが減って、本当によかったわ。自分では気が付かないと思うでしょうけど、だいぶ、咳き込むのが減ったわよ。」
「そうですか?」
「ええ、少なくとも、あたしはそう思うな。まあちゃんと、正の字を書いて記録しているわけではないけど、何となく直感でさ。」
「あ、わかりました。すみません。」
「すみませんじゃないわよ。もっと喜ぶべきだと思うんだけどなあ。なんでまたそんなに、謝るのよ。本当に、ぬか喜びするような発言ばかりするんだから。」
恵子さんが、ムキになって怒り始めたので、水穂はまたすみませんと言って頭を下げた。
「もういいわ。もう、しゃべっていると、いつもごめんなさいっていうんだから。もうちょっと、喜べるような発言して頂戴よ。」
恵子さんはため息をつき、食器をもって部屋を出ていくのだった。
「せっかく良い先生が来てくれて、あんなにいい薬出してくれたのに。なんであの人喜ばないで、すみません何ていうのかしらねえ。」
いつもいつも、回復すれば、ぬか喜びする発言ばかりするのが、水穂なのだった。
「あーあ、苦しがるときは、本当に苦しがって、もうあたしもヒヤッとするし。よくなれば、すみませんだの、ごめんなさいだのばっかりで、本当に、なんであたしが喜ぶ発言はしないんだろ。そういう考慮とか、考える余裕なんかないってことかしらね。でもねえ、もうちょっと、あたしたちの気持ちもくみ取ってもらいたいんだけどなあ。」
そういいながら、恵子さんは廊下を歩き始めた。ああ全く!と首をひねりながら。
「結局、あたしたちの意思が伝わることはないってことかしらね。」
いずれは、そうなってしまう可能性もあった。礼なんて言ってもらえることもなくなる可能性もあった。でも、なぜか期待するなと言われれば言われるほど、なぜか一言いってほしいなと思ってしまうのであった。
事実、道子にもらった止血薬のおかげで水穂がせき込んで血を出すということは減少した。そこだけははっきりしている。それに便乗して食欲も向上し、少なくとも小さな行平の三分の一くらいは、食べてくれるようになった。本当は、行平一杯完食してもらいたいが、それはまだ無理なようだ。でも、これから、完食してくれるかもしれないと思えた。ほんの小さな変化であっても、重病人にとっては、大きな大きな第一歩であることは、よくあることであった。
ところが、そのような変化をもたらしてから、数日後。
「次に先生が来たときはちゃんとよくなったと伝えるのよ。そうすればまた、薬の事とか、しっかり考えてくれるからね。ちゃんといい薬もらえるからね。」
恵子さんは、嚢胞だらけの水穂の体を拭いてやりながら、そう言ったが、反応はなかった。
「どうしたの?あんまり嬉しそうじゃないわねえ。また何かあった?」
と、心配そうに聞いた。
「いや、あれ、あんまり好きじゃないんですよね。」
体を拭いてやっていると、水穂から答えが返ってきた。
「何よ、あんまり好きじゃないって。だって、あの薬のおかげでせき込むのもずいぶん減ったじゃない。それによく眠れるでしょう?だったらよくなっているんじゃないの。それだったら、あんまり好きじゃないなんて、言うべきじゃないわよ。」
「はい。すみません。でも、飲んでしまうと、どうも気分が悪くなるので、あんまり好きじゃないんですよ。」
正直に答えた水穂だが、恵子さんはまた嫌そうな顔をした。
「そんなバカなこと言わないでよ。まあ多少、副作用はあるんでしょうけどね。ちゃんとよい作用もしているんだから、しっかり使うべきなのでは?」
「そうですよね。ごめんなさい。わがままをいって。」
「だからあ、わがままじゃなくて、ちゃんと薬飲んでしっかり生活してよ。よくなった時もごめんなさいだし、悪くなった時もごめんなさいで、いつもいつも同じせりふばっかりだと、幸せが逃げて行っちゃうわよ。」
恵子さんは、がりがりの骨っぽい水穂の背中を拭いてやった。
「もう寒いから、ここまでにしようか。ほら、浴衣着て。それくらいならちゃんとやれるわよね。」
「はい。」
水穂は、寝転がったまま、長じゅばんを着た。こういうときは上下に分かれたパジャマよりも、日本式の浴衣のほうがよほど着やすいものであった。その上から浴衣を着ようとしたが、もう疲れてしまったらしく、腕を上げるのも一苦労であった。それでも、何とかして浴衣を着用することができたものの、少し息切れしてしまい、恵子さんはまたせき込むのかと予想したが、幸いそれはなかったので、ほっとした。
「じゃあ、体もきれいになったから、あとはゆっくり眠ってね。無理しないでゆっくり休んでよ。」
「はい。」
やっぱり、体がさっぱりして気持ちよくなると眠れるのだろうか。静かにすやすやと眠ってくれたので、恵子さんはとりあえず安堵した。この時は、気分が悪くなるというセリフは気にも留めなかった。
一方そのころ、蘭は。
例の女性医師、小杉道子を家の中へ入れて、水穂が目下どういう状態なのかを聞き出していた。
「で、どうなんでしょうか。先生。あいつは一体。」
蘭が、お茶を出しながら道子にそう聞くと、
「そうねえ。とりあえず薬は出しておいたけど、元通りになるには、正直難しいわね。あの病気の人は、比較的軽い人であっても、後遺症は残るのよ。」
道子は正直に言った。
「つ、つまりですよ。奴がかかった病気といいますのは、か、必ずその後遺症というものが残ってしまうということでしょうか!」
蘭がまたそう詰め寄ると、
「まあねえ、ほら、ただでさえ、重大な症状を引き起こす病気が、四つも重なって起こるわけだからね。ステロイドや、免疫抑制剤のよいものがあるからと言って、全部が抑えられるとは限らないのよ。
特に、全身性硬化症の症状は、一生残ってしまう場合がほとんどなの。そうなると、内臓が、硬くなったまま、動かない状態になるから、使い物にならなくなって、臓器移植に頼らなければいけないこともあるわねえ。」
と、道子は説明を開始した。
「じゃ、じゃあですよ。ほかの、つまり、それ以外の症状は止められるということなんでしょうか!」
蘭はもう一度、道子に詰め寄った。
「まあ、症状自体は、止められるかもしれないけど、炎症が起きて出血したり、硬化した臓器は戻らないわね。よくね、この病気の方のご家族によく質問されるんだけど、全部の症状を抑えることはできないわよ。だって、四大膠原病の全部の症状が一度に着ちゃうわけだから、いくつあると思う?それに、ひとつの症状に対してこれを使えばいいというようにはいかないのよ。だから、完璧に止めることはできないわね。それくらい複雑なのよ、水穂さんは。」
「くそ!何てことだ!」
蘭は思わずテーブルをたたいた。
「考えてみなさいよ。いい?水穂さんの体は、四つの重い膠原病が同時に同居しているんだと思って。そうなると、あるところは炎症を起こして出血し、またあるところは、硬化して動かなくなるという状態が同時に起きているということになるのよ。この二つだけでも苦痛で大変なのに、それに加えて、全身の筋肉も弱ってきて、歩くのもできなくなるし、万歳もできなくなるわ。それに、皮膚が侵されて、嚢胞が全身に飛び火すれば、魚のうろこみたいな皮膚になっていくでしょうよ。それがめちゃくちゃに現れてこっちも何が起こるか、予想ができないのよ。それぞれの四つが単独で発症した場合は、何とかできるかもしれないけど、全部が現れると、どこから手を打っていけばいいのか、予測がつかないのよ。一応ねえ、全部の膠原病の一パーセントくらいしか起こらないんだけど、一回起こってしまうと、手の打ちどころがないくらい重症化するのが、オーバーラップの怖いところなのよ。」
とにかく、内容はよく理解できないけれど、四つの怖い病気がすべて、一人の人間に現れるということなのであった。こうなると、確かに何処から治療していけばいいか、困ってしまうことも十分あり得る。だから、医療関係者も説明に苦労してしまうのだろう。
「と、とにかく奴は何とかならないものでしょうか!奴が何とかして立ち直ることは、もう無理なんでしょうかね!」
「あきらめたほうがいいかもね。蘭さん。ほんの一パーセントという、非常に少ない数字だけど、こういう重症の人が出ちゃうということはあるのよね。そういうのって、あたしたちもよくわからないけど、運が悪かったとしか言いようがないわよ。」
こういわれてしまうと、蘭はどうして彼女を呼び出したのか、まったくわからなくなってしまった。とにかく調べた限りでは、彼女は治療者として、期待の持てる存在だと、本にもサイトにも書いてあったのに。今更、こんなことを説明されても仕方ない。とにかくあきらめず、水穂を何とかしなければと思った。
「先生、本当に奴がかかった病気というものは、原因が解明されてないんですか?」
蘭は静かに聞く。
「ええ、それぞれの膠原病においては、何処の細胞が凶暴化したのかを突き止めることは可能ではあるけれど、なぜ、一人の人間が、四大膠原病全部の症状を出すまで重症化するのかは、研究の段階でよくわかってないわ。遺伝子の関連なども騒がれているけど。」
道子もとりあえずの現状を言った。
「じゃあ、治療法も全くわかってないということですかね。」
「そうね。重症化する理由がわからなければ、手を出しようがないって感じかしら。あたしたちはその研究は進めているけど、まだ発見はしてないわ。もしできたら、世紀の大発見よ。」
蘭の発言に道子は正直に、しっかり答えた。
「わかりました。じゃあ、先生が出世するために、やつを利用してやってください。その代わりやつを、確実に立たせて歩けるようにしてやってください。」
あたまを下げて懇願する蘭に、
「無理なものは無理よ。事実、オーバーラップ症候群にかかった人は、症状が重たすぎて苦痛が大きいことが多いから、こっちもあんまり荒療治はできないのよ。」
と、道子は断った。
「そうですけど、今のままでは、やつは確実に逝ってしまいます。そこだけはどうしても避けたいんですよ。やつを必要としている人は、本当にたくさんいますし。事実、広上さんというコンダクターが率いるオーケストラから、リストのピアノ協奏曲をやってくれという依頼があるんです。やつは、もうピアノなんか確実に弾けないと思っているようですが、僕はそれを奴が生き延びるための、道具にしてもらいたいと思っているんです!」
早口でまくし立てる蘭に、道子はある意味恐怖を感じた。
「それに先生は、膠原病の新薬の研究とか、臓器移植の研究なんかでかなり高い評価を受けているそうですね。でも、それを発表したくても、ほかの研究者に邪魔されてしまって、息巻いてもいたと報道で知りました。なんだか、この治療法は、危険すぎると言って、お偉い方が発表するのを邪魔しているって、テレビで発言していたの、僕も見ましたよ。まあ、確かに先生のような若い人が、すごいものを開発すると、年寄りが黙っていないことは認めます。今の日本はどうしても、若い奴は黙っていろという傾向が強いですし。若い人が新しいものを発明すると、みんなで足を引っ張り、できなくさせますから。でもその代わり、オリンピックの選手のように、お国の名誉をあげるために頑張った人に対しては、ものすごく応援しますけど。」
「だから、何なのよ。蘭さん。」
道子はもう一度蘭に言った。
「だけど、先生の研究はきっとどこかで役に立っていることを知ってください。例えば、水穂みたいに、重病人の治療を開始してくだされば、本人だってきっと楽になりますし、僕たち周りの人だって、本当に楽になるんです。楽という言葉がどんなに大切なのか、医療者の方には理解しにくいかもしれないですけども、僕たちにとっては、本当に本当に、天からのパン見たいに大切なものなんですよ!それにね、治療が成功すれば、ほかに苦しんでいる人も救えるわけですから、これはお国のためにやくだつことにもつながるんですよ!」
確かに道子も、研究者として、ほかの医者から役に立たないものに目を向けても、無駄じゃないかと言われ、憤慨したことは実によくあった。オーバーラップ症候群に罹患する人は極めて少ないのだから、それよりもほかの膠原病について研究をした方がいいのではないか、とからかわれたことも数多かった。
「どうかお願いします!やつを実験台として使ってくれて結構ですから、その代わり、やつをこっちへ、連れ戻してやってくれませんか!」
蘭は再度、頭を下げて懇願した。
「そうね、蘭さんがあんまりいうなら、そうしてもいいかもね。」
道子自維新もほかの研究医からからかわれてばかりいる生活と、さようならできるのではないかと、ちょっと希望を持ったのであった。
確かに十年以上ひたすら研究をしてきて、成果が出たことは一度もなかったし、誰かから、治療のお願いをされたことも初めてだった。そうなれば、やっと自分を認めてもらえたようで、確かにうれしいことはうれしかった。だから、思い切って、蘭さんの依頼に従ってしまおうかと思った。
「わかったわよ蘭さん。じゃあ、定期的にこっちに来るようにしますから。」
道子がそういうと、蘭は天にも昇るような気持ちになったのか、
「やった、やった、万歳、ばんざい、ばんざーい!」
と、素直に喜びを表してくれた。こんな時に、こうして喜んでくれたのだから、本当に水穂さんのことを治してやってほしいと思っていたのだろう。
「よし、これで奴も何とかなるぞ!もう素人には治すことはできないから、やっぱり餅は餅屋だあ!」
よかったねえ、蘭さん。本当にそれだけでそこまで大喜びするのだから、本当に、君は単純素朴な男だ。大学院まで出た高学歴のはずなのに、なんでそうなんだろうか。もしかして、そういう高学歴ほど、意外に単純なのだろうか?
そのあと。
「水穂さん、大丈夫ですか?これじゃあもう薬飲んで眠ったほうがいいですかねえ。あんまりこれじゃあ、よくなったとは言えませんよ。恵子さんが、だいぶ咳き込まなくなったと言いましたが、それは大間違いですねえ。」
ブッチャーは心配そうに水穂に言ったが、返事はなく、咳き込んで返答するだけであった。
「もうこれじゃあ、お辛いでしょうから、眠ったほうが良いですね。じゃあ、これ、はい。どうぞ。」
ブッチャーは、そういって吸い飲みに入った薬を差し出すが、水穂は嫌そうに顔をそむけたのであった。
「なんでですか。あの小杉先生が出してくれた薬ですよ。あれを飲めば咳も止まって、楽になれるでしょう?」
と、言っても、薬をくちに入れるのを嫌がるのである。
「だからあ、少なくとも飲めば楽になるんじゃないですかあ。なんでまた拒否するんですか?」
「ら、楽になんかなりません。む、むしろ気分が、」
ブッチャーの質問に答えを出そうとした水穂であったが、咳に邪魔されて、答えが出なくなってしまうのだった。
「だから、仕方ないですよ。多少の副作用はどんな薬にもありますよ。多少つらくても、咳は止まってくれるんですから、それに越したことはないでしょう。ほらあ、飲んでください。そうしたら、横になって休んでくれれば、だんだん眠くなってきて、楽になれますよ。」
「嫌で、」
一文を言いかけたのだが、同時に魚の骨でも刺さったような気がして、それを出そうと思いっきり咳き込むと、口から噴水のように生臭い液体が噴出した。
「だから、飲まなくちゃだめですよ!飲まなくちゃ!」
ブッチャーは、まだせき込んでいる水穂の体を抑えて、無理やり吸い飲みを彼の口に突っ込み、中身を流し込んだ。
「なんでこんなにわがままになっちゃったんだろうなあ。」
辛そうに中身を飲み込んだ水穂に対して、ブッチャーは一般人らしくつぶやいた。中身がなくなって、吸い飲みを口から出すと、暫くは咳き込んでいたが、次第に静かになる。そして、倒れるように横になり、静かに眠りだすのであった。まあ、一般の人から見れば、今までの止血剤や睡眠剤とほぼ変わらないように見えるのだが、やっぱり本人にしてみたらつらいものがあるのだろうか。
「俺たちは、どう接したら、いいのかなあ。」
ブッチャーも、どうしたらいいのかわからなくなっていた。
「ある時は、良くなっているように見えるけど、悪いときはずっとせき込んだままで、最終的にはこれだもんな。でも、俺の姉ちゃんもそうだったな。本人はずっと苦しいんだろうし、俺は文句は言わないぞ。」
そう誓いの言葉を立てて、ブッチャーは水穂に布団をかけてやった。果たして、その誓いが守れるかどうかは不詳だが。
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