本篇18、道鏡、現れる!

増田朋美

第一章

道鏡、現れる!

第一章

もう二月も終盤になり、そろそろ春が近いかな?と言われる季節になった。ところが、今年は冬が長く、いつまで経っても雪が消えないで、ひたすらに寒いひが続いている。もう毎年恒例のセリフになっているけれど、今年はおかしいねえという言葉が、あちらこちらで聞こえるようになってきていた。

今日も、杉三と蘭が二人でお昼を食べていると、杉三の家の固定電話が鳴った。

「もしもし、影山ですが。」

「あ、杉ちゃん俺だけど。」

電話をよこしたのはブッチャーである。

「何?」

「あのさあ、恵子さんたちがすごく心配しているんだけどさあ。ちょっと教えてくれないかなあ。」

電話口でブッチャーは、心配そうに言っていた。それを聞いて、蘭はハッとする。

「なんだよ、また水穂さんのこと?奴の事なら放っておけよ。もう、そのままにしておけばそれでいいんだよ。」

さすがに、手の施しようがないんだから、というセリフを言いたかったが、蘭に知らせたらまた嫌な話が出るのでやめておいた。

「そうじゃなくて、聞いてくれ聞いてくれってうるさいんだよ。杉ちゃん。水穂さんフランスでどういう生活をしていたのかって。」

「だからあ、何回も言うが、ひたすらに布団に寝ていたよ。あとはご飯を食べて、憚りに行って、たまに公園に散歩に行った。それだけのことだ。その何が悪いというんだよ。」

「そうかあ!それでは特に無理をしたということはなさそうだよねえ。じゃあ一体どうしてこうなってしまったのだろう、、、?」

「はあ、なるほど。それほど深刻なの?」

ブッチャーの話を聞いて、杉三はそう尋ねる。蘭が、心配そうに身構える。

「そうだよ、杉ちゃん。昨日もご飯を食べる前にいきなりせき込みだして。俺たちが支えていなかったら、また畳屋のお世話になるところだったよ。それが何回も続いちゃって、恵子さんときたら、寝不足で今日の朝ご飯を作るのを忘れるくらいだったんだから!今度は畳が足りないのではなく、口に当てるタオルが足りなくなると言っていたぞ!」

「はあなるほど。それくらいきついわけね。」

「そうですよ。だからどうしていたのか聞きたいわけ。杉ちゃん、こんな状態で、ほっとけばいいのさ、なんて言えると思う?言えないでしょ!もうね、一日に何十枚のタオルが、洗濯機の中に放り込まれるんだよ!ほらあ、血液洗うのって、難しいだろう?だから、すぐにタオルを戻せないわけで。」

「まあ、そうだけど、こっちもそれしか言いようがない。洗濯機にタオルが放りこまれるのなら、あたらしいのを沢山買って来ることだな。あと、詰まらせるかもしれないから、痰取り機も忘れずにな。じゃよろしくな、頼むよ。」

そういって杉三は無断で電話を切った。

「杉ちゃん。そこまっで深刻だったのに、なんで一回も連絡よこしてくれなかったんだよ!」

蘭は、思わず杉三に詰め寄る。

「だって、僕が読み書きできないのは知っているだろうし、国際電話は金がかかるし、よそさんの電話借りて国際電話をするにも、申し訳ないしねえ。」

「そんな呑気なこと言ってる場合じゃないだろう?そういう時は、日本へ電話をよこすんだよ。もう、こっちで何とかするんだよ、杉ちゃん!」

「だけどさ、あんなすごい大地震で、混乱している中に戻せると思う?其れだったら、静かなフランスに居させてやるのが一番いいだろうが。そのほうが、ゆっくりしていられるだろ?だから、連絡なんかしませんでした。そんなことしたら、お前さんも騒ぎだすから!」

「酷いこと平気で言うんだな、杉ちゃんは。」

蘭は、大きなため息をついた。

「じゃあ、治療も何も、たいしたことはできなかったのか。」

「そうだねえ。日本にある、睡眠薬は危ないから使わせないというのが、当たり前なんだってさ。日本は危ない薬が平気で販売されているから、困るんだって。それにしても、ヨーロッパでは厳しいよな。そういう薬を使わせると、犯罪者として捕まっちゃうんだとよ!」

「くそ!」

と蘭はテーブルの上に顔をつけた。そうだったら、やたらに保守的なヨーロッパよりも、新しいもの大好きな、アメリカに行かせたほうが、もっとよかったのではないか。ヨーロッパでは、やりすぎを反省して、退化しているほうが美徳とされることさえあるという。大体、臓器移植の希望者は、アメリカに行くことも多い。

いずれにしても、今回のフランス滞在のせいで、水穂が回復するということは全くなく、それどころか、ますます弱ってしまったという結果に終わってしまったということは確定した。もう、ブッチャーも、恵子さんも、なんでわざわざあんなところに水穂をやったのだろう、と思ってしまう。まあ確かに、大地震で日本全体が大混乱に陥ったことは疑いないが、そのせいで、水穂をわざわざ遠く離れたヨーロッパまで飛ばしてしまうなんて、なんだか、どこかの僻地に左遷させたようなものではないか!

その隣で、また納豆をむしゃむしゃ食べている杉三も憎たらしくなった。この納豆は、杉三がパリの万事屋さんで買ってきてくれたものであるが、なんでまたこんなありふれた食べ物を買ってきたのだろう?しかもその納豆は、欧米人向きに、匂いが大幅に抑えられていて、ただ醤油の味がするだけの、何にもおいしいと感じない納豆だった。こんなもの買ってきたなんて、杉ちゃん、僕のことをバカにしているだけではないだろうか!

よし、これなら、もうあそこへ頼んでしまえ!と蘭は思った。


そしてその翌日の事である。

その日も暖かくて、気持ち良いと言われる日だったが、水穂は相変わらずせき込んでいたのだった。

「ああ、もう、苦しい?しっかりして。目を閉じないで。」

咳き込んでいるときは、座ったままでいてもらわないと、また畳屋さんに世話になることになってしまう。様子を見に来た由紀子は、布団のそばに座って、背中をさすったり、たたいたりしていた。杉三が、由紀子にお湯で濡れたタオルを渡すと、さらに激しくせき込みだして、

「ほら、言ってるそばから!」

由紀子がタオルを当てたのと、口元から、赤い液体がぼたぼたと流れ落ちてきたのとほぼ同時だった。

「あーあ、だめだこりゃ。蘭が心配するわけだわ。これではいかんな。やっぱり弱っちゃったんだな。」

杉三が、思わずそういって、あたまをかじった。

「とにかく、出るだけ出してしまったら、すぐに寝かせてあげたほうがいいわね。」

由紀子は、まだ背中をさすってやりながら言った。

「まあ、つまらないでよかったな。それだけはよかったことにしようぜ。」

「そうね。ほら、苦しい?ああ、ああ、もう、ほら。一度に全部出すのではなくて、ゆっくり吐き出してみて。」

通じたかどうかは不明だが、由紀子の指示通り、水穂は激しくせき込むのではなく、だんだんに、咳き込むのがゆっくりになっていった。よしよし、これでもうちょっと楽になるかな、と杉三がやっと安心したように言う。

「よし、吐き出したのなら、もう寝よう。」

「そうね。薬飲んで眠りましょうか。」

由紀子は、苦しそうに息継ぎをしている水穂を、両手で抱えて、布団に寝かせてやった。

「それがな、あの薬はもうやめちゃったんだ。もう、危険すぎるとして、使用禁止になってしまって。フランスで一回医者に診てもらったときにな、こんな危険な睡眠薬を使うのは、こっちではしてはいけないと、フランスの医者に言われてしまって。代わりに、簡単な止血薬くらいしか出てないんだよ。」

「わかった。それだけでもいいから、飲ませましょう。何もないよりましよ。」

由紀子は、杉三から薬の袋を受け取って、吸い飲みの水に溶かして、それを水穂に飲ませた。杉三が言った通り、急激に眠気をもたらすような、強い効き目の薬ではなく、眠るというより、うとうとした、いわゆる転寝をしているだけであった。

しかし、30分もじっとしていられない。30分経ったら、また目を覚まして、すぐにせき込み始めるのである。

「おいおいおいおい、お前さんどうしたんだよ。なんでまたそんなに頻繁にせき込むんだ。このままだと、出すもん、なくなっちゃうんじゃないか?」

杉三が、わざとらしく冗談を言ったが、

「悪い冗談はよして。苦しいんだから、そんなこと言わないであげてよ。そんな、からかうような言い方すると、可愛そうよ。」

由紀子は急いで杉三をそう制した。

「ご迷惑かけてすみません。」

目の覚めた水穂が、細い声でそういった。これで二人は、大きなため息をつく。

「だからあ、気にしなくていいんだってば。」

「杉ちゃん、矛盾したことは言わないであげてね。」

由紀子は、そういったけれど、其れこそ医療とか介護者のよく言うセリフであった。裏では迷惑だと言っておきながら、本人の前では、気にするなとか、そういうセリフをうるさく言う。もし、感性のいい患者であれば、医療者たちのそういうセリフは実は偽装で、裏では、迷惑しているということに、すぐ気が付いてしまうかもしれない。特に、水穂のような重症の患者では一層のことである。

「まあ、でも仕方ない。なったもんはなったもんだ。もうごちゃごちゃ心配することはやめような。よし、早く寝ろ。」

なんという乱暴な言い方をするんだろうと思ったが、由紀子も、できることはそれしかないんだということに気が付く。結局、あたしたちがしてやれることはそれしかない。ごめんなさいね、水穂さん。

水穂は、再びうとうとし始めてくれたのだが、また三十分くらいたつと、咳き込んでしまうのであった。こりゃあ、ダメじゃないか。と、杉三も由紀子もため息をつく。たぶん、日本の気候とか、そういう問題があって、薬が役に立たないのだろう。


丁度その時。

「えーと、このお宅でしたわよね。今日は。だれかいませんか?」

と、玄関先で声がした。いつもなら来客の応答は、恵子さんの役目であるが、あいにく今は料理教室へ出かけてしまっている。代わりとして、由紀子と杉三が留守番を頼まれていたのだ。

「たぶん、何かのセールスだと思うから、追い出してこようか?」

と、杉三が言ったが、どうもそういう感じではなさそうだった。と、同時に水穂が三度咳をし始めた。杉ちゃん、悪いけど、水穂さんみてやって、と、由紀子はお願いして、玄関先に行った。

「はい、何でしょう。」

「あの、私、こういう者ですが。」

由紀子は名刺を渡した女性をじっくり観察した。なんだか堂々として、強そうな雰囲気のある女性だった。

「磯野水穂さんという方が、こちらに住んでいると伺いましたが?」

「ええ、確かにここにおりますが、彼に何をしに来たんでしょうか?」

「何をするって、もちろん診察に来たんですよ。ある方に頼まれてこちらへ参りました次第です。磯野水穂さんという方を、救ってほしいというものですから、こちらへ来させてもらいましたの。それではいけませんか?」

由紀子は、彼女の名刺に書かれているたくさんの肩書を見ても、何をしてくれる人なのか全く分からなかったのだが、とりあえず「医師」という肩書と、「小杉道子」という名前だけは読むことができた。すでに沖田先生や、影浦にさんざんお世話になっているのだから、もうよいのではないかと思ったが、四畳半のほうからでっかい声で、

「おいおい、何回やれば気が済むんかいな!」

と、杉三が言うのが聞こえてきたため、これはもう、この人に何とかしてもらうしかないと思い、中へ入れてしまったのであった。

中へ入った道子は、由紀子に促されて、四畳半へ直行した。ふすまを開けると、水穂がまた苦しそうにせき込んでいて、杉三が彼の口に当てていたタオルが、かなりの範囲で汚れていた。道子は自己紹介も何もしないで、

「まず、こうしなくちゃだめね。」

と、由紀子に水を持ってくるように言った。由紀子が急いで台所へ行き、吸い飲みに水を入れて戻ってきて、それを道子に渡す。道子はその中に粉薬を入れて、水穂にそれを飲ませた。それは以前飲んでいたような不気味な青い色の薬ではなかった。日本にはこんなにいろんな種類の薬があるんだなあと、杉三がまた馬鹿笑いをする。薬を飲ませると、咳き込むのはやっと止まってくれて、杉三は、口に当てていたタオルを彼から取った。みんな大きなため息をつく。

やっぱり、薬には眠気を催す成分というものがあるらしく、そのまま水穂は眠り込んでしまった。由紀子が、かけ布団を丁寧にかけなおしてやった。

「いつも眠っちゃうと、変な夢を見て、ワーワー騒ぐことが多いんだけど、大丈夫かなあ?」

杉三が心配してそういうと、

「大丈夫よ。そういう危険な成分は入っていないから。」

道子はにこやかに言った。ということは、薬も改良されてくれたのだろうか?

「あの、手当してくださって、本当に、ありがとうございました。本当に助かりました、ありがとうございます。」

由紀子は改めて頭を下げる。

「いいえ、問題はここからよ。この人は何回もこういう症状を出しているの?」

「おう、当たり前のようにやっている。年に何回畳を張り替えたら気が済むのってくらい汚している。畳代がたまんないよ。」

道子の問いかけに、杉三が、あっさりと答えた。

「そうなのね。どうしたら、彼を何とかできるかを考えましょうね。たぶんきっと、そこまでひどいと、通常の免疫抑制剤では、間に合わないかもしれないわね。大体こういう病気にはそれが多いんだけどね。だから究極の選択として、肺移植でもしない限り、ダメじゃないかしらね。」

「まあ、そうだよな。いずれにしても無理なものは無理なので、あきらめて頂戴ね。」

道子の発言に杉三はすぐ否定したが、由紀子はまだなにか助かる道があるのか!と聞かされたようで思わずハッとしてしまった。そうすれば、また水穂さんも、たってあるけて、ピアノが弾けるようになるのかもしれない!

「それはどんな方法なんですか。この人を何とかするには、何かまだ方法があるんですか!」

思わず口に出してそういうと、

「方法はないわけじゃないけど、結構大変であるということは、覚悟しておいて頂戴ね。」

と、道子は高らかに言った。

「つまり、誰かから、健康な臓器をもらってくることよ。たぶん、脳死判定からもらってくることはちょっと遅すぎると思うから、誰かに立候補してもらって、その肺の一部をもらうの。大体は、二人以上名乗り出てもらうんだけど、この人は、体も比較的小さいし、立候補者が体の大きな人であれば、何とか一人でも大丈夫だと思う。」

詰まるところの、生体肺移植か。こりゃあまた、大変なことになる。

「ええー、やだやだ。めんどくさいよ。そんなもの名乗り出るやつなんいるわけないでしょうが。」

杉三はわざと明るく断るが、由紀子はこれで在れば、何とかなるんだなと思ってしまった。

「まあなあ本人は楽になるのかもしれないけどさ、誰かさんのをいただくってのは、ちょっと困るよ。それに危険すぎるというか、返って寿命を縮める一因になるんじゃないの?」

「でも杉ちゃん、それをすれば、何とかなるかもしれないのよ。それを信じてあたしたちがなんとかするってのも、ひとつの手じゃないの?」

「だけどさあ、めんどくさいよ。また誰か立候補者が出るのを待って、それでまたその人と会って、同意書を書いてとかするんでしょ?どうもそんな、めんどくさい手続きをして、こいつを何とかしようって言ったってだよ。果たして、何のためにやるんだい?そんなに長くこいつを生かしておくって、何の得になるんかいなあ?」

「そんなこと言わないでよ!この人なら必ず生きていてほしいから、いろんな人に来てもらっているんじゃないの!」

由紀子は杉三にそう怒鳴りつけたが、

「でもな、愛情でなんでも乗り越えていけるかっていうと、そうとは限らないぞ!」

杉三もまさしく怒鳴りつける。

「二人とも、怒鳴らないでください。この人は、もうそれくらい進んでいて、このままだと本当にあとわずかしかないんです。だから、多少大掛かりな治療に踏み切ることもあるし、イチかバチかにかけることも、ある意味では必要なんですよ。先ほど、杉ちゃんという方がおっしゃっていたことは、実は間違いで、愛情がなければ人は動かないんですよ。そこは、しっかりわかってもらわなきゃいけません。そこを取り違えないでください。」

道子がでかい声で二人を制する。杉三たちは、そうだよなと言って、互いに黙り込んだ。

「でも、わかりました。たった一つでも、彼が何とかなる方法があるのであれば、あたしは、そのために頑張ろうと思いますから!」

暫くの沈黙の後、由紀子はそう発言した。

「うーんそうだねえ。わざわざ危険な大冒険をするってのはどうなんだろうね。うーん、それよりも僕は、安全に静かなところに行って、休ませてやるほうが、本人も周りの人も楽なんじゃないかと思うんだんよなあ。だってなあ、肺の一部を取っ払うって、立候補した奴だって結構体力いると思うし、水穂さんのほうも、そっちへ気を使いすぎて、かえってかわいそうだと思うんだけどね。」

杉三は、まだまだ考えている様子で、腕組みをして、頭を傾げている。

「とにかくですね。考えてみてください。この人はもう本来の体が全然ダメであるわけですから、正常なものと取り換えるしか、方法はないわけです。そして、それは、今の医療なら、不可能ではなく、健康な人が立候補してくれれば十分達成できるということも、考えておいてください。」

小杉道子は、そういって処方箋を書き、とりあえず応急処置として、これを出しておくと言って、部屋を出ていった。

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