第5話
部屋の物陰から、ライラはその人物が立ち去っていくのを待っていた。赤い絨毯の引かれた部屋では、自分の母親が修道長と対峙している。彼女たちは、隠れている自分のことについて会話を巡らせていた。
「本当にライラはこちらに来ていないんですね?」
「えぇ、娘は遠い昔に異教徒になりました。もう、私たちとは関係ありません」「神の子を殺し、カインのごとく神を裏切ったあなたたちユダヤ人が何を言うのでしょうか」
「そのユダヤ人の子を汚そうとした罪人が何を仰います?」
母の言葉に、修道長の顔が引き攣る。彼女はこほんと咳払いをして、緑の眼で母を見すえた。
「それにしても、お母様は何とライラに生き写しなのでしょうか。まるで、あの子が大人になったみたい」
うっとりと舌なめずりをして、修道長は細い両手の指を母の頬へと這わせていた。
「罪の民は、どんな味がするのかしら?」
「生憎と、客は男だけって決めてるんです。女に金を払う力はありませんから」
顔を近づける修道長に、母は冷たく言い放った。修道長は苦笑しながら、母の頬から指を離す。
「本当、冷たいところまでライラにそっくり。ますます燃えちゃうわ。また来てもいいかしら、今度はあなたを改宗したくなっちゃった……」
ふくよかな胸に両手を這わせ、彼女は甘い言葉を吐く。
「改宗だったら外でやって下さい。私は異教徒になった娘に興味はありませんから」
「冷たいお母様。可哀そうなライラ。私もとにいれば、たっぷり可愛がってあげるのに……」
小馬鹿にしたような修道長の笑い声が、ライラの耳朶を貫く。その笑い声を聞きたくなくて、ライラは両耳を塞いでいた。
去年、ライラに初潮が来てから、修道長のライラを見る目が一変したのだ。穏やかだった優しさの中に、どこか妖艶な雰囲気を彼女は漂わせるようになった。
そして、あの夜。ライラは紅い薔薇で染められたコルセットの飾り紐を修道長に贈られたのだ。
それは彼女の愛の証。そして、その証を受け取らないことは彼女の庇護を拒否することでもある。
その紐でコルセットを飾っていた友人が、尖塔から身を投げたのはいつのことだろうか。その友人を、悪魔と密通し地獄に落ちるために自死したのだと修道長は口汚く罵った。
確証はない。だが、何がライラの友人を殺したのかは明白だった。
「ライラ、出てきなさい……」
絨毯の裏に隠れるライラに、母が声をかけてきた。そっとライラは絨毯のすみから顔を覗かせる。そんなライラを母はしっかりと抱きしめてくれた。
「お母さん……」
「もうあの女は帰ったわ……。安心しなさい」
母が優しく髪を梳いてくれる。その感触が心地よくて、ライラはそっと眼を細めていた。
こうやって母に抱かれたのはいつぶりだろうか。また、そんな日が来るなんて思いもしなかった。
「でも、あなたをここに置いておくこともできない。知り合いが、あなたにいい嫁ぎ先を見つけてくれるって話を持ちかけてくれたの。ライラ、もしよかったら――」
「私もお母さんみたいになるの?」
母の言葉を聞いて、思っていたことをライラは口に出してしまう。その言葉を聞いた母の顔は見る間に引き攣っていった。
自分を生んだせいで父に疎まれ捨てられた母。娼婦として卑しい身分の女とさげすまれる母。
育てられない自分を、異教徒の修道院に預けた母。
助けを求めたとき、母は自分に手を差し伸べてくれたと思った。それは、自分の勘違いだったのだ。
「ライラ、よく考えてあなたは――」
「私は、お母さんみたいに強くない」
ライラは母の言葉を制する。自分は母のように神に背いた生き方はできない。神に捧げたこの身を、自分の命を繋ぐために汚したくはない。
でも、なぜ神は望まない汚れに怯える自分たちを助けてはくれないのだろうか。どうして神は、沈黙したままなのだろうか。
そっとライラは、顔をあげる。
その視線の先に、奇妙な図形を描いた織物があった。織物は壁に掛けられ、部屋の隅に神聖な空気を纏わせている。
「お母さん、あれは……?」
見慣れない図形を見つめながら、ライラは母に尋ねる。母はライラの言葉に応じて、その図形を見つめた。
「あれはカバラの樹よ。神様に至る道を一本の樹に喩えたもの。私たちを導くラビの中には、あのカバラの樹を登って神の声を聴く方々もいるの」
「神様のもとに、至る樹……」
じっとライラは織物に織り込まれたセフィロトの樹を見つめる。あの樹を登れは、神に会うことが出来るかもしれないのだ。
では、どうやってセフィロトの樹を登ればいいのだろうか。
神に近づくには。神の御元に行くには。
ふと、塔から身を投げた友人の姿が頭をよぎって、ライラは口を開いていた。
「あぁ、そういうことなのね」
ライラの中ですべての想いが一つになる。もしかしたら神は、このひらめきをライラに与えるために、ライラに試練を課したのかもしれない。
天使サリエルによって試されたヨブのように。
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