第30話:夢子の工場長の仕事開始
1986年になり、夢子の工場長としての仕事が、忙しくなり工場を効率的に稼働させるために台車、材料の置き場所、作業車の人数、作業工程の見直しなどトヨタの「カイゼン」の本を読んで勉強していた。
夢子は、仕事の空いた時間、中国人シェフの麻婆豆腐の張本さんと水餃子の陳澄男さんに中華料理、調理師免許を取った若手の石田幸夫さんに揚げ物や材料の切り方を教えてもらい、調理師免許を取るチャンスをうかがっていた。
工場に調理師が、10人常駐して、1日、数回、若手に料理を教えてくれた。調理師免許をめざす若者も、真剣に指導を受けて、与えられた仕事を忠実にこなしていた。そうして3月になり半製品の製造方法のペースも決まってきてスムーズに製造工程をこなせるようになった。
そして、疲れたら、工場長の夢子に言えば、2段ベッドで仮眠したり、ソファーで休んだりできるようになり、昼食は、手の空いてる人から、大釜でたいた御飯と、昼食のおかずで食べていた。中華料理が好評で、チキンが好きな人は、商品の検品を兼ねて食べていた。そうして工場の従業員がファミリーのように良い雰囲気で仕事を続けて退社する人もほとんどなく上手く回転していった。
ただ、配送担当の5人は、たまに、欠品しそうだという電話があると、通常のトラック便とは別に、ハイエースで指定された量の商品をを急いで、配送するので神経を使っているようだった。
今年3月に、近所の中学、高校に卒業生の10人が採用され、主婦や学生のパート・アルバイト20人を募集し、採用した。そうして4月、梅雨の6月、夏が過ぎ10月なった。
そんなある日、立川の妻有の里に、また、三波春夫さんが来られ、歌の宣伝写真を店に貼ってくれた。店長が同郷のよしみで、お代はいりませんから、三波春夫さんにポスターを全売り場に貼る許可を下さいと言うと快諾してくれた。ついでにサインも書いてくれたポスターを30枚ほどいただいた。早速、それを各売り場に張り出し、三波春男さんが新潟出身で東京に来ると、妻有の里で食事をし、ポスターをいただいたと言うと、へぎ蕎麦の持ち帰りが増えてきた。
来年から各駅前の売店でも、持ち帰り用のへぎ蕎麦を売り出そうかと店長が考え始めていた。そこで11月にへぎ蕎麦を作るために店長が製麺業者に電話して見ると、うどんと中華蕎麦ばかりで、なかなか見つからなかったが3件程、開発に協力しようという会社が現れた。その中の1軒は、既に、製麺ミキサーを発売して、うどん、中華麺の製造装置を発売していた。
店長が、水曜日の午前中に夢子と2人で工場へ出かけ、開発に協力する事になった。その研究に、月に4回、忙しくない日を見つけ、夢子に、製麺工場への研修を認めた。一番問題となったのは、蕎麦粉に布海苔を入れてなじませる工程と、蕎麦のこしを残すこと。混合の方は、すぐできるようになったが、腰のある麺を作るのには苦労した。
1986年末の達夫の資産は、2500万円に増えた。1986年の「妻有の里」の最終的利益は16億円の利益となった。そうして1986年が終わった。
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