第5話 謁見①

 ――〈イヅの大平原戦〉から、一夜と一昼が過ぎた深夜。〈イヅの城塞〉。


 その地がつい先日戦場であったなど嘘のように、〈イヅの大平原〉は静まり返っていた。平原を埋め尽くす草花は夜露に濡れ、空に浮かんだ月の光が夜の帳を幻想的に照らし出している。


 平原に満ちる静謐の中、〈イヅの城塞〉の真っ黒な影が染みのように浮かび上がっていた。


「では、留守を頼む」


 金の文様細工を施された暗黒色の甲冑を纏って、ゴーダが言った。


「はい、承知いたしております。ゴーダ様ご不在中の城塞の運用、お任せ下さい」


 主の背中にベルクトが応える。相変わらずこの側近は、室内だというのに律儀な鎧兜姿だった。


「そう気を張るな。〈淵王〉陛下のご気分次第だが、何事もなければ明日の夜には帰ってくる」


「他方の〈四大主〉も集われると伺いましたが?」


「関係なかろう。お互い、話し込む話題もない。それに皆、統括地を不要に空ける訳にもいくまい。移動に苦がないのは、私と〈西の四大主〉くらいのものだからな。謁見が終わればとっとと解散だ」


 そう話しながら、ゴーダが執務机に立てかけていた〈カタナ〉を帯刀する。先の戦闘で〈不動のデミロフ〉の一撃に折れてしまった一振りの代用品だった。


 出立の準備を整えたゴーダが、ベルクトの視線に見送られながら執務室の扉へ向かう。


 出口まであと三歩というところで、ゴーダがぴたりと立ち止まった。扉は閉じられたままである。


「さて、ベルクト……すまないが、扉の修繕を手配しておいてくれ」


 そう口にすると、おもむろに〈カタナ〉に手を掛けて、ゴーダは抜刀の構えを取った。


「はい、問題ありません。既に手配済みです」


 ベルクトが、淡々とした口調で応えた。


「よろしい」


 ベルクトのその手際の良さに、ゴーダは口許を緩めた。


 窓から月光が差し込み、執務室の中に沈黙が降りる。ゴーダの周囲に、魔力の流れが渦巻いた。


「――〈魔剣三式:神道開き〉」


 ゴーダが目にも止まらぬ速度で抜刀し、両開きの扉が鋭い太刀筋に一刀両断された。


 斬り崩された扉の先には、荘厳な作りの白亜の回廊が広がっていた。〈イヅの城塞〉の建築様式とは明らかに異なる、いつも彼らが歩いている通路とは似ても似つかない、巨大で絢爛たる回廊が。


「では、行ってくる」


「はい、行ってらっしゃいませ、ゴーダ様」


 空間の構造を完全に無視した光景が目の前に広がっていることにも全く怯む様子を見せず、ゴーダが足を前に踏み出し、そしてベルクトはその背中をじっと見つめて主を見送る。


 兜を小脇に抱えた暗黒騎士が敷居を跨ぎ、白亜の大回廊をその足で踏み締めた。


 境界を越え、「あちら側」へ移った途端、彼の姿と大回廊の荘厳な光景がぐにゃりと歪んだ。そして一瞬の間を置き、ゴーダは跡形もなく消え失せ、扉の外には城塞通路が伸びるだけとなった。


「〈淵王城〉……お早いお帰りをお待ちしております、ゴーダ様」


 執務室に一人残ったベルクトが、小さく独り言を呟いた。


 

 ***


 

 甲冑の靴底が大理石で作られた大回廊を踏み鳴らし、コツンと小気味の良い音を立てた。その音は広大な構造の中へ反響していき、やがて虚空へと消えていく。


〈宵の国〉中央、〈淵王城〉――〈魔剣〉によって〈イヅの城塞〉の扉ごと斬り開いた次元の歪みを渡り、距離を無視して、東の果てから国の中心まで〈魔剣のゴーダ〉は一瞬で移動していた。


〈淵王城〉の玄関である大回廊には、天蓋窓から月光が差し込む。真っ白な大理石の床が碧く輝いて、まるで氷の如く冷気を纏っているように見えた。「玄関」と言ってもその広さは尋常ではなく、高すぎる天井と広すぎる回廊には、〈イヅの城塞〉が丸々すっぽりと収まってしまいそうだった。


 兜を抱えたままのゴーダが、何とはなしに前に出た瞬間、背後でクスクスと笑い声が聞こえた。


「あら? あらあらあら……これはこれは、ゴーダではありませんの」


 それは女の声だった。鈴の音のように美しい声。そして酷く歪んだようにも聞こえる声だった。


「お久し振りですわね、ご機嫌いかが?」


 女の声が、クスクスと悪戯げに笑う。そこには小馬鹿にしたような、強烈な嘲笑が含まれていた。


「……わざとらしい挨拶はやめろ、ローマリア」


 ゆっくりと兜を被り、顔を隠しながら、ゴーダがぼそりと呟く。振り返ることはしなかった。


「貴様のことだ。大方、私がこの位置に『出てくる』と分かっていて、待ち伏せでもしていたか」


「あら、嫌ですわ。待ち伏せだなんて、人聞きの悪い。それではまるで、このわたくしが、ずっとここで貴方が来るのを待っていたようではありませんの」


「事実そうではないか」


「いえいえ、待ってなどおりませんもの。ええ、それはもう」


 女の声がそう言って、そしてゴーダの背後から、白亜の床を歩くコツコツという足音がしだす。それは彼の真後ろへと近づいて、右側面へと回り込んできた。


 その間も、ゴーダは兜を被った顔を前に向けたまま、首を回す気配も見せなかった。


「ふふっ……嗚呼、冷たい人。目を合わせないどころか、わざわざ兜まで被るだなんて……」


 クスクスと挑発する笑い声が聞こえ、そしてその声の主が彼の視界に姿を現す。


「貴方が『跳んだ』のが分かったもので、わたくしもそれに合わせてこちらに。つい今し方参りましたのよ? 貴方よりも後に、貴方よりも遠くから、そして貴方よりも早くに、ですわ……ふふっ」


 ゴーダの前に、彼がローマリアと呼んだ、美しい妙齢の女が立っていた。


 ローマリアは真っ白なローブを纏っていた。霧のように幻想的で誘惑的な生地が、細身の体躯を浮き上がらせる。真っ直ぐな黒髪は長く伸びて、前髪が右目を覆い隠している。


 そしてその前髪の隙間からは、右目に掛けられた眼帯が垣間見えているのだった。


 非の打ち所のない美しい容姿をしている分、その眼帯の異様さが際立っている。


「待ってなどいないと言ったでしょう? どう? 誤解は解いていただけて?……ふふっ」


 正面に回り込んできたローマリアに詰め寄られ、ゴーダはようやく彼女の目を見て苦言を呈す。


「……。勝手に競われるのも、それはそれで迷惑なのだがな」


「あら、まぁ。嫌ですわ……そのように邪険に扱わないで下さいまし」


 ローマリアがわざとらしく「まぁ」と口に手をやって、クスクスと小馬鹿にするように笑った。


「滅多に逢えないのですもの。こういった場で、優劣ははっきりさせておかなければいけませんわ。転位の精度で『弟子』に劣るようなことがあっては、〈魔女〉の名折れですもの……ふふっ」


 嘲笑混じりのローマリアの言葉を聞いて、ゴーダが小さく舌打ちした。


「『弟子』だと?……思い上がるな。貴様はもう、『師匠』でも何でもない。ただの外法者だ」


「……ふふふっ……嗚呼、酷いことを仰るのね。傷つきますわ」


 ローマリアが目許に手をやって、わざとらしく悲しむ。当てつけがましく、見下すような悪意に満ちたその態度さえ、自分にかかれば妖艶なものに見えるということを、この女は自覚している。


「それに……理から外れているのは、ゴーダ、貴方も同じなのではなくて?」


 ローマリアの白く細い指先が、暗黒騎士の胸当てに触れた。


「魔族の肉体に、人間の魂を持って転生した貴方ほど、異端な者はいなくてよ?」


 ゴーダの甲冑を撫でるローマリアの指先が、次第に上へ上へと這い上がり、暗黒騎士の首筋を撫で、誘惑するように顎の先で止まった。


「どの口が言う……なりたくてなったわけではない」


「えぇ、わたくしも、そうしたくてした訳ではありませんわ」


 少しの力で折れてしまいそうな指先に顎を持ち上げられたまま、二人は冷たい視線を絡め合う。


「……。時間の無駄だ。貴様と二人でつまらん口論をするために、わざわざ来た訳ではない」


 顎に引っ掛かっていた魔女の指を払いのけて、ゴーダはローマリアから視線を外した。


「まぁ、失礼なゴーダ。二人きりなどではなくてよ。ふふっ、そちらにも一人、来ていますのに」


 ローマリアがクスクスと笑って、ゴーダの背後を指差した。その指の指し示す先、大回廊の巨大な天井を支える太い柱の根元。そこには確かに、魔族の男がもたれ掛かるようにして立っていた。


「? 魔族軍の警備兵だと思っていたのだが?」


 ゴーダが首を傾げる。


 魔女が「あらあら」と口許に手を当てる。そして柱の男に見せつけるように、ゴーダに嫌がらせするように、彼の胸元にふわりとその身を預けると、頬を寄せて耳打ちした。


「……カースですわ」


 ローマリアの吐息混じりの湿った囁き声が、ゴーダの耳に呪いのように纏わり付いた。


「……何? しかしあれは……また鞍替えしたということか?」


 ゴーダはその濡れた声に鳥肌が立つのを感じたが、ローマリアにそのまま話を続けさせる。


「そのようですの。勝手なものですわ……あれの考えていることなんて、わたくしたちには分かりませんものね。あんなものに南の護りを任せるなんて、陛下も品のないことをなさるものですわ」


「……何か仰ったか? 〈魔女〉殿」


 柱の男が、ローマリアの言葉を聞き咎めて口を開いた。


「いいえ、お気になさらないで下さいまし」


 ゴーダの胸に身を預けたまま、ローマリアがクスクスと嘲笑を漏らす。


「ケダモノと話すことなんて、何もありませんもの……ふふっ」


 その言葉を聞いて、柱の男が数歩前に出た。


「それは侮辱と捉えてよろしいか?」


 男は褐色の肌に、複雑な刺繍の入った民族衣装を着ていた。顔立ちは凜々しく整い、長く尖った耳を持ち、瞳には理性が宿っている。腰には小回りの利くショートソードが差し込まれていた。


「話すことはない、と言いましたわよ? 嗚呼、それにしても『侮辱』だなんて……ふふっ、随分と難しい言葉をご存じなのね。虫けらの分際で」


 ローマリアが、身を寄せているゴーダの肩越しに、カースと呼ばれた男へ辛辣な言葉を重ねる。


「ローマリア、悪ふざけが過ぎるぞ。この場での面倒事は看過できん」


 ゴーダがローマリアの両肩を掴んで、魔女の冷たい身体を甲冑から引き剥がしながら忠告した。


「ふふっ、嫌ですわ、陛下の御前でそのようなこと、する筈がないでしょう?……離して下さる」


 ローマリアがしなやかな指をゴーダの腕にかけ、肩からその手をどかせる。


「……聞いていたな? ここは〈淵王城〉だ。場所と立場を弁えろ、カース」


 カースへ振り返り、ゴーダが厳しい声音で言った。その右手は〈カタナ〉に添えられている。


「……。そこの魔女がいらぬことを言い出す前に止めていただきたかったものですね。まぁいいでしょう……陛下にお見苦しいところを見せずに済みました」


 カースと呼ばれた男の方もショートソードに手を掛けていたが、ゴーダの忠告を素直に聞き入れると、元いた柱の根元に戻って、先ほどと同じもたれ掛かるような姿勢で居直った。

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