化物と幽霊

 異形の顔を持つ大男は、頑丈な玄関扉の外に立ち、そこに開いた縦横二十センチののぞき窓から、建物の中を覗き見た。

 鉄格子入りの分厚いガラスに顔を貼り付けるようにして扉の下の方へ視線を移すと、気絶して三和土たたきよこたわる女中メイドの体の一部が、かろうじて見えた。

「だから、あれほど言ったのだ……この醜い顔を見てはいけない、と」

 薄暗い外灯に照らされた自分の顔を革手袋ごしにでながら、異形の男は、そうつぶやいた。

 あの女中、ずいぶん若いように見えた。

 年頃は十六か、十七か。

 そんな若い娘が、ガラス一枚へだてた間近まぢかで、こんな醜い顔を見たのだ。

(……気を失って、当然だ……)

 化物ばけものの口が自嘲を含んでかすかに歪んだ。

 岬を流れる風が、男の着ているコートの裾をはためかせた。

 冬の空気が足元から這い上がって男の体を冷やした。

(妻を……雪夜ゆきよを凍えさせる訳には、いかない……早く自動車くるまに戻らなければ)

 その時、誰かが廊下の向こうからやって来る気配がした。

 おそらく屋敷の住人たちだろう。

 異形の男は、本能的にマフラーに手をやり、上げて顔を隠そうとして……ふと思いとどまった。

(どうせ隠したところで、先程のように顔を見せろ、見せない、の押し問答が繰り返されるだけだ……今は一刻でも時間が惜しい……ならば、いっそ最初からこの醜い顔をさらしてやれ)


 * * *


 気絶する寸前の富喜子が発した悲鳴は、居間のソファに座る三音子たちの耳にも届いた。

 三音子は安全装置の掛かった拳銃をギュッと握りしめて立ち上がった。(引き金からは指を外してある)

 同時に少年運転手の黒目くろめ鏡壱きょういちもレバー式ライフルを右手に立った。

 一瞬、互いの目を見る三音子と鏡壱。

 以心伝心、鏡壱はかすかにうなづき、風のような身のこなしで居間から出て行った。

 すぐさま三音子もあとを追う。

 玄関ホールに出た二人の目に最初に入ったのは、扉の内側に倒れている富喜子ふきこの姿。

「あっ」と叫んで、視線を移し、扉に開いた二十センチ角の覗き窓を見て、さらにギョッと目をく。

 覗き窓の向こう側から、こちらをジッと見つめる何者かの顔。

「バ……バケモノ!」

 思わず叫び、右手の拳銃を扉へ向けた。

 初心うぶな小娘の富喜子と違い、さすがは年増盛としまざかりの三音子、肝がわっている。

 ふらつく足にギュッと力を入れ、ヴァルター拳銃の照準を窓の外の化物ばけものに当てた。

 戸板一枚へだてた間近で醜い化物ばけものを見た富喜坊ふきぼうは、恐怖のあまりに気を失ってしまった。しかし三音子は、距離をおいて化物と相対あいたいした分だけ、富喜坊ほど心理的衝撃を受けずに済んだ。それも幸いだった。

 運転手の鏡壱も、ライフル銃を構えて素早くレバーを動かし、薬室に弾丸たまを送った。

 鉄格子入りの防弾ガラス、外からの射撃に耐えるのならば、内から撃っても同じこと。ガラス越しに銃を向けても意味がない。しかし、三音子も鏡壱もそこまで頭が回らない。

「待て! 待ってくれ! 話を聞いてくれ!」

 外の化物ばけものしゃべった。

 こいつ、人間の言葉が分かるのか?

「怪しい者じゃない」と、まさに怪奇そのもののような相貌そうぼう化物ばけものが言った。

「凍った道にタイヤを取られ、窪地にはまって自動車くるまが抜け出せないのです……車内に妻を残して来ました……幸いエンジンはニュートラルで回っているから今は暖房が効いている……しかし、もし燃料あぶらが切れてエンジンが止まったら、体調の優れない妻は凍え死ぬかも知れない……お願いです……助けてください……お願いします」

 二十センチ四方の小さな窓ごしに、その奇怪な生き物は、主婦あるじの三音子に懇願した。

(何なんだ、このバケモノは……)

 どうやら外の化物ばけもの、鉄板入りの厚い玄関扉を破って屋敷の中へ侵入するほどの力は、無いらしい。

 つまり、家の中に居る限りは安全という事。

 三音子は少しだけ安心し、落ち着きを取り戻した。

 扉の外の化物ばけものが、首のマフラーを上げ、顔の下半分を隠した。

「おや、まあ……」

 女主人が、思わず感心したような声を上げる。

 さっきまでは、見るに耐えない化物ばけものだと思っていたのに……顔の下半分を隠した途端とたん、醜い化物が美しき貴公子に早変わり。

 この真夜中の訪問者……顔の上半分は絵に描いたような美男子、下半分は二目と見られぬ怪物という、まさに二面性の男なのだった。

 そのとき、扉の内側に倒れていた女中メイドの富喜子が「ううん」とうめいて目を覚ました。

 玄関ホールに三音子が居るのを確認すると、「奥様!」と叫びながら立ち上がり、走って主婦あるじの背中にまわり込み、帯に付くようにして陰に隠れた。

「ば、化物が……化物が……」主婦あるじの背中でガタガタ震える富喜坊。

「まあ落ち着きなよ、富喜坊」三音子が背後うしろの女中に言った。「外のヤツ……確かに化物には違いないのだろうけど……何だかみょうだ。ちょいと成り行きを見ようじゃないか」

 ……その時……

 もともと寒い玄関ホールの空気が、突然、さらに一、二度冷たくなった。

 玄関扉の内側に白いもやのようなものがわだかまり、それが徐々に人の形になっていく。

「アッ!」

 三音子と富喜子が同時に声を上げた。

 最初は裏庭に、次に居間の中に現れた美しい女の幽霊……それが三度みたび、彼らの前に姿を現した。

 純白の和服を着た白い肌の女が、玄関扉のこちら側に立っている。

 どこか痛いのか苦しいのか、女の眉間にかすかにしわが寄っていた……仮に、この女が幽霊だとして、幽霊も苦痛を感じるのだろうか?

「おお……雪夜ゆきよ……」

 扉の向こうで、化物の美男子が叫んだ。

「そんなに弱った体で能力ちからを使っちゃいかん……無理をするな……無理を……」

 雪夜ゆきよと呼ばれた白い女の幽霊、振り返ってのぞき窓ごしにマフラーの化物おとこと視線を合わせ、苦痛を押してニッコリ微笑んだ。

 そして再び三音子を見て……ゆっくりと三和土たたきの上にひざまづき……仏さまに祈るように両手を合わせ、館の女主人に向かってをした。

(どうか、このひとを助けてやって下さい……)

 白い幽霊の女は、ひとことも言葉を発しない……しかし三音子は直感した……この幻の女は、自分わたしに向かって一心に願い、頼んでいるのだ、と。

「……なるほど……」

 館の主婦あるじは微かに口角を上げ、小さくつぶやいた。

るかるか……今が決断の時、って訳だね」

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