雪の中の女(1)

 医者に決められた手順一通ひととおり、左肩から先にある全ての関節の曲げ伸ばしを終え、女中メイド耳原みみはら富喜子ふきこは奥様の左腕を再び着物の中へ戻し、えりをぴっちり合わせてやった。

「ご苦労だったね」と、奥様の美園よしぞの三音子みねこ。「ほうじ茶でも飲もうか。富喜ふき坊も一緒に」

「はい。只今ただいま

 若い女中は居間の壁ぎわに置かれたガラス戸棚まで行って、小振りのアルコール焜炉こんろをティーテーブルに出し、マッチで火をつけ、その上に薬缶ケトルを置いた。

 暖炉の中で、たきき木がパチパチとぜた。

 外気がどれだけ冷たかろうと、鋳鉄製の頑丈な鎧戸よろいどとその内側のガラス窓で二重に守られた居間は暖かく、居心地が良かった。

 やがて湯が沸き、女中は湯呑みを二つ盆にせ、硬い木の椅子からソファに移動した主婦あるじのところへ持って行った。

「ありがとう。富喜坊も座りなよ」と、三音子は向かいのソファを指差した。

 女中も腰を落ち着けて、二人同時に湯呑みを持って茶を飲んだ。

「雪は、まだ降っているのかい」三音子がカーテンの無い窓へ視線を向けて言った。

「さあ、どうでしょう」と富喜坊。

 この岬の一軒家では、日暮れ前に全ての鎧戸を閉める事にしていた。だから夜は外の様子が分からない。

「ちょいと、窓を開けて外の様子を見せておくれよ」

「はい」

 女中は立ち上がり、一番近い窓のきわまで行ってガラス戸と鎧戸の両方を開け放った。

 窓の向こうは芝生を敷いた広い裏庭、その向こうは岬の先端、そのさらに向こうには真っ暗な虚空があった。

 冷気が、どっと室内に侵入した。

 居間から漏れる電灯の光が届く範囲で、はらはらと落ちる無数の雪の粒が見えた。

(こんな感じだった……の天空トウキョウ市も、こんな風に粉雪が降っていた)

 窓の外を見つめる三音子の目が、次第に暗くよどんでいった。

 少女踊り子ダンサーだった自分の前に立ちはだかった、化け物のめんかぶった男。

 ニョロニョロと嫌らしくうごめく無数の触手。

 ……あれは本当に、かぶり物だったのだろうか? 本当に、作り物だったのか?

(それにしちゃ、ずいぶん生々しく真に迫っていたじゃないか)

「いったい何なのさ……蛇目じゃもく髑髏どくろ党って……」

 思いつめた言葉が、思わず口をついて出てしまった。

 小さくつぶやいた奥様の声が、女中の耳に届いた。

 富喜坊がギョッとして目を大きく見開き、三音子を凝視した。

「あっ! 奥様!」と富喜坊が叫ぶ。

「何だい? 何だってのさ……いきなり大きな声を出したりして……ビックリするじゃないか」

「奥様! 奥様! 今、何とおっしゃいました!」

「……えっ」

「い、今、蛇目じゃもく髑髏どくろ党と……」

「それが、どうしたんだい?」そこでハッと気づく。「まさか! まさか、お前! お前も、その言葉を知っているのかえ?」

 窓際に立っていた女中が、サッ、とスカァトをひるがし、ソファの奥様まで駆け寄って、その両肩をガッシッとつかんだ。

 主婦あるじに向かって礼を失したその行為おこない。しかし必死の富喜坊、礼儀を気にする余裕さえない。

「奥様! 奥様は何故なぜその言葉をご存知なのですか! どうか! どうか、おっしゃってください! 蛇目じゃもく髑髏どくろ党とは、いったい何なのです!」

「まあ、落ち着きな……落ち着きなったら、富喜坊……」

 その時、視界のはしに、何か異様なものが映った。

 顔はそのまま富喜坊に向け、三音子は目玉だけを窓の方へ向けた。

 開けっ放しの窓の外に、真っ白な着物の女が立っていた。

 抜けるような白い肌の、美しい女。

 ただ黒いのは瓜実顔うりざねがおの両側を滝のように流れ落ちる長い髪と、一心にこちらを見つめる大きな瞳だけ。

 唇さえも真っ白だった。

 その唇が、何事かを伝えるようにパクパクと動いた。

 しかし声は発せられない。

 三音子の視線に気づいた富喜坊も窓の方へ顔を向け、外に立つ美しくも異様な女の姿を確認してハッと身をひるがし、同時に前掛けエプロンの裏から25口径のポケットピストルを出して左手で素早くスライドを引き、薬室に弾丸たまを込めた。

 同時に、三音子もソファから立ち上がって右手をたもとに潜らせ、二連発のデリンジャーを出して白い女へ向けた。

 その撃鉄を起こしながら、館の主婦あるじは窓の外に向かって脅すように大声で叫んだ。

「何者だい!」

 叫びながら、三音子は暗闇に浮かぶ白い女の顔を見つめた。

 知らない女のはずなのに、どこか心に引っ掛かった。

 デリンジャーの銃口の先に立つその女の真っ白な顔に、どこか見覚えがある気がして仕方なかった。

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