復讐の章
19XX年、娘の真紀が殺された。
俺は、その犯人を殺すと誓った。
だから、これは復讐の物語である。
そのドアはすぐそこに見えているというのに、体は重く、息は苦しく、足は一向に前へ進まない。
――早く行かなければ。
思い通りに動かない体に鞭打つようにして、俺は思う。あのドアまで辿り着かなければ、そうしなければ、
動かない足にしびれを切らし、這うようにして俺は進んだ。地面に突き立てた指から血が出るのも構わず、必死に、けれどのろのろと進む。早く、もっと早くと、出ない声で叫びながら。
しかし、努力も虚しく、そのとき小さな悲鳴が耳に届く。
たすけて、という悲鳴が。たすけてお父さん――と、はっきりと俺を呼ぶ声が。
絶望が胸を押し潰す。目指すドアが哀れみの色で俺を見つめる。その距離。少しも縮まらないその距離に、せめてもと手を伸ばすが、助けを呼ぶ声はくぐもった悲鳴に変わり、しばらくするとその悲鳴すら聞こえなくなる。水を打ったような静寂があたりに満ちる。
その静けさの中で俺は悟る。俺は、今日もあいつを止められなかったということを。あいつを、村野を、村野正臣が、俺の大事な娘の命を奪うことを、今日も俺は止めることができなかったのだということを。
――まきーっ!
その残酷な事実に、倒れたまま俺は泣き叫ぶ。いつのまにか降り始めた雨が、俺の体を濡らす。彼女を失くした世界に降り注ぐ、冷たい冷たい雨。
――まきーっ! まきーっ!
その冷たさに
夢はいつもそこで終わり、俺は今日も広いリビングの片隅で目を覚ます。少し髭の伸びた頰には、夢から現実へと染み出した冷たい雨が伝っていて、その水滴が肌で温もってしまう前に、俺は急いでそれを拭った。今日もその小さな仏壇が傍らにあることを、視界の端で確かめながら。
心臓は短距離走でもしたかのように早鐘を打っていた。付けっ放しのクーラーのせいで手足は冷たく、だというのに触れた額はうっすらとした汗に覆われている。低い
お父さんったら、こんなところで寝ないでって言ってるでしょ――すると呆れたような、それでも優しい妻の声が聞こえたような気がして――続けて、子供たちの楽しげな笑い声が聞こえたような気がして、俺はぎくりと動きを止めた。
かつて家族で暮らしていたこの一軒家に、いま住むのは俺一人だけで、他には誰もいないはずだった。どうやら夢から覚め切らない意識は、未だ遠い過去の中にあるようだ――その巻き戻ってしまった時間を力ずくで元に戻そうとでもするように、俺は現在のカレンダーを思い浮かべた。
今年は、20XX年。盆を過ぎたばかりの8月20日で、いつも通りの仕事が待っている木曜日――とはいっても、それは大人たちだけの話らしい。そのとき、表から子供たちの声が聞こえてきた。オニだ、逃げろ――はしゃぐ声を聞くと、鬼ごっこでもしているのだろう。無意識に耳を澄ましていた俺は、その声の中に娘の声を探していたことに気づき、カッと頭に血が上った。
「うるせえぞ、クソガキども!」
怒りをぶつけるように窓へ叫ぶ。すると、子供たちの声はピタリと止んだ。拳を握ったまま、俺はしばらく窓を
あれから、もう二十五年。怒声でエネルギーを使い果たしたかのようにぼんやりしながら、俺は考えた。それだけの月日が経てば、当時小学一年生だった娘も三十一歳、結婚し、あれくらいの子供がいてもおかしくない歳になっているはずだった。
しかし、だというのに、なぜだろう。俺が娘の姿を重ねるのは、いつでもあの頃の彼女のような幼い子供たちだった。街角で、人混みで、電車の中でさえ、気がつくと探しているのは、その姿のままいなくなってしまった娘だった。小さな体に不釣り合いな、大きなランドセルを背負った彼女が振り向き、お父さん――こちらを見て笑いやしないかと、胸のどこかで期待してしまうのだ。そんな奇跡が起こるわけがないことは、もう十分に理解しているはずだというのに。
世界中のどこを探しても、最愛の娘はもう見つからない――。
抜け殻の体に憎しみが湧き上がる。その強い力を糧として、ようやく俺は固いソファから半身を起こした。
「……おはよう、真紀」
いつでも変わらぬ笑顔の娘に語りかける。彼女の名前は、雨ヶ谷真紀。二十五年前の9月6日にその命を奪われた、俺の大切な娘だった。そして、その大切な娘を殺した男の名前は、村野正臣。当時、二十一歳の大学生で、少年時代に補導歴のある、ロリコンの変態野郎だった。
「雨ヶ谷真紀ちゃん殺害事件」――マスコミが事件をそう名付けたおかげで、あの頃、日本中の人々が真紀の名前を、その身に降りかかった悲劇を知っていた。あれから幼い子供を狙った犯罪は多くなった印象があるが、いまから思えば真紀の事件はその
見ず知らずの男が、留守居の女の子を滅多刺しにして殺した――。その衝撃的な報道に、子供を持つ親――特に女児を持つ親たちは怯え、その後しばらくは、子供の登下校に親が付き添う姿が多く見られるようになった。そんな不安を煽るほどにニュースは繰り返し流れたし、ワイドショーはいつまでも事件を取り上げた。そのせいだろう、葬儀には名前も知らない人からの弔電や花が届き、お悔やみの電話は鳴り止むことを知らなかった。あの頃、大げさではなく、日本中の人が真紀の死を悼んでくれたのだ。
けれど、二十五年が経ったいま、真紀のことを覚えている人はどれだけいるだろう。写真を見つめたまま、俺は思った。その死に涙ぐんだ女性タレントは、憤ってみせたニュースキャスターは、弔電を送りつけた大勢の人々は、一体どこへいってしまったのか。
それはまるで季節の移り変わる様を見るようだった。青々とした木の葉が冬にはすっかりその枝から消えるように、真紀が殺されたという事実はいつしか風に舞い、落ち葉に埋もれ、土に還り、人々の記憶から消えていってしまったのだ。
「でも大丈夫だ」
記憶だけではなく、真紀の存在自体が消えていってしまうような、そんな想像を振り切り、俺ははっきりと声に出して言った。
「お父さんはちゃんと覚えてる」
仏壇の写真を手に取り、満面の笑みを浮かべる真紀を間近で見つめる。その写真の右下、そこにはぼやけた橙色で9月5日という日付が刻まれている。それはこの写真が、奇しくも真紀の殺される前日に撮影されたという
その年――俺は会社の都合で夏休みが取れず、娘たちとの時間を持てないままだった。だから、その罪滅ぼしにというわけではないが、娘たちの新学期が始まった週の日曜日、妻が作ったピクニック弁当を持って、家から車で一時間ほどの公園へ遊びに出かけたのだ。
そこは娘たちが「うさぎの公園」と呼んでいる、とても大きな公園だった。正式名称は
そんなことよりも俺が覚えているのは、真紀はここの百メートルはある巨大ローラー滑り台が大好きだったということだった。もちろん、滑り台というものは、滑る長さが長いほど、もう一度滑るためにスタートへ戻るまでの距離も長いわけだが、真紀は何度も飽きずに登っては滑りを繰り返していたことを覚えている。
けれど、その日、俺が写真に収めたのは、お気に入りの滑り台を滑っているところではなく、ブランコを漕いでいるところだった。それも力一杯漕いでいるところを撮ったせいで両足の部分がぶれている上に、無邪気に笑う真紀の片目は赤く光ってしまっている。
このブランコに乗った真紀の写真を見つけたのは、一度離れたこの家に再び帰ってからのことだった。事件から五年後、最高裁で判決が出た後のことだ。そのときにこのフィルムの入ったカメラを見つけ、初めて写真屋で現像した。その出来上がった写真を見て、俺は溢れる涙を
急に目頭が熱くなり、俺は写真を元の位置にそっと戻した。いつの間にか乾いた頬を
――夕焼けがとても赤くって、それが真紀ちゃんの血の色とおんなじだったことを覚えています。
裁判での村野の証言が、突然、脳裏に蘇った。二十歳を越えた男にしては妙に甲高い、少年のような声。
あの男が真紀を殺したのも、このリビングの床が真っ赤に染まった夕刻のことだった。妻がこれだけは譲れないと言って選んだ無垢材の床。俺はひんやりとしたその床に足を下ろすと、起き抜けにはいつもそうするように、ソファの上から
それは真紀の跡だった。娘が生きていた証として、最期に残してくれた跡。
あの日、そこに真紀だった肉塊を発見したのは、パートから帰った妻だった。彼女は、いまも廊下に残る血の足跡を辿り、その恐ろしい光景を目の当たりにした。
――散歩をしていたら、子供が家へ入っていくのが見えたので、そのあとをついて入った。
後に、村野はあの甲高い声でそう証言した。つまり、真紀が選ばれたのは偶然で、ほんの少しでもタイミングが違えば、彼女があんなふうに殺されることはなかったのだった。
『私がパートなんかしなければ――』
事件後、妻は泣きながらそう漏らした。
『真紀を鍵っ子なんかにしなければ――』
両親が共働きで家にいないため、渡された自宅の鍵で帰宅する子どもたちは、当時「鍵っ子」と呼ばれていて、特に珍しくもない存在であった。現在に比べて防犯意識も低かったあの頃は、それが小学校低学年の子だったとしても、学童保育に預けるよりは「鍵っ子」にするという家も多かったものだ。
その例に漏れず、小学校へ上がったばかりの真紀も、家の合鍵を持つ鍵っ子だった。もちろん、そうすることに不安がなかったわけではないが、それでもそう心配することもなかったのは、真紀には姉が――小学校四年生の由紀がいたからだった。
姉妹はとても仲が良かった。真紀は由紀のことが大好きで、毎日一緒に下校していた。由紀が六時間目の授業やクラブで遅くなる日には、学校の図書室で本をめくりながら、姉を待っていたくらいだ。
また、パートをしていた妻が帰宅するのも、決して遅いわけではなかった。大抵、娘たちと同じくらいか、それより三十分ばかり遅れるくらいだ。そんな事情もあって、留守の家に姉妹を帰らせることには何の不安も感じていなかったのは事実だった。
『家に帰ったら、必ず鍵を閉めるのよ。それから手を洗って、おやつを食べてね』
妻がそんな注意をすることが神経質に思えるほど、ここは平和な町だった。近所の人たちはみんな知り合いで、子供が狙われたという話など聞いたこともない。そんな日々に、一体何を不安に思うことがあったというのだろう。
しかし、あの日だけは何かが違った。
村野という殺人鬼が町を徘徊し、真紀は一人で家に帰った。正確には、校門を出るときには一緒だった由紀と
それは、喧嘩した姉がすぐに帰ってくるだろうと思ったせいか、それとも、ランドセルを背負うのではなく、逆に背負われているようにも見えた幼い真紀が、母親の言いつけを忘れてしまったせいか。もしくは――俺はそうだったのだと信じているが――真紀が鍵をかけようと振り返ったときにはもう、村野はドアの内側にいたのか。
真実は真紀だけが知ることだろう。けれど、それでも事実としてあの男はこの家に入り込んだ。そして、幼い命に手にかけた。その細い首を締め、持参した「刃渡り二十一センチの文化包丁」で、その体が肉塊になるまで滅多刺しにしたのだ。その残酷な最期はすべて、このリビングの床板に刻まれている。消えない染みとして、傷跡として――忘れないで、いまも真紀が俺に訴えかけているかのように。
「……ああ、ちゃんと覚えてるよ」
もう一度言葉にすると、新鮮な痛みが胸を突いた。二十五年も前のものにも関わらず、この深い傷からは、いまも赤い液体が
赤い空が次第に色褪せ、濃い闇色へ変わっていく。俺はソファを降りて
「心配するな」
呼吸を止め、心の底からの誓いを口にする。
「お父さんが絶対、絶対にあいつを殺してやるからな」
幼子の頭を撫でるように指先を滑らせると、床に縛りつけられた黒い染みと傷跡が、真紀の笑顔に似て、ふっと嬉しそうに和らいだ。
夜へ向かう町をぐるりとランニングして家に戻り、息も整えないまま何種類かの筋トレをすると、俺はシャワーを浴びるため、浴室へと向かった。ちらりと視線をやった洗面所の鏡を、むさくるしい六十男の顔が横切る。
薄くなった頭髪、白髪混じりの太い眉、シワの増えた目元に、たるんだ首元。その容貌は年相応に老いてはいたが、トレーニングのおかげで首から下の肉体は以前とは比べ物にならないくらい引き締まっている。
否、比べ物にならないどころか、まるで別人だ。二十五年前――いや、妻と出会う以前から、俺は「冬眠前の熊」とからかわれるほど見事な脂肪を体に蓄えていた。膝を怪我して、学生時代から励んでいた柔道を辞めたせいだ。それが料理上手な妻と結婚してからは、太り具合に拍車がかかった。幸せ太りですね――同僚たちに冷やかされたが、悪い気はしなかった。俺はあの頃、本当に幸せだったのだから。
くまさん――新婚当時、俺をそう呼んだ妻の声がふと脳裏に蘇った。優しくて勇敢なくまさん――その呼び声は、子供が生まれると「お父さん」に代わったが、その優しい調子は変わらなかった。馬車馬のように働き、この家を買うことができたのも、その妻あってのことだった。それも、いまは元・妻だが。
くまさん、と呼ぶには獰猛すぎる獣が映った鏡から目を逸らし、俺は浴室のドアを開けた。村野への復讐を決めてから、俺は以前の人間関係を完全に絶っていた。妻と離婚し、勤めていた会社を辞め、できるだけ人目につかず、また人間関係を持たなくてすむ職場――警備会社で夜勤を始めた。しかし、もし昔の知り合いとばったり出くわしたとしても、彼らが俺に気づくことはないだろう。俺の外見はそれほど変わった。だが、それは内面も同じだ。
シャワーのコックを勢いよく上げると、熱い湯が肌を叩きつけた。起きてトレーニングをこなした後、シャワーを浴びて出勤する。これはあれから二十年あまり続けている、俺の大事な習慣だった。
――村野を絶対に殺してやる。
真紀にそう誓った俺は、まずそのために為すべきことをリストアップした。肉体改造はそのリストの一番上に書かれたものだった。
当時大学生だった村野は俺より十以上も若かった。十歳もの肉体の差は、これから縮まるどころか、年をとる毎に顕著になる。そんな相手を殺すのに必要なのは、何よりも筋力だ。真紀の感じた痛みを村野に味わわせてやるためには、相応の力が要ると俺は考えた。同時に、戦略もまた重要だろう。
まず、驚く暇も与えずに包丁で一突き。それから戦意を削ぐために、手や足を――すぐには死なない場所を何度も何度も繰り返し突き刺す。そうして動きを奪っておく。その後、おもむろに奴の髪を鷲掴みにする。その顔をこちらに向け、間近でその目を睨みつける。
「俺が誰か、分かるか?」、俺はそう言って眉間に刃先を突きつけるだろう。殺してやる、という意志を剥き出しにして。その気迫に怯え、「許してください」と、そのとき村野は命乞いをするだろうか? もし、するなら聞くだけは聞かせてもらおう。何か言い訳があるなら、それも聞いてやろう。けれど、命だけは助けてくださいだなんて、そんな図々しい頼みを聞く気は毛頭ない。真紀の痛みを思い知れとばかりに、俺は再び包丁を振り上げる。たっぷりその刃先を見せつけた後、振り下ろす。振り上げ、振り下ろす。振り上げて、振り下ろす。それを村野が絶命するまで繰り返す。完全にその悲鳴が消え、心臓が止まり、その体がピクリとも動かなくなるまで繰り返す。その頃にはきっと、村野も真紀と同じような肉片と化しているだろう――。
想像の村野を殺し終えると、俺は息をつき、シャワーを止めた。これも村野を殺すための準備の一つだった。イメージトレーニングと言えばいいのだろうか、こうして毎日その瞬間を想像していれば、いざというときに怖気づくことはないだろうと思ってのことだ。その甲斐あって、初めは村野の顔をうまく思い浮かべることさえできなかったが、いまではこの全身から滴り落ちる水滴が赤く生臭い返り血であるような気さえするほどに、想像に入り込めるようになっている。本番もきっとうまくいく――そんな自信が体中に満ちている。
あとは、いつ、
その日、とは言うまでもなく、いまは刑務所に入っている村野を、俺がこの手にかけることのできる日――つまりは、村野が塀の中から放たれる日のことだった。
そう、村野はいつか塀の外へと放たれる。それは最高裁判所が、第一審、二審の死刑判決を覆し、村野に無期懲役刑を言い渡したからだった。
無期懲役。俺は以前、それは犯罪者を一生牢屋へ閉じ込めておく刑罰のことだと思っていた。しかし、その考えは大間違いだった。それはその言葉の響きとは裏腹に「仮釈放による社会復帰の可能性のある刑罰」であり、また「服役して十年経過すれば、仮釈放の可能性が検討される」刑罰なのである。
つまり、二十五年服役した村野は、いつ刑務所を出てきても不思議ではない身なのだ。
一方は殺害され、永遠に死へと束縛されるというのに、罪を犯したもう一方は自由に残りの人生を楽しむことができる。どうやら、この国の司法はそれを良しとしているらしい。娘を殺された俺たち――被害者遺族の気持ちも考えず、それどころか「これだけ刑を与えたのだから我慢しなさい」と言わんばかりの対応をするのだ。二十五年も服役したのだから、そろそろ許してあげなさい、と。
二十五年の服役がなんだというのだ――そう考えるたび、俺ははらわたが煮えくり返るような悔しさを感じた。六歳だった真紀は、これから何十年もの時間を生きるはずだった。それをたったの二十五年で許す? そんなことができるだろうか?
悔しさは憎しみを加速させ、いつしか俺はその日が来るのを渇望するようになった。この手であいつの命を奪うことのできる日が、この国の司法が下した判断に逆らい、被害者遺族の声をその歴史に刻み込む、その日がやってくる。真紀の命を奪ってなお、のうのうと生きる村野に、その罪を思い知らせる日がやってくるのだ。そうしなければ、
思いの丈を叩きつけるように、俺は鏡の中の自分を
あの日、司法は村野を殺すべきだった。死刑を言い渡し、それを速やかに実行すべきだった。もし、彼らがそうしていたのなら、鏡の中の俺はいまよりずっとましな顔でこちらを見つめ返してきただろう。俺と妻も離婚などせず、由紀もこの家を離れずにいたかもしれない。
けれど、そうはならなかった。
一軒家に
『
それはいつかの――幸せだった頃の日曜の朝だった。子供向けのアニメを熱心に見ていた真紀は得意げにそう言ったものだった。
『だからお父さん、あたし、大人になったら
こうやってね、リボンをつけて、じゅもんを言ってね――ダンボールを切り抜いて作った大きな変身リボンをつけ、真紀は奇妙な呪文を唱えた。真紀がうまく言えないその呪文を、由紀が正確に唱えてみせた。妻は朝食が終わったテーブルを片付けながら、ソファで新聞を読む俺と視線を交わし、くすりと笑ったものだった。そんな穏やかな時間が、かつて、この家にも流れていたのだ。けれど、夕闇の色に染まり始めたリビングには、あの頃の幸せなど、気配すら残ってはいなかった。
つまり、この世界に
八つ当たりのように考えて、笑うように息を漏らす。いい大人が、子供騙しのアニメのごとく、誰かのピンチに駆けつける正義の味方がいるなどと信じてどうする。そんなものは誰かが作り出した架空のもので、実際に存在するわけがないのに。
けれど――同時に、俺の頰には皮肉な笑みが浮かんだ。けれど、復讐を決意するそのときまで、俺もある意味、正義の味方を信じていたのだ。警察や検察、裁判所といった、この国の司法という正義の味方を、あのときまで俺は信じていたのだ。
この国に正義があるのなら、幼い少女を滅多刺しにして殺した男には、この国で一番重い刑罰が――死刑が課されるべきだった。そして、これ以上に重い罪などあり得ないということを、日本中に知らしめるべきだった。それこそが正義であり、被害者遺族の――娘が殺された父親である俺の願いだったのだから。俺は村野の死刑だけを願って、傍聴席に座っていたのだから。だからこそ、第一審、二審と下された死刑に、俺は歓喜したのだから。
――いや、違う。死刑は俺の願いではなかった。
そのとき、胸の奥で小さな小さな声がした。たしなめるような、柔らかな声。村野の死だけを考え続ける、いまの俺の激しさとは真逆にあるかのような、悲しそうな声。二十五年という長い時間に押し潰され、表へ出ることがなくなってしまった昔の俺の声だ。その声が、俺に語りかける。
――あのとき、俺は村野の死など望まなかった。望んだのは別のことだ。まったく別の、復讐ではないこと――。
「うるさい!」
思わず殴りつけた壁が、右の拳の形に凹んだ。クーラーが効きすぎるほど効いた部屋で、こめかみの汗が滴った。叫びにおののいたのか、声はぴたりと沈黙した。
「俺は死刑を望んでいた。そうならなかったのは、
自分に確かめるように、俺は呟く。
一審、二審で下された死刑判決は、虚しくも最高裁で覆されてしまった。それは最高裁から村野についた女弁護士のせいだった。その女弁護士が裁判の流れを変えたのだ。犯行は、村野が実母から虐待を受けたせいだとか、その虐待で死んだ村野の妹が真紀に似ていたせいだとか、そんな適当なでっち上げをした挙句、俺たちをも巻き込んだ
「……俺は村野を殺す」
渦巻く思考を断ち切るように、低い声が静寂を割った。煮えたぎる憎しみを湛えたその声は、まるで自分のものではなく、どこか地の底から響いてきたように感じられた。
「俺は絶対に村野を殺す」
その声で記憶も感情をも無理やり押さえつける。そうして時計に目をやると、既に出勤の時間だった。手早く支度をし、外に出る。むわっと生ぬるい空気が体を包んだ。あたりから夕陽の赤さは消え失せ、青い誘蛾灯がジリジリと音を立てている。
こうして夕方に目覚め、夜中に働き、人々が出勤する頃に家へ帰る――警備員の仕事は、復讐だけを求める俺の生活とぴったり調和していた。人との関わりも、馴れ合いもなく、ただ夜と向かい合う仕事。それに、突然訪れる暴力や、怒鳴り合いへの対応や、気の緩むことのない緊張の連続は、村野に相対したときの訓練にもなる。
固定電話の「留守」のボタンが赤く光っているのを横目で見ながら、俺は玄関へ向かった。一人暮らしに固定電話など必要ないのだが、真紀が使っていたものはできるだけそのままにしておきたいという気持ちに負けて、ずっと置いてあるものだ。昔はいたずら電話や取材の電話もあったが、最近は滅多に鳴らず、留守電が入っていることもない。
俺は玄関に鍵をかけると、車へ向かった。外へ一歩でも出れば、そこには村野がいるかもしれない。気を抜くことなく、車へと歩き出す。と、あることに気づき、俺はふと振り向き、動きを止めた。視線を捉えたのは、家のポストからはみ出た、白い封筒だった。請求書や明細書の類ではない、それは
早く仕事に行かないと遅れてしまう――どこかで自分を急き立てながら、しかし俺の手は吸い寄せられるように、その封筒を掴んだ。微かな違和感がして、ざわり、胸が騒ぐ。その正体を予感しながらも、俺は封筒の表書きを見た。
――「雨ヶ谷洋介さま」。
見覚えのある筆跡が、俺の名をしたためている。金釘流の文字が笑うように俺を見上げる。その瞬間、予感は確信となった。村野だ。これは村野が刑務所の中から俺に宛てて寄越した、何十通目かの「謝罪の手紙」だ。
一瞬、噴き上げるような怒りで目の前が赤くなり、俺は意識的に目を閉じて深呼吸をした。
こんなものが届くようになったのは、真紀の事件が最高裁にかけられた直後――村野に例の女弁護士がつき、「衝撃的な新事実」とやらを明かした後のことだった。曰く、村野は実母に虐待されていただの、その虐待で死んだ妹がいただの、貧乏で苦労しただの――そんな生育環境が村野に犯罪を犯させたのだという、それはいままで語られなかったという意味での「新事実」であることは間違いなかったが、それのどこをどうしたら、「その妹に似ていた」という真紀を殺すことに繋がるのか、まったく意味不明な主張だった。
しかし、その主張は世間を騒がせ、裁判の行方に人々の注目が集まった。それがその女弁護士の狙いだったのだろう。裁判官も人の子であり、世論を完全に無視することはできないということを、彼女はよく知っていたのだ。そして、あのとき俺の元へ届いた手紙もまた、一審、二審の死刑判決を覆そうと、あの女弁護士が考えた作戦の一つだったのだ。
作戦といっても、それは単純なものだった。女弁護士は、俺たち被害者遺族宛に謝罪の手紙を送ったのだ。ここで大事なことは、それが「手紙」という物質であったということに尽きる。つまり、「手紙」は「証拠」になる。口頭での謝罪は、言った言わないの水掛け論になりうるが、「謝罪の手紙」は「村野は遺族に謝罪した」という客観的な事実として、誰もが認める証拠となるのだ。
だから、あの女弁護士は俺たちに手紙を送りつけた。そればかりではなく、その存在をマスコミにリークした。そうすれば、マスコミは俺たちに取材をするだろう。そして、「村野から謝罪の手紙が届いたか」という問いに、俺たちは「届きました」と答えるだろう。さらには「手紙を読んで、村野さんを許す気になりました」と答えるかもしれないと、裏でそんな計算をして。
けれど結論から言えば、この浅はかな作戦は失敗に終わった。肝心要のマスコミからの取材が、俺がその手紙を読む前に来てしまったのだ。村野正臣からの謝罪の手紙、うちにもコピーさせていただけませんか――受け取ってはいたものの、すぐに読む気にもなれず、手紙を放置していた俺は意味が分からずに聞き返した。すると、彼らは、村野から「謝罪の手紙」が俺宛に届いているはずだと言う。村野の弁護士からそう聞いたのだと。
そこまで聞いたとき、俺はやっと事態を把握した。机の上に放置していた村野からの手紙こそが、記者のいう「謝罪の手紙」であるということを。そしてそれは、あの女弁護士が「村野は謝罪している」という偽りの事実を作り出すためだけに用意した小道具であるということを。偽りの事実も、多くの人の耳目を集めてしまえば真実の色を帯びる。だからこそ、その事実を捏造するために、あの女はマスコミを利用したのだ。「村野の死刑を覆す」という、目的達成のためだけに。
記者からの電話を切ると、俺はすぐさまその手紙を焼き捨てた。女弁護士の行為は悲劇を経験した人間に対する、最大の侮辱だった。あの記者からの電話がなければ、手紙を開封して読んでいたかもしれないと思うと――許しはせずとも、心が少しでもぐらついたかと思うと、その思いはより強くなった。
それからも、村野からの手紙はぽつりぽつりと届き続けた。それが服役中のいまでも届くのは、仮釈放の材料にするためなのだろう。意図の見え透いたその手紙が届くたび、俺は同じように焼き捨てた。初めは拘置所だった差出人の住所が刑務所へと変わり、そこに検閲を受けて届いたという印――桜を
瞬間、背なの毛がぞわっと逆立った。慌てて手の封筒を裏返す。すぐさま、もう一度、表に返して凝視する。封筒を見たときに感じた違和感が、確かなものとなってこみ上げる。
――ない。やはり、ない。
確信した途端、胃のあたりが沸騰したように熱くなり、息が止まった。足元がぐらりと揺れ、やっとのことで吐き出した息は小刻みに震えていた。
その白い封筒には、どこを探しても桜の押印が見当たらなかった。ということは、つまり――。
「そうか……」
俺はふらつきながらドアにもたれ、目を閉じた。
「そういうことか……」
ぬるい風が頬を撫でる。汗ばんだ額を無意識にこすり、俺は声を震わせた。桜の押印のない封筒。それはすなわち、村野は既に手紙の検閲を受ける立場ではないということを表している。
無期懲役。十年で仮釈放が検討され、自由になる可能性のある刑罰の名を、俺はゆっくりと口の中で繰り返した。そして徐々にその意味を理解した。村野はもう檻の中にいない。それは十年よりは長い、二十五年という時間の後ではあった。けれど、それでもその時間は絶対的に不十分な長さに思えた。現に俺の憎しみはあの頃のままだ。悲しみも苦しみも、それっぽっちの時間では、何一つ癒えてなどいやしない。
「あああああああ!」
夜空に向かって、俺は雄叫びのような声をあげた。声に驚いた隣家の窓から人の顔がのぞいたが、そこに俺を見てとると、怯えたように窓はきつく閉められた。あれ以来、怒りっぽく、近所付き合いもしなくなった俺の頭が、とうとうおかしくなったとでも思ったのだろう。閉じた窓の向こうから、こちらを伺う気配だけが漂ってくる。
その橙色の光溢れる窓を一瞥し、俺はふらふらと車に乗り込んだ。封筒を持っていない方の手でポケットを探り、二つ折りの携帯を取り出す。十件にも満たない登録済み番号から、その一つを選び出す。
梶田美希子。その名前を見ると、胸が締めつけられるような痛みを感じた。過去の幸せと、突然の裏切りが記憶の中で交錯し、いたたまれない気持ちに襲われる。
離婚のやりとりで必要だったその番号を、旧姓で登録したのは俺だった。そして、二人が他人に戻った後も、消せずにいるのも俺だった。最高裁のさなか、村野正臣の肩を持った妻は、真紀を、俺を裏切った人間だった。だというのに、決してかけることのない番号をまだ登録しているのはなぜなのか。
――いや、彼女は裏切り者なんかじゃない。あの弁護士に騙されて、お前の側を離れただけなんだから。
そのとき再び、過去の俺がそう言ったが、俺は無言でその痛みに耐えた。悪いのがあの弁護士だということは分かっている。優しかった妻はそこに付け込まれただけだということも。
けれど、俺はそれ以上考えることを自分に
その番号は固定電話のもので、それも最後にかけたのは離婚が成立したとき――二十年ほど前だろうか。それほど古い番号だ。繋がらない可能性も大いにある。しかし、それでも俺は必ず繋がるという、確信に似た思いがあった。その思いの命ずるまま、発信ボタンを押す。
プツプツ、何かを探るような音の後に、果たして呼び出し音が聞こえ出した。その呼び出し音がまるで過去へ
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