初心者研修

 社会システムになってしまった先輩と、私がまだ学生だったころ。


 私が新入生になりたてで、例によって喫茶店で先輩に相談していた。正直、相談と言っても、何を聞けばよいのかすら分からない状態だった。そんな先輩は、私に対して真剣な顔で、

「世の中は兎にも角にも、研修が大事なのである」と語った。

「いいかいこの世界は、研修で溢れている。どんな社会人、いやバイトであっても初心者研修を受けなくてはならない」と続けた。

 喋りながら渡されたタブレット端末。タイトルは『大学生になるための研修動画 vol.1』。


「いや、いくらなんでも」

 とりあえず渋る私に、先輩が「私は見たぞ」と自信ありげに私を見つめ返した。「これ、いくつまであるんすか?」と聞くと

「そうだな〜、20ぐらいまで見た気がする。補足を含めると50…はないかな」

 いや、長すぎるだろ。さすがに私もびっくりだわ。


「そうか~、長いのかぁ。確かに君には長いのかもなぁ」

 先輩はマグカップをひっくり返すようにコーヒーを飲み切った。

 私もつられて飲んだ。まだコーヒーは熱かったので、半分ぐらい残った。先輩は愚痴をこぼした。

「いやぁ、ね。私にとっても初めての後輩だから、よく分からんのだよ」

「なるほど」

「私なりにも緊張している」

「だから、何かためになることをしようと」

「そうだ。予想済みかもしれないが、私は前日深夜まで『カッコいい先輩になるための初心者研修』を見て学習していたぞ」

「いや、それは予想してなかったです」なんだそれ。めちゃくちゃダサいやつだ。

「そういうことは言っちゃうんすね」と、私は返した。

「ん? そういうこと?」と眼を点にした、とぼけた顔の先輩。

 だから、わざわざコーヒーおごってくれたんだな。私は妙に納得した。高校生の時は結構抜けてる人だったのに、いつのまにかこんな気が使えるなんて、と素直に思っていた。マニュアルより不器用な優しさが欲しいところだ。

「いや、黙ってたらかっこよかったですよ。大学入りたての私に気を遣って、こくやっていろいろ教えてくれるのは、とっても」でも、この人はネタばらしがしたくてたまらない人なのだ。

 先輩は、こどものように嬉しそうな顔をした。

「あら、それはそれは」

「えぇ」と、私もつられて笑った。先輩はマグカップに口をつけたが、中身がないことを見て、そっと戻した。

「研修以外にも、初心者合宿というものもあったんだが、それは4万するのでさすがに辞めておいたぞ」



 深呼吸をして、まじめな顔に戻った先輩は、

「でも、後輩の君がそんな気を遣わなくていいと思う」

 と、言った。

 どこか鋭いところはずっと同じだった。先輩は話を変えた。

「ところで、君は、こうやって春から新生活を送っているわけなんだけど、サークルとか部活とか入らないのかい?」

「いや~」私は鼻をかいた。

「新歓は行ったのかい?」

 入学式終わってから各部活、各サークルは新歓、新入生歓迎会を行っている。4月の間は新入生ならただで飲み食いに連れて行ってもらえる。

「一応、火星サークルとミステリーサークル研究会と、あと、人間浮上倶楽部とか、まぁボドゲサークルも面白そうですけど」

「おお。君もたいがいに君だねぇ。というか、人間浮上倶楽部なんてあるんだね。聞いたことなかった。火星サーとミス研は知ってるが」

 彼はどこか満足そうだ。

「人間浮上倶楽部って、変な名前ですよね」

「あぁ。名前だけで何やってるかわかるのが利点だな。いや、しかし、やはり何やってるんだ?」

「人間が浮くことについての哲学的な探究だそうです。でも、新歓は微妙でした」

「そうか」

「先輩は何か入ってるんですか?」

「ん? 私はどこにも入ってないぞ」

「ふーん」マグカップに口をつけ、

「じゃあ、私も無所属でいいかなー」と言った。なんとなく先輩の後を追いかけている私は、また同じ道を歩こうとしていた。

 すると、先輩は「いや、入ったほうが良い」と言った。「え?」と返す私に、また同じような真剣さで

「この世界は狭い。入っておいて損はない」

 先輩はまた空のマグカップに口をつけ、だまって木のテーブルに戻した。

「私はおろかにも、カッコつけてしまった。馬鹿にしていた。だから、今、こうやって狭いところにひっそりと過ごすことになる。一人でいることは常に正解ではない」

「は、はぁそうですか」

「人が近くにいないとだめなんだ…特にこう言う時期は」

「本当にいってますか? 本当なら先輩も、今からでも遅くないでしょう?」

「正論は時として自分を追い込む」

「一緒にサークル入りませんか?」



 先輩は、一呼吸置いて、続けた。

「君はこれから、いろんな人と出会うだろう。出会うべきだ。そして、何かに熱を上げ、誰かの熱に触れ、何かを支配した気になる。分かったつもりになる。でも、たぶん、自分自身は何もわかってないし、アホだなと思う周りの人間が、思ったより、ずっと多くを感じている。君と、それと私は、言葉を多く使いたがるだけだ。言葉にできないだけで、すべてを優越した気になってはいけない」


「はぁ」

 先輩は私に強く指をさしている。それに気づいて、先輩は気配を緩め、手をおろした。

「すまない。君のアドバイスではなかったね。これは僕の話だった」

「そうですか。『相手に視線を合わせなさい』って研修に書いてあったんですか?」

 私は、やや笑いながら聞いた。彼もつられて笑った。

「いや、それは研修には載ってなかったかも。私が少しだけ先に見てきただけだ」

「先輩の先輩らしいところです」

 先輩はマグカップに口をつけた。

「ただ、よく母親に言われた」

 いつの間にか、先輩は注文を追加していたらしい。目の前にマグカップが二つ、淹れたてのコーヒーとカフェラテが湯気を立て、その空間を満たしていた。

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