第11話 共鳴

 灰色に包まれた街並み。

 冷たいアスファストの上は、脱ぎ捨てられた衣服で溢れていた。

 談笑の声すら聞こえなかった街が、いまでは男女の喘ぎ声で埋め尽くされている。それも一人や二人の声ではない。この街に生きる全ての人間が、快楽に身を任せているのだ。パートナーのいないものですら、自らの手で自分を慰めることに躊躇はない。

 パートナーを代え、次々と肌を重ねる人間たち。

 それは昨日まで公然わいせつをなによりも否定してきた者たちの姿であった。

 飛び散る汗や体液を拭うことすら忘れ、彼らは本能の赴くままに行動する。それを淫らと咎める者など皆無であった。

 この混沌の中、ただ一人正気を保っている者がいる。

 その白衣姿に数人の女性が纏わりついているのだが、そちらには見向きもしない。ただじっと、イヤホンから流れる音楽に耳を傾けていた。

 ゆっくりと瞳を開ける。

 見据えた先は、天霞む巨大な塔。近代を代表する高層ビルだ。いまとなっては性の象徴と化したそれは、ドクターの最愛の者によって支配されている。

「……始まった。『理性』という名の鎖を断ち切り、煩悩を開放せよ。人は淫れているからこそ美しい」

 ドクターは胸元にすりよる女性のアゴを持ち上げキスをする。それは唇を重ねるというよりも、喰らうといった行為に等しかった。

「『共鳴』だ。ウェポノイド・エロティカのみに与えた最終兵器。このエクスタシーは君の快楽そのものだ、シノブ」

 ドクターは手近な女性たちを相手に、次々と愛を与えていった。手指で、舌で。だが決して彼自身が隆起することはなく、ただ延々と愛撫が続いた。

「芸術と淫行のボーダーラインはどこだ? そんなもの誰が決める? 聖母を崇めるのと、マスかきに一体どれほどの差があるというんだ? 自らを去勢して、それを正義と言うのなら言えばいい。だがそんな自己満足を他人に押し付けるな! そんな世の中には萎えちまうぜ……」

 そう言い終えた彼の周りにはオーガズムを迎えた女性が屍のように散乱していた。

 むせ返るほどの人の匂いが溢れている。

 いや……重なり合うオスとメスとの臭いがである。

 ドクターはそんなケモノたちを尻目に歩き出した。その歩みは徐々に天へと向かう。背中からは光り輝く羽根が伸びていた。

「性を神聖視するな……性を軽んずるな……性を当たり前のことだと思うな……。本能を奪われた者たちの哀しみ、快楽と共に味わうがいい。豚どもよ、これは俺様からのささやかなプレゼントだ」


 一人、会場の天井近くを舞うシノブはその光景を見て愕然とした。

 崩落した瓦礫と、散らかったテーブル。そして、その間を縫うようにして埋め尽くされた肉の群れと、そこかしこから聞こえる喘ぎ声。官能と快楽に溺れる人間の顔のなんとだらしないことか。理性の仮面を一枚剥がせば、ただのケダモノと変わらない。その醜悪な景色にシノブは怖気だった。

「これがドクターの望みなのですか……こんなことのために私は生まれ変わったの? ドクター……ねぇ、ドクター……」

 熱い雫が頬を伝う。失ったとばかり思っていた涙だ。

 喜び、怒り、悦楽。その一切に反応しなかった涙が悲しみのあまりに流れる。小刻みに肩を震わせ、手で顔を覆った。取り戻した涙の理由がまた悲しくて泣きじゃくる。そしてさらなる絶望が彼女を突き動かす。

「まだ、プログラムが残っている……これは……そんな! いや……いやよドクター……許してよぉ……」

 シノブの体は彼女の意志とは関係なく天を舞う。

 美しき妖精は、悪魔の祭壇と化した会場を飛び去った。


「来たか……」

 白衣のポケットに手を突っ込んだままのドクターはそう呟いた。光翼の羽ばたきで浮遊しているため足元がなんだかだらしない。遠く眼前に映る下着姿に、おもわず笑みがこぼれる。物静かにイヤホンを両耳から外した。

「ドクター……」

 相対したシノブが不安そうな顔でドクターを見詰める。涙で腫らした目元が、また妙に淫靡である。

「はっはーっ! 着こなしているじゃないか、シノブ。それでこそ俺様の見込んだ最高のM嬢だ!」

 ドクターは大仰に両手を広げ賛辞する。表情には一点の曇りもない。

「ドクター、これがあなたの欲しかった世界なんですか? こんなのが本当に幸せなことなの? 人間は理性があるから人間なんでしょ、これじゃただの動物じゃない!」

「シノブ……どれだけ美辞麗句を並べてみても、人間の性(さが)を律することなどはできない。性に対して嫌悪感を持つのも自然なことだ。でもね、選ぶのもまた人間なんだ。一部の人間の美意識だけで他の価値観を淘汰すべきではない。ましてや法律で縛ることなど、言語道断だ!」

「でも限度を超えているのはドクターだって一緒だわ! 選ぶのが人間なら、清く生きたい人だっているのに!」

「見たくない奴は見なければいい!」

「そんなの傲慢よ! 一度街に溢れてしまえば、目にしたくなくても見てしまう。だから法律があるんでしょ?」

「抑圧されて生きるより、狂気の中で麻痺してしまう方がマシだ!」

「だから、こんなことを……。ドクター、あなたは間違ってる!」

「間違っているかどうかは時代が決める……世の中が禁欲を求めているのなら、こんなことは歯牙にもかけんさ……」

 ドクターの表情が曇る。まるで急激に衰えていってしまうように。

 いつの間にかシノブの右手には光剣が握られていた。彼女自身も気が付かないうちに。

「タイムリミットのようだな。さぁ俺様の胸に飛び込んで来いシノブ。快楽の向こう側へ連れて行ってくれ」

 ドクターは両手を広げる。その表情はどこまでも愛しい。

 シノブは唇を噛み締めて涙を堪えている。

 心と体が相反する二つの意志で対立していた。愛する者の死を隔てて。

 それはウェポノイド・エロティカに組み込まれた最後のプログラム。

「一緒にいるって言ったじゃないですかぁ」

「すまない」

「明るい街を歩くんだって」

「ゴメン」

「いっぱい、いっぱい、愛してくれないと死んじゃうんだよ? 私……」

「…………」

 ドクターは答えない。シノブは光剣の柄をきつく握り締めた。

「ドクターのバカァっ!」

 疾風のように四枚の羽根が空を斬り割いた。

 二人の距離が一気に詰まる。

 ドクターは微動だにしなかった。待つ。最愛の者から貰う最後の悦びを。

 シノブは光剣を下段からドクターの脇腹に滑り込ませた。光の刃は肋骨をすり抜け心臓を貫く。ドクターの背中には、四枚の羽根とは別に、光の碑が建てられた。

「いいぞぉ……子豚ちゃん……もっとだ、もっと深くへぶち込んでくれ。久しぶりにイケそうだ……」

 呼吸が荒い。ドクターのズボンははちれんばかりに盛り上がっていた。グイグイと突き刺さる光剣に、人生最後のオーガズムが訪れる。

「あ、あああ、あ……」

 ドクターのこうべが下がる。シノブは彼の体を抱き締めた。長い淫靡なマツゲを涙が濡らす。流した熱い雫は、そのまま丸い頬へと伝っていった。

「ズルイです、ドクター……一人だけイっちゃうなんて……」

 ピクリとも動かないドクターにシノブは笑ってみせた。光剣を手放した彼女の腕に、ずっしりとした重みが加わった。

 狂気が終わりを告げる。

 シノブはドクターの白衣からイヤホンを取り出し耳に詰めた。流れているのはドクターの部屋で聞いたあの曲だ。

「れ、りっびー。れ、りっびー。ふふーん、ふふんふーん」

 聞きかじったまま鼻歌にする。

 地上から沸き起こる阿鼻叫喚の嘆きなど気にも留めない。ただ愛する者の亡骸を抱き締め、虚空へと歌い続けた。

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