第8話 飛翔

「あ、あの~」

 二人は山王子ヒルズ・タワーを真北に望む、高さだけで言えばこちらも立派な、とある高層マンションの屋上にいた。

「ドクター?」

 決戦に備え、身も引き締まる。高度性風俗規制法さえなくなれば、見下ろす灰色の世界もいずれ色づくことだろう。これで見納めともなれば、なんだか感慨深いものもある。

「お~い」

 思い起こせば苦節十年。色んなことがありました。

「ね~ってばっ!」

「なんだよ、うるせーな! 考え事してんだ! 黙ってろ、このブス!」

「ひゃあんっ!」

 モノローグを害されて怒鳴るドクターのセリフにシノブは身悶えた。快楽に身を委ねることに、もはやなんら抵抗はない。ましてやそれが自分の生命線ともなれば、拒否する権利が彼女にあるだろうか。

 それにしても、そのシノブがである。先ほどから恥ずかしそうに身をくねらせていた。その原因は彼女の着ているものに関係がある。

「で、でもドクター……この恰好は少し……戦闘に不向きなんじゃないかと……」

「ああ? どこがぁ?」

「どこって……」

 彼女の着ているもの、それはひと言で言えば下着。大仰に言っても下着である。

 ただでさえ豊満な彼女の胸を寄せて上げているのは、ホワイトレザーのコルセット。腰周りにはスカートのようなヒラヒラギャザーがたなびく、当然、前部分は覆っていない。白のフリル付きショーツに、これまた白のガーターベルト。ストッキングは黒で、バラの刺繍入り。むっちりとした太腿にガーターベルトの必要性を疑うほど食い込んでいた。足元を飾るのは、かかとの高い真っ赤なピンヒール。もはやこの露出の高さは、ある種の攻撃性を醸し出している。

「いいか? 君は感じれば感じるほど強くなれるんだ、恥ずかしい方が都合がいい。せいぜい公衆の面前でご開帳でもしてSIAの面々を楽しませて差し上げろ」

「で、でも~」

「なんだ? それともスク水やセーラー服のが好みか? 分かった用意してやる」

「これでいいです……」

 どうあっても近未来的なパワードスーツの類が出てこないのが分かると、シノブはようやく諦めた。しかしながら、この恰好になってから興奮しきりである。これで人前に出てしまったら一体どうなるのやら。

 ただ一つ、この期に及んでシノブには不安なことがある。

「ドクター、私ケンカすらしたことないんですけど」

「ああ、それなら大丈夫。お前が寝ている間に、体に教え込んでおいてやったぜ」

「また、そんなイヤらしい表現を……」

 シノブがたまらず太腿を擦り合わせる。

「ばぁ~か、プログラムしてあるってこった! なんのためのウェポノイドだ。ほれ、羽根出してみ?」

「羽根?」

 シノブがそう聞き返すのと同時、彼女の頭の中に一つのイメージが浮かんだ。それは目の前のコップを取ろうだとか、足元の障害物を避けよう、などといったごく当たり前かつ明確な指令だった。『羽根を広げろ』と。

 するとコルセットの背面、彼女の背中から数センチ上の空中に、突如として光の羽根が現れた。美しく可憐で、向こう側の風景が透けて見える。四枚の羽根を背負った彼女は、まさに妖精と呼ぶに相応しい姿をしていた。

 シノブは己の背から伸びる、それを振り返って驚いた。

「なに? なんなの、コレ? はねぇ~? トンボみたいっ!」

「ライト・フラップだ。ウェポノイドの標準装備だよ。ゼロワンにも付いてる」

 ピョンピョン飛跳ねて浮かれていたシノブの表情が強張る。

 あの日、というよりも彼女にしてみればつい前日のこと。路地裏一帯を一撃で破壊した痩躯の男だ。あの男の背中にも、確かに同じ光の羽根が生えていた。そこまで思い出していま一度疑問が頭をもたげる。

 自分にあの男が倒せるのか、と。

 そんな彼女の様子になにか思うところがあったのか、ドクターはいきなり彼女を抱きしめた。きつく、そして優しく。その暖かい胸の中で、シノブは溶けてしまいそうだった。

「心配するな。お前は勝つ。そして二人で、明るくなった街を歩くんだ。ずっと一緒にいよう。この戦いが終わったら……」

「……ウン」

 シノブは飛んでいった。

 遥か高空にそびえ立つ、超管理社会の象徴に向かって。

 それを見送るドクターの視線が妙に冷ややかだったことも知らずに。

 彼女は振り返ることなく『戦場』へと飛び続けた。


 遠くなるシノブの背中を見つめながら、ドクターは白衣のポケットからイヤホンを取り出した。それを両耳にはめ込むとコード途中にあるスイッチをオンにする。

 流れ始めたピアノソロ。

 ジョンのギターをバックにポールの声が響く。あるがままに、あるがままに、と。

 ドクターはおもむろに転落防止のフェンスをよじ登り始めた。その先には、ひと一人がやっと立てる程度の足場しかない。すぐ真下には、百メートルを超える奈落が口を開けている。

 恐怖はなかった。

 広げた両手には余分な力は入っていない。脱力とも違う。なにか大いなる意志を抱きかかえるかのようだった。そして自然に任せて瞳を閉じる。

「行け、ウェポノイド・エロティカよ! いまこそ、奴らに見せ付けるのだ! 人間など所詮、快楽に隷属しているに過ぎないことを! 浅慮な道徳観など本能で吹き飛ばしてしまえっ!」

 そう言って彼は一歩前に踏み出した。

 支えを失った靴底からは、抵抗感を感じない。ゾクリとした感覚が背中を駆け巡った。

 自慢の白衣が上にめくれ上がる。永い永い時間を掛けて。

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