第7話 決意

 部屋を出ると、そこは暗い洞窟のようだった。

 前を流れる悪臭漂う川と、壁に瞬く作業用ライトのお蔭で、ここが下水路であることが分かった。目覚めた時に感じた泥のような匂いの正体をシノブはようやく理解した。

 シーツの裾を引きずってシノブが歩く。その気配を察知したのか、ネズミの集団が四方八方に散っていく。

 恐い。汚い。心細い。

 それより今は何よりも、一秒でも早く地上に出たかった。

 シノブは裸足のまま、下水路をさ迷った。

 正確な時間など分からないが、十五分ほど歩いただろうか、壁に地上へと向かうハシゴが掛かっているのを見つけた。長い間使われていないのか、表面は酷く錆びている。だが、少女一人が登る分には、ビクともしなさそうだ。シーツを襟元で軽く結わえ、シノブはハシゴを登ってゆく。

 マンホールはシノブが懸念していたほど重くも固くもなかった。ひょっとするとドクターが頻繁に利用しているのではないかと思い至る。

 丸いマンホールの縁に手を掛け体を引き起こすと、そこは高いビルの間にある狭い空間だった。あの時、SIAの取り締まりに巻き込まれたのとは違う路地裏である。

 太陽が目に痛い、どうやら昼間のようだ。目が陽光に慣れるまでシーツを目深に被る。

 少し落ち着いたシノブは大体の勘で足を運んだ。右へ左へ。

 その内、大通りへと開けている一本の道に辿り着いた。

「よかった……」

 しかし安堵もそこまでだった。

 広がる灰色の世界。

 人々は地に目を伏せて黙々と歩く。変わり映えのしない女性たちのファッション、ドクターの部屋で見た刺激的な要素は何ひとつない。

 シノブはヨロヨロと大通りへ歩を進めた、これが私の世界かと酷く落胆しながら。ドクターの部屋で見聞きした『甘美な自由』とは雲泥の差がある。こんなものを守るために私は殺されたのかと思わずにはいられなかった。

「おっと!」

「きゃっ!」

 突然、路地から出てきたシノブに一人の男がぶつかった。男は転んだ彼女に手を差し伸べるでも、申し訳なさそうな表情を作るでもなく、ただ「失礼、先を急ぎますので」と言い残して去って行った。目を合わすことすらなく。

 シノブは地に伏して体を丸めた。

 息遣いが激しくなる。脳が痺れるような感覚が彼女を襲う。

 もう自分では止められない。

「ハァハァ……だれか……だれか私を……」

 転んだ拍子に彼女の中でなにかのスイッチが入った。それは当然、快楽という名の禁断のボタン。体が疼く、とにかく誰かに虐げられたい。

 身悶える彼女としては、『無視』されることで最低限の欲求を満たしていた。

「だから言ったんだ、帰ってどうすると」

「ど、どくたー……」

 潤んだ瞳で見上げる空には、自分を哀れな家畜のように見下ろす自らの造物主がいた。その顔を見たときの安堵と多幸感こそが、彼女の求めていたものだった。

 ドクターは膝を折り、自らの視線をシノブの高さに合わせた。そして彼女の頬を両手で優しく包む。

「君に謝らなければならないことが二つある。一つは勝手に私怨に巻き込んだこと、そして、もう一つは……あまり永くは生きられないことだ」

「どうして……」

 シノブは鼻を啜り上げ、涙の出ない泣き顔で聞く。絶望のふちにありながら泣くことさえ叶わないとは、なんと辛いことか。その現実に耐えるかのように、頬を包む柔らかい手の上に、自分の手の平を重ねた。

「発見した時、君の脳はすでに深刻なダメージを受けていた。辛うじて全機能と記憶を保つことはできたが、弊害も残された。君の脳は、長期間エクスタシーを感じないと死ぬ」

 シノブは無言でドクターを見返した。もはやそれほどの衝撃ではない。

「だから……あんな酷いことを……卑猥な言葉で私を呼んだのもそのため?」

「すまない。君を救うにはこの方法しかなかった。だが、社会がこの状況では君がエクスタシーを感じることなど不可能だ。だからこそ君は戦わなくてはいけない。この灰色の世界と」

 シノブは静かにかぶりを振った。その表情は限りなく穏やかなものだ。

「もういいの……私、ドクターさえいればなんにもいらない。分かったの。ドクターにもっと触ってもらいたい。ドクターにずっと見ていて欲しいの。ドクターが裸になれと言ったらなるし、ドクターが死ねと言えば死ぬわ。SIAがドクターの敵なら……それは私にとっても敵」

 重ねた手の平を愛しそうに頬擦りをする。

 もはや迷いは消えていた。

「……そうか。じゃあ行くぞ、メス豚ぁ! 見ろ! 俺たちの敵はあそこにいる!」

 ドクターが力強く指差した先。

 それは天高く霞む高層ビル。山王子ヒルズ・タワーだった。

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