第4話 恐慌

 テーブルの上には淹れたてのコーヒーが芳しい湯気を立てている。その隣にはさくさくのスコーン。そして正面には得体の知れない白衣の男、ドクターH。

 ドクターの用意してくれた服は、どれも派手な色使いのものばかりだった。そして極端に布地が少ないデザインだった。

 ただでさえ肌の露出を最小限に抑えるのが常識の現代人に、プリーツの入ったミニスカートだの、フリルの付いたキャミソールだのが着れる訳がない。下着に至っては、シノブの幼い性知識には未知の領域に突入していた。レース素材の黒のブラジャーや、噂に聞くTバック。お尻を覆うはずの部分がO字にくり貫かれているパンツなぞ、もはやなんのために存在するのか分からない。

 選びあぐねているシノブを不憫に思ったのか。ドクターは断腸の思いでデニム地のバギーパンツを持ってきた。トップスはクリーム色のサマーセーター。下着を着けていないので胸の形がモロに浮かぶ。それでも首筋が心許ないのか、ずり下がる襟元を何度も直していた。

「さてと、なにから話したもんかな。シノブ、君が最後に覚えていることを教えてくれ、そこから始めよう」

「最後、ですか?」

 キーンと静まり返る胸裡。

 シノブはコーヒーカップの中の、濃い琥珀色に意識を集中した。すると脳裏に、魚眼に歪んだ世界から自分を覗きこむ猫の顔が浮かんでくる。その向こう側にある革靴は、いま目の前にいる白衣の男が履いていた。

「学校に行こうといつもの通学路を歩いていたら……男の人、少し太ったおじさんが誰も使わないような裏道に入って行って、私もそれを追いかけて……」

 シノブは頭を抑えながら記憶の森へと埋没してゆく。その後に来る、ショッキングな光景を思い出さずに済むのならば、彼女はそのまま樹海をさ迷ったことだろう。それをあのドクターは許さなかった。

「続けて」

「……おじさんは、紙の包みを抱えてて。スーツ姿の誰かと話してて」

 シノブの表情が変わる。

 カップを持つ手が震えていた。

「お、じさん……殺さ……そのあと、と、飛んで――」

「シノブ?」

「ウッ、ウワアアアッ! キャァァァァッ!」

 座っていた椅子から転げ落ち、床を這いずって壁際に取り付いた。シノブはそこで、頭を抱えて震えだす。猫こそ抱いてはいないが、状況はあの時と同じだった。壁を背にし、ただ恐怖が過ぎ去るのを待った。

「シノブ! 落ち着け、俺様を見ろ! 見るんだ!」

「あああっ! あああああああああ!」

「この紙袋を口に当てろ、そうだ、いいぞぉ。無理に深呼吸しなくていい。自然に~。吸って~吐いて~、吸って~」

 パニックで過呼吸に陥っているシノブをドクターはなんとか落ち着かせる。

 現実を取り戻す過程でシノブは、自己の体内から得体の知れない、なにかを感じた。それは意識と相反する体の作用からくるものなのか、心と体のズレが生じている気がした。

「シノブ、ドクターと言ってごらん。ド、ク、タ、ア。ハイ!」

「……ど、ドク、ター」

「よし、いい子だ。じゃあ今度はお行儀よく椅子に座って話そうか?」

 ドクターはシノブの着席を促した。

 未だ焦燥感は抜けきっていないものの、彼女は生来の落ち着きを取り戻している。

「あ、ありがとうございます。ドクター」

「ふふん、ドクターと呼ぶのもこなれてきたじゃないか。しかしね、君はこれからさらなる理不尽と戦わなければならない。覚悟はいいか? いや、覚悟などなくても戦ってもらう。なぜだ分かるかい?」

 ドクターの不可解な問いにシノブは首を振る。

「それはね。あの爆発で君は一度死んでいるからさ。それをこの俺様が蘇らせた!」

 シノブ、きょとん。

「あ、え?」

「ノオオオオオオオォッ!」

 ドクターはウェーブがかったロン毛を掻き毟りながらターンした。一回、二回、三回。そしてもう一回と。

「そんな薄いリアクションがありますか! 君は俺様の手で、サイボーグになったと言ってるんですよ!」

「サイ……ボーグ? それって人間の体と機械がなんかこう……ごちゃ混ぜに~なヤツ、ですか?」

「そう!」

 ビシィっとシノブの鼻先に指を突きつけるドクターH。別に説明するのが面倒臭かったので、大雑把に肯定した訳でない――と誰に言い訳するでなく、本人はそう思っている。

 さっきから感じている違和感。

 心と体に生じるズレ。

 シノブは己の手の平をじっと見詰める。確かに見知っている自分の手だ。でもどこかに違和感を感じる。熱が伝わってこない。生きている感じがしない。

「私、死んでるの、ですか?」

「正確には、死んでたの、だ。もっと正確に言えば脳死には至っていなかった。現場で君を拾った俺様は、開発途中で頓挫していたボディに君の脳を移植した。生体部品も幾つか移植したからコーヒーも飲めるし、スコーンだって喰える。やろうと思えばエッチだって可能だ」

「ひゃんっ」

 思わずシノブは耳をふさいだ。その時聞こえるはずのゴーという筋肉の伸縮音は聞こえなかった。ただ安定した駆動音が静かに伝わるのみ。これすらも集音装置がノイズを丁寧にカットした加工音に過ぎないと分かると、いよいよもって信じざるを得なかった。

「言ったろ。奥の奥まで見たって」

 シノブはただ押し黙って現実を受け入れていた。

 そんな彼女の気持ちを知ってか知らずか。ドクターはさらに言葉を続ける。

「助けた礼という訳ではないが、これから君にはやってもらいたいことがある」

 シノブは顔を上げた。泣きたくとも、この体では涙も流せないようだ。

「それはSIAに所属するウェポノイドの破壊だ」

「SIA……ウェポ……?」

「君を殺したダークスーツの男のことだ。組織では『01(ゼロワン)』と呼ばれている」

 シノブは声を失った。

 いま鮮やかに蘇る自身の断末魔、妖精の羽根を生やした痩躯の悪魔のことを。不思議ともう錯乱したりはしない。すでに人ならざる者が持つ諦観か。

「SIA――特務検閲局のエージェントだ。特にアイツは暴徒鎮圧用に、体をサイボーク化した人間兵器でな。飛ぶわ光線出すわで手がつけられないときている。まったくファッキンな話だぜ!」

「よく、ご存知なんですね?」

「当たり前だ!」

 テーブルをドンと叩き、ドクターが口角泡を飛ばす。

「作ったのは俺様だ!」


 しばしの沈黙。

 呆気にとられたシノブはつぎの言葉を探していた。

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