第3話 目眩

 匂いを感じる。

 消毒液と機械油、あと少々の泥臭さ。

 どこかで音楽が鳴っている。

 激しいビートのギターサウンド、ヴォーカルは赤面してしまうような卑猥なフレーズをシャウトしていた。ねぇ誰か止めて。

 目を開けた。光が強すぎる。まぶたを半分閉じて薄目で見る。長いマツゲ越しに映るのは、見たこともない天井だった。

 シノブはぼんやりと考える。

「ここ、何処?」

 記憶があいまいな割には頭は妙に冴えている。毛ほどの倦怠感も感じぬまま彼女は上半身を起した。辺りを見渡すが、やはり風景に見覚えはない。

 窓一つない打ちっ放しコンクリートの壁に、フローリングの床。天井には煌々と電灯がともり、薄暗い照明に慣れた現代人の目には眩しいくらいだ。

 壁際の本棚には異国の本が並び、食器棚には色鮮やかなティーカップが陳列している。

 どれもシノブの初めて見るものばかりだ。

 食器棚に、はめられたガラス戸を見てギョッとする。自分の姿が映っているのだが、常に顔を覆っている黒いベールがない。透けるような白い肌にうっすらと毛細血管が浮かんでいる。くりくりとした大きな瞳と長いマツゲ。ややふっくらした顔立ち、肉厚の唇は乾いていた。

 それにガラスに映っていたのは顔だけではない。

 彼女は産まれたままの姿でベッドに佇んでいたのだ。女性らしい柔らかな曲線にシーツも滑り落ちている。無論、まだ覆われているシーツの下も、なにも身に着けていない状況だ。シノブの顔は途端に紅くなり、慌ててシーツを肩までたくし上げた。

 人並みの羞恥心を取り戻してようやく気付いたこともある。

「……生きてる」

 それどころか健康そのもの。体に傷一つ付いていない。

 夢?

 だとしたらここはどこだろう、そんな不毛な考えをシノブが巡らせていると、部屋の奥から、正確には隣室へと繋がっているであろう扉のない戸口の奥から、コツコツと靴の踵が床を鳴らす音が聞こえてきた。芳しい、コーヒーの香りと共に。

「はっはー! やっとお目覚めかい、お姫さまっ! もうニ、三日遅けりゃ、キスでもしてやったのによ! くぅ~、実に残念っ! 紳士面してヘマこいたぜっ!」

 現れたのはやたらとテンションの高い白衣の男だった。

 シノブを見るなり、マグカップを持ったまま踊りだした。BGMにはギンギンのハードロックが掛かっているというのに、なぜかサンバのステップである。

 シノブよりも長い髪は肩までかかり、ウェーブしている。日本語を話しているのが違和感なくらい彫りの深い顔をしていた。

 シノブの警戒心が最高潮に高まった。はだけていたシーツを必死で手繰り寄せ、ベッドの隅まで後退る。

「ウェイ、ウェイ、ウェイ! ちょい待ち! 気持ちは分かるが焦るなベイビィ。一つずついこう、まずは自己紹介からだ。とはいえ俺様にはもう名乗るべき名前はねぇ! だからドクターHと呼んでくれ。次は君だ、君の名前は、お姫さま?」

 男は一息に捲くし立てる。

 いままでに出会ったことのないタイプ、なにより陽気過ぎるのが不気味だ。

 真っ直ぐにこちらの目を見てくるのも不快だった。こっちは法令順守のため、常に目を伏せているというのに。そして自分を「俺様」だと。

 なにもかもが気に入らないが、状況を進展させるためには苦い薬を飲まなければならない時もある。それがまさにいまだった。

「シノブ……笠置 シノブ……です」

 我ながらモジモジとした自己紹介になった。文字通り、無防備なのだから致し方ないとも言える。恥ずかしいやら、恐いやら。腰の辺りが妙に落ち着かない。

「シノブちゃんか……いいね」

 フィンガースナップを一つ挟む。

「君にぴったりの可憐な名前だっ!」

 いちいち動作がオーバーだ。

 白衣の男は木製の椅子を反対向きにしてベッドの横に座っている。ちょうど背もたれに両腕を乗せる姿勢で。大きく開いた脚――シノブはいい歳をした男性が、人前でこんなにも大胆なポーズを取っているのは見たことがない。それだけでも彼女には充分過ぎるほどの反社会的行為だった。

「あ、あのっ、えっちーさん?」

「ドクターだ! ドクターと呼んでくれハニー!」

 キラリと白い歯がこぼれる。

「じゃ、じゃあ、あのドクター……さん」

「ドクターだっ! 『さん』イラネ!」

「ひゃぁ~。ど、ど、ドクター? ――を、下さい……」

「ホワット?」

 本当に聞こえていないのか、それとも焦らしているのか。ドクターの真意が掴めない。そもそも父親以外の男性とこんなにも言葉を交わすこと自体が初めてのシノブには、意思の疎通なんてものはハードルが高過ぎた。しかし、言わねばならない。

「聞こえるように言ってくれなきゃ分からないな。もう一度、大きい声で言ってごらん。なにが、一体なにがして欲しいんだい、子猫ちゃん?」

 言い回しに多少の語弊はあるが、ドクターの善意は感じられる気がした。

 シノブは思い切って、精一杯の声を張り上げる。

「服を、服を下さいっ! 私になにか身につけるものをっ!」

 それだけ言ってしまうと、不思議と高揚感が湧き上がるのを感じた。

 これもまた、シノブがいままで感じたことのない経験である。しかしドクターは簡単には首を縦に振らなかった。

「なにか忘れてないか? 子猫ちゃん」

「えっ……?」

 ドクターは声を出さずに口だけパクパクと動かした。シノブはその唇の動きを読みハッとする。そしてまたモジモジと。

「わ、私に着るものを下さい……ドクター……」

「イエスっ!」

 ドクターはなぜだかガッツポーズ。シノブは耳まで真っ赤である、それと同時にまた妙な高揚感が襲ってくる。今度は多幸感すらあった。

「オーケー、オーケー。すぐに着るものを用意しよう。それと熱いコーヒーと、スコーンも焼いたんだ。食べるかい?」

 隣室の戸口へと歩き出したドクターが振り返る。そんな彼に向かって、上目遣いのシノブが聞いた。

「あの、見ました? その~私の~……」

 シーツの中で体をくねらせる。ベッドの上でシーツがノソノソと踊った。

 そんな彼女にドクターはニカっと白い歯を見せた。

「奥の奥までバッチリねっ!」

「ひゃぁ~」

 再び真っ赤になったシノブは、頭までずっぽりとシーツを被った。

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