第2話 消失

 その路地の行き止まりには一軒の店がある。明り取りの窓すらない、頑強そうなブ厚いドアだけの門構え。色味のない世界に逆らうかのような、煌々と灯るピンクのネオン管を掲げていた。

 店を背に、小太りの男が震えている。胸には長方形の紙包みを抱えていた。

 路地にはさらにもう一人。

 ダークなスーツに身を包んだ痩躯の男が、カミナリに恐れる小動物のごとく脅えた小太りの男と対峙している。

「その包み紙はなんだ?」

 痩躯の男が物静かに言う。鋭い眼差しの向こう側で、機械的なレンズのズームが蠢く。

 ありていに言うなら蛇に睨まれた蛙。男たちの関係はまさにそういう図式だ。

「こ、これは、そのぅ……」

 小太りの男が言い澱んだ。額にはびっしりと脂汗をかき、落ち着きがない。目は何処を見るでもなく泳いでいる。ただ紙包みを抱きかかえる腕にだけは、より一層の力が込められていた。

「随分、大事そうに持っているな。SIA(特務検閲局)だ。検めさせて貰う」

 局章を提示しながら痩躯の男が距離を詰める。近づきながら空いている手の平を相手に向けた。

「ひ! ひあああああ~!」

 小太りの男が絶叫しながら駆け出した。痩躯の男の横をすり抜けて、路地の出口へと逃げる。もしこの時、彼に幾ばくかの余裕があったのならば、角の陰から猫を抱いた少女の姿が見えたはずだ。

 痩躯の男は、さも面倒臭いといった風に振り返った。

 そして逃げ去る男の背中に、右手をかざす。

「目障りだ。散れ」

 男のかざした手の平に、湧いて出たのか、はたまた集まったのか。光の球が現れた。白光に輝く光の球は、瞬く間に巨大化し、すでにソフトボールくらいの大きさはある。そしてさらに「フン!」という男の気合いに呼応して、球の中から一条の光線が放たれた。

「ぐはあああああ!」

 光線は迷うことなく小太りの男の心臓を背中から貫き、そのままの勢いで壁を抉って大気中に霧散した。

 即座に絶命して地に伏した男の亡骸。後生大事に抱えていた紙包みからは、中身である数冊の本がこぼれ出す。雑誌だ。表紙から察するに女性の裸体を被写体とする猥俗な類のものである。いまではもう、その内容までは確認できない。先ほどまでの所有者が流した鮮血で、真っ赤に染められているからだ。

 その一部始終を見てしまったシノブは、店側に晒していた半身を引っ込めると声を殺して震えだした。猫を抱く両腕にも、自然と力が入る。猫は明らかに嫌がっていた。

 呼吸は荒く、心臓も口から飛び出そうなくらい脈打っている。それでもシノブはありったけの勇気を振り絞って、ことの顛末を見届けようとした。

 そっと角から顔を出す。すると痩躯の男はまだそこにいた。路地の突き当たり、ネオン瞬く不審な店に対峙して。

 シノブが耳を済ませると、男は確かにこう言った。

「禁書を売る店がまだ残っていたか……害虫どもめが、次から次へと湧いてくる! まったくどこまで低俗で度し難い連中なんだ? 人間の面汚しめ! 地上から消えてなくなるがいい!」

 言い終えた男の体に変化が起こる。なんと背中から羽根が生えたのだ。それも実体のない光の羽根が。

 昆虫のそれに酷似した四枚の羽根が大気を震わせ、男の痩躯を天へと持ち上げる。スーツ姿の妖精がもしこの世に存在するならば、彼こそがそうだったに違いない。そんな錯覚すら覚える光景にシノブはしばし見惚れていた。

 自然と緩んだ腕の中から猫が飛び出す。

「あ、ダメっ!」

 猫が路地へと躍り出た。それを追ってシノブが陰からその身を晒す。そしていまや天上にある痩躯の男が豪奢な光に包まれていくのとが、ほとんど同時だった。

 全身を光と化した男から、路地裏の一画でひっそりと営業していた名もなき不審な店に向かって、容赦のない破壊エネルギーが撃ち込まれた。まさに光の弾丸である。

 その光弾はまるで大気を裂く勢い。激しい熱と光と破壊力とで、辺り一面を店ごと吹き飛ばした。シノブは為す術もなく、その衝撃波に巻き込まれる。か細い体は固いコンクリートの壁に叩きつけられた。即死は免れた。だからかえって苦痛が続く。

 全身が痺れている。頭もしたたか打った。彼女からでは見えないが頭蓋も割れている。世界が歪んで見えてきた。

 薄れゆく意識。

 まるで魚眼レンズを介したような、不安定な世界。

 これがこの世で見る最後の風景かと、突如として訪れた自分の末路に超然としていた。

 シノブの目には、自分を心配そうに見詰める猫の顔、それと遠くから近づいてくる革靴のつま先が映っていた。

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