ウェポノイド・エロティカ
真野てん
第1話 誘惑
灰色の世界。そう表現するのが一番しっくりくるだろう。
アスファルトは勿論、建造物の壁色も。
空を見上げれば抜けるようなライトブルー。それで少しは気分も晴れる。しかし、ひとたび視線を地に戻せば、また陰鬱で硬質な街並みが広がるのだ。
正直、気が滅入る。
新緑に萌える街路樹すら周りから浮いてしまい非常に目障りだ。
また道行く人々の服装も色彩を欠いていた。デザインこそ千差万別だが暖色系は一切使われていない。どれも暗く、くすんでいる。最も明るい色でさえ藍色に留まった。
そして女性たちの服装には共通点があった。それは肌を露出しない点だ。
パンツルックがやたらと目に付いた。スカートをはく人も中にはいるが、決まって踝までを覆うロングスカートである。
化粧も薄い。ほとんどノーメイクと言ってもいいだろう。
また男女が並んで歩く姿も見受けられない。同性とて、談笑して歩くことさえない。
そんな淋しい日常の中に彼女も――笠置 シノブもその身を置いていた。
シノブは今年で十六歳になるれっきとした女子高生である。だが、見た目でそれを判別できる者は皆無であろう。なぜならば、彼女は自治体が指定している男女兼用のズボンをはき、体の線が出にくいようなダボダボの上着を着用している。さらには白い肌が扇情的であるという理由から、顔を黒い布で覆っているのだ。髪は纏められ帽子の中へ。人目に触れる際には常にこの恰好をしている。それがこの世界のルール。
「……社会倫理委員会の発表によりますと、再来週に開催を予定されております、高度性風俗規制法の成立二十周年記念式典は、山王子ヒルズ・タワーの最上階セレモニーホールで執り行われる模様です。国の内外を問わず、政財界から多数の顔ぶれが一堂に会すこともあり、一部報道では過激派によるテロを懸念する声もあり……」
電器屋の前を通った。
色味のない画像が目に飛び込んでくる。モノクロテレビだからではない、単純にニュースキャスターのスーツがグレーであるのと、背景が黒一色であるからだ。
シノブは暫しニュースキャスターの(男性とは思えないほどの)甲高い声に耳を傾けると、また何事もなかったかのように歩き出した。
シノブはリュックを背負い、通い慣れた通学路をうつむき加減で歩く。
別に落し物を探している訳ではない。男性と目を合わせないようにしていたら自然と身についた仕草であるのだが、これはシノブが特別という訳ではない。世の大半を占める女性はこのように努めているのだ。
そんな彼女が今日に限ってやや顔を上にあげた。特に理由があった訳ではない、ただなんとなく。ふとした出来心のようなもの。
そして見てしまった。
ひとりの男が、大通りから細い路地へと消えていく様を。
距離にして三十メートル先、おぼろげではあるが、シノブには男が周囲に気を配っているように思えた。神経質、あるいは挙動不審。いずれにせよ、禁欲のなかに身を置く少女のささやかな好奇心を刺激するには充分たりえる振る舞いだったのである。
繰り返される平穏な毎日に、突如として現れた特異点。
魔が差したとでも言うのだろうか。逡巡や葛藤、あるいはそれに類する論理的思考などをすべてすっ飛ばして――。
シノブは誘蛾灯に吸われる羽虫のように、その未知への入り口に足を踏み入れた。
たった一本、路地を曲がっただけだというのに、そこは別世界のようだった。
閑散とはしているが、両側にそり立つ壁は、にわかにクリーム色をはらんでいる。ふと見上げれば、蒼穹を高層ビルの外壁に切り取られた空がある。カミソリのように細い天から降り注ぐ陽光は柔らかなクリーム色の空間を反射して、潜在的に暗いイメージのある路地裏を逆に大通りよりも明るく演出していた。
まるでおとぎ話に出てくる迷宮のよう。シノブの胸は踊った。
陽気に歌う妖精たちがいる訳でも、白馬に乗った王子が迎えに来る訳でもない。だがそれでも彼女の目には、このうらぶれた路地裏が神秘的にすら映ったのだ。経験したことのない感情がシノブの全神経にさざなみを立てている。
歓喜、興奮、緊張。それらがない混ぜとなった不思議な感覚。心臓が力強く早鐘を打ち鳴らした。高揚で体温が上がっているのを自覚する。
だがそんな恍惚とした時間も一瞬のこと。
風が吹いた。もと居た大通りから、日常の匂いが運ばれてくる。
顔を覆う黒い布地が翻り、真一文字に引き締められた口元があらわになった。腹の底から湧き出すような恐怖と罪悪感に足がすくむ。シノブは我に返った。
真っ先に脳裏に浮かんだのは両親の顔。
吹き抜けた風と共に、無邪気な好奇心はどこかへと消え去ってしまった。残ったのは聞き分けのいい、いつもの自分と寂寥感。柄にもないことをしたなと苦笑い。彼女の視線はまた地面へと吸い込まれていった。後ろへと振り返り、もと来た道を力なく歩く。
一歩、また一歩。
引き摺るように進められる汚れたローファー。リュックを担ぐ手がきつく握られる。
少し顔を上げてみた。重力と、自分を取り巻く現実とに逆らうみたいに。
そこには灰色の世界――固く閉じられた何もない場所。
「やだ……」
微風にすらかき消されそうな、小さな声。
足を止め、もう一度だけ声に出して言ってみる。「いやだ」と。
シノブは走りだした。路地裏のさらに奥の方へ。光が降り注ぐ明灰色の小道を。
全力疾走。引かれる後ろ髪など、ちぎれても構わない。
息を弾ませ、脇腹に軽い痛みを覚えるころ。ようやく自分が何のためにここに来たのかを思い出し、走りを緩めた。周りをよく見れば、そこら中に曲がり角があるのに気がついた。先だって入っていった男を探して、右に左に、左に右に。途中、ごみバケツの上でひなたぼっこをしている猫を見つけて、また左へ右へ――。
そろそろ脚もくたびれてきたぞ、と感じてさらに角を曲がった。すると、そこにはごみバケツの上で大きくアクビをする猫がいた。これはいよいよもって完全に。
「……迷った?」
シノブは誰に言うでもなく小さな声で呟いた。
溜息ひとつ。
いまさら後悔しても仕方がないのでごみバケツの隣に腰を降ろした。今頃、学校ではすでに一時限目の授業も始まっているだろう。遅刻の言い訳を考えながら、お昼寝中の猫の背中を撫でる。
「君はいいね、猫さん。自由ってどんな感じ? 教えてよ……」
当然のことながら猫は答えない。もっと撫でて欲しいのか、ごみバケツから飛び降りてシノブに腹を見せた。望みどおりに撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らしはじめた。
「バッカみたい」
猫に言ったのか、それとも自分に言ったのか。
シノブは反射的に、その場を取り繕うかのように口走っていた。自分以外、誰もいやしないのに――。少し落ち着き、改めて周囲を見渡した。
路地裏には再開発の手が入ってないことが多い。
大通りに面した壁以外は、無彩色に塗装し直されていないのが普通である。いまシノブが見ているクリーム色が、壁本来の地の色だ。しかし、シノブにしてみれば生まれてこの方、ビルの壁は灰色と相場が決まっている。いかに暖かく、心地の良い色だと思っても、違和感そのものは拭い去れない。
軽い疲労感にしばし呆けていると、路地裏にまた強いビル風が舞い込んだ。
顔を覆う黒いベールが揺れる。
そして形のよいシノブの耳には、風に乗ってなにやら不穏なやり取りをする男たちの会話が聞こえてきた。それはシノブが曲がってきたのとは反対方向の角から流れてくる。一度は消沈しかけた好奇心がまたぞろ頭をもたげた。
シノブは猫を抱き上げ、そっと角から半身を覗かせる。
そこにいたのは二人の男。一方は先ほど目にした挙動不審者であった。
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