5.冬

 みのりの身体にかけた大きめのシーツを取り換えながら、すっかり寒くなったわねえ、と母親が言った。

 11月の終わりと足並みを合わせるように、窓から覗く公園の銀杏はみな綺麗な葉を散らしてしまった。胸のせいで着られる服がなくなってしまったみのりが、少しでも暖かくいられるようにと、家族が毎日シーツと毛布をかけてくれていた。

 実際のところ、そのような配慮は不要だった。しーちゃんに聞いたところによれば、レラの機構によってみのりの身体は常に健康な状態に保たれており、体温の調節どころか食事すら不要になっているそうだ。食事をすること自体は問題なく、食べたものは普通に身体に蓄えられるが、各種栄養素の体内での濃度がレラの定めた閾値を超えた段階で分解されてしまうとのことだった。

 分解された栄養はレラに吸収され、機能の拡張、つまり肥大化に使われるらしい。そういうわけでみのりとしてはまったく食事をしたくないのだが、それでは家族に心配をかけてしまうので、頑張って食べるようにしている。

 

 などということを説明するわけにはいかないので、みのりとしてはもうずっと、家族に秘密の多い日々が続いている……、

「それにしても、みのり、なんだか最近楽しそうね」

 にも関わらず、母親はこんなふうに鋭いことを言う。なんというか「見られてる」なあ、とみのりは思う。

 その鋭さは毎日親身に介助をしてもらっていることの証明でもあった。お返しというわけでもないが、「お母さんのご飯がおいしいからだよ」と伝えると、喜んだ顔をしてくれた。

 その顔が、わずかに違う色味を帯びた。

「みのりが元気になってくれてよかった。……やっぱり、ご利益があるのね」

「……?」

 みのりは、母親が右手首に目線を落とすのを見た。

 そこにはブレスレットが下がっていた。真ん中に通し穴の開いた大小の菱形の水晶が繊細な白い紐に繋がれていた。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、水晶のいくつかに反射してキラキラと光っていた。

 ひと月ほど前から、母親がずっとつけているものだった。

「それ、最近よくつけてるよね。いつ買ったの?」

「買ったんじゃなくて、いただいたのよ」

 母親は言う。

 一瞬、その顔が別人に見えた気がした。みのりは思わずまばたきをする。にっこり笑う母親の表情はみのりの知っている優しい顔だった。

 じゃあまた後でね、と母親が言い、みのりは部屋にひとりになる。

 

 ここ最近はしーちゃんと過ごす時間に決まったリズムが生まれていた。

 朝、食事をとった後でしーちゃんに『声』をかける。一日の最初の話題はその日の朝食の献立を伝えるのが慣例になっている。地球の食事はしーちゃんにとって興味深いものらしく、毎日変わる献立と、その味について興味を惹かれるようだった。

 昼からはいつも聴いているラジオが始まるので、聴きながらしーちゃんに内容を中継する。しーちゃんは異なる星の文化の理解に苦しみながらもいろいろなことを尋ねてくれる。

 夕方からはゲーム機を動かしてしーちゃんの星で一緒に遊ぶ。秋の半ばに始まった二人きりの惑星探検隊は地道に探査領域を伸ばしており、新しい遊び場もいくつか開拓していた。夕食の時間になったら一旦中断した後、食後にまた再開して、しばらく遊んだら最後に気楽な雑談をして、夜10時くらいには『通信』を切る。

 しかし、その日に関しては、その通りにはならなかった。

『ごめんね。今日、お客さんが来るらしくて』

《そうなんだ。友達?》

『ううん、ぜんぜん知らない人。お母さんの知り合いみたいだけど』

《ふうん。何だろうね》

 まあいいや、また後でね、と言って対話を切り上げた。

 カーテンの隙間から光が差し込んでみのりの瞼に当たっていた。冬の朝って眩しいんだなあと思いながらみのりはカーテンをしっかりと閉めた。もちろん起き上がることはできなかったが、腕を目一杯伸ばせばギリギリで届くので、そのくらいのことは辛うじてできる。


「初めまして、みのりさん」

 柔らかく落ち着いた声であいさつをしてきたのは、壮年の、丸いメガネをかけた色白の男性だった。

 隣に控えた母親から、祈祷師の方よ、と説明された。

 母親は目を輝かせながら、「素晴らしい方なのよ。今までにたくさんの病気の人を救ってきたんですって」と言う。「いえ、いえ、僕の力ではありませんから」と断りを入れた後、祈祷師はみのりにまっすぐな視線を向けてきた。

「みのりさんの身体を見せていただけますか」

「ええ、今」

 祈祷師に指示されるまま、母親はみのりのシーツに手を伸ばす。

「ちょっと待って」

 みのりは慌てて母親を止めた。いきなりのことで驚いたのと、何より、母親の挙動に戸惑いを覚えた。シーツの下がどうなっているのか、母親が知らないはずがなかった。

 母親もまた戸惑ったような顔を見せた。

「見せなくちゃ、治してもらえないでしょう」

「見せるの? なんで? 知らない人なのに」

「知らない人って、みのり、お医者さんにだって見てもらったじゃない」

 そう言った後労わるような笑顔を浮かべて、母親はシーツをはがそうとした。待って、とみのりは声を上げて抵抗した。

「どうしたのよ。聞き分けのない」

「お母さんこそ何なの? なんかさっきからおかしくない?」

「不安な気持ちはわかります」

 祈祷師の柔らかな声が割り込んだ。その顔には慈愛を絵に書いたような微笑みがあった。

「ですが、幸福しあわせは信じることから始まります。苦しくても、少しだけ心を許してみませんか」

 何を言っているのかわからなかった。

 母親の顔を見た。必死に願うようなその表情に負けて、みのりは小さくうなずいた。

 はだけた胸を見ても祈祷師は何も言わなかった。その大きさは既にみのりの部屋の半分を満たしており、食事のためには母親や姉が胸をかき分けなくてはならないほどだった。

 父親の顔はもう長いこと見ていない。家族であっても今の姿を見られるのには抵抗があった。ましてや祈祷師は面識のない男性だった。心の中に煙った釈然としない感覚が不安で、みのりは誰にも気づかれないように静かに息を吐く。

「世の中には、人知の及ばぬ不思議なことがいくらでもあるのです」

 祈祷師は言う。

「これは神様からの試練です。神様に選ばれた特別な人間が、試練を受ける。それに打ち勝ったとき、みのりさんには天上の幸福しあわせが舞い降ります。……みのりさん、あなたが試練を無事潜り抜け、素晴らしい幸福しあわせを得られますよう、ご祈祷いたします」

 そう言ってみのりの胸を指差した。祈祷師の指先は丸くつるりとしており、爪は綺麗に切り揃えられていた。

 みのりが他に知っている壮年の男性とはまったく違う、不潔とは程遠い姿だった。例えば、父親なんかはもっとだらしなかった。休みの日は昼まで寝ているし、風呂上りにトランクス一枚でリビングをうろついて姉に顰蹙を買うこともしばしばだった。

 みのりの胸を見つめながら、その奥にある何かを見通すように、祈祷師はまっすぐ指を差す。余程強い力を込めているのか、指先が小刻みに震えていた。

 一度だけみのりは祈祷師の目を見た。その瞳には何の曇りもない純粋な光があった。

 紛れもなく真摯で、高潔で、清潔だった。

 清潔すぎて、違和感があった。

 

 『ご祈祷』は10分ほど続き、胸を指差された回数は30を数えた。

 母親は祈祷師と一緒に階段を下りて行った。ドアを抜ける瞬間、「ありがとうございます」と告げた母親の横顔が上気して見えたのが、みのりの気にかかった。


 ---

 

 階下から物音がする。

 二階の部屋までかすかに聞こえるのは、母と姉が言い争う声だ。そんなもの効くわけがないでしょ、母さん騙されてるのよ、そんな失礼な言い方ないでしょう、あんなに親身に診てもらっているのに。は? 見せたの? なに考えてんの? 

 テーブルか何かを叩きつける大きな音が何度も続く。

 声が止まる。


 ---


 部屋がノックされた瞬間、みのりはびくっと震えていた。

「入っていいか」

 聞こえたのは母親でも姉でもなく、父親の声だった。普段から静かな喋り方をする人だったが、今日は普段にもまして静かだった。どうぞ、と答えると、ゆっくり音もなくドアが開いた。

 シーツと毛布を引っ張り上げながら、首を倒して父親を見た。久しぶりに見る姿は以前よりもやつれて見えた。顎の下に剃り残したひげが一本、指先くらいの長さに残っていた。

「何があったの」

「みのりが心配することじゃないよ」

 と父は言う。

 その腕にはひとかかえの白い壺があった。

「これ、置いておくから」

「……それは?」

「うん」

 父親は言い淀んだ。

「どんな病気でも治る壺だって。母さんが、祈祷師から売ってもらったんだってさ。良かったな、これで、治る」

 意味がわからなかった。

 みのりは父親が部屋の端に壺を置くのを見ていた。のろのろとした動きで、長い時間をかけて、壺はフローリングの床の上に置かれた。

 ごとり、という音が、無音の部屋に大きく響いた。

「そんなもので直るわけがないって顔してるな」

 父親は言う。

「そうだよな。父さんもそう思うよ。でも、母さんがもう限界なんだ」

 置かれた壺の音よりもずっと力のない声で、父親は言う。

「父さんも、母さんも、いろんな病院を回って、知り合いに声をかけたりしたんだ。でも、どうにもならなかった。ようやく助けてくれる人が現われたと思ったらこれだ。ふざけた話だと思う。でも、もう、どうしようもないんだ」

 その言葉はみのりに向けて吐き出されたものではあった。だが、みのりには、自分に向けた言葉であるとは思えなかった。

 理由にはすぐに気付いた。

 父親の目は、まったくみのりを見ていなかった。

「何でもいいから助けが欲しいんだ。それで大丈夫だって思えたら、それが嘘でもいいから、治るんだって思えたら……、母さんが、壊れないで済むんだ。だから」

 父親が、うつむいたままで言う。

「みのりも、これで治るんだって、信じてもらえないか。母さんのために」

 何年か前に家族で映画を観に行ったことがある。南極に取り残された犬たちが主人公の映画で、最後にはみのりも姉も母親もみな泣いていたのに、父親だけは平気なふりをしていた。

 目じりで涙が震えているのも、お酒も飲んでいないのに顔が真っ赤になっているのも、全部まるわかりだったのに。


 あの時はみんなでそんな父親をからかえたのだ。


 あんなにも楽しかった昔の思い出が、本当は他人の人生だったみたいに遠く思えた。父親や、母親や、そして恐らく姉が、どうしてこんなに苦しまなくちゃいけないんだろうとみのりは思った。

 同時に、それが自分のせいだということを理解していた。レラのことやしーちゃんのことを家族には言えないでいる。自分のこの身体が原因不明の病でも、神様の試練でも、悪魔の呪いでもなく、きちんと治るものだということを伝えられたら、家族の誰も悲しい思いをしなくていいのに。

 

 ――それでも、伝えることができないのは。

 頭の中を揺らぐ天秤のイメージがよぎった。その両の皿の上で、大切なものの重さを比べて、傾いた先に在るものがなのかを思った。

 確定しない曖昧なゆらぎの、ふらつきの幅のことを思った。

 思いながら、みのりは笑顔で、自分を騙った。

「うん。治るよね、わたし」

 やりすぎなくらい明るい声になった。

 父親は、笑い返してはくれなかった。

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