6.レラ
絞ったハンドタオルから落ちる雫が、洗面器の中でぱたぱたと跳ねる音を聞いていた。
レラが健康を保ってくれるのは体内のことだけで、体表面に浮いてくる汚れについては誰かに処理してもらわなければならなかった。これが非常に重労働だった。何しろ拭かなければいけない面積が多すぎて、毎回一時間近くかかってしまう。みのりはそれが申し訳なくて、自分でやれるところはやりたいと言ってみたものの、手の届く範囲はほとんどなく、結局全部やってもらうことになっている。
潰れた巨大な鏡餅のようになった胸を持ち上げ、裏側を拭きながら、姉が聞いてきた。
「そう言えばさ、大丈夫なの?」
「なにが?」
「その、……あれよ」
姉が言い淀んだことで、みのりはすぐに思い至る。
レラの機構によって、本来であれば排泄されなくてはならないものは体内で分解された後に再吸収される。結果、みのりは用を足す必要がなくなっていた。
手伝いを要求される頻度が目に見えて少なくなっていって、今ではまったくの皆無になっていることを、介助をしている姉や母親が気付かないわけはなかった。
「うん、大丈夫。なんか全然平気。胸のせいじゃないかな」
「そんなわけないと思うけど……」
姉は本当に心配してくれていた。そりゃあ、そう思うよねえ、とみのりは内心で苦笑する。実際は、本当に胸のせいなのだった。
清拭が終わって一息ついた姉が部屋の隅に目をやる。
そこには、母親が祈祷師から買ったという白い壺がある。
姉の表情は見えなかった。
おしゃれで、落ち着いていて、頭が良くてけっこう美人で、口に出してこそ言わないけれど、みのりは少し憧れている。
「あのさ」
「なに?」
「最近お母さんと、話とかした?」
姉はしばらく答えなかった。
「まあ、普通に話すよ」
「どんなこと?」
「どんなって……、いろいろよ」
母親と姉が一緒にこの部屋に来てくれることは、ここしばらくなかった。
あの日以来『ご祈祷』は頻繁に行われていた。
そのたびに祈祷師に高額なお金が渡されているということも、姉から聞いた。そのことをしーちゃんに話すと、《変な話だね》と感想が返ってきた。
《okaneっていうのがどういうものかわからないけど、あげなくてもいいものをあげてるなんて。gokitouっていうのも、レラとは全く関係ないわけだし》
『ほんと、そうなんだよねぇ……』
みのりは溜息をつく。
『しーちゃんは、神様っていると思う?』
《いるかいないかはわからないけど、もし会えたら、どうしてレラを作ったのか聞いてみたいな。納得する理由が聞けるとは思えないけど》
『しーちゃんはレラが嫌いなの?』
《うん。大嫌い》
はっきりした『声』で言うのがみのりには意外だった。
その言い方が少し気にかかって、みのりはしーちゃんに『声』を伝えた。
『わたしは……そんなに嫌いじゃないかな』
《え、どうして?》
しーちゃんは不思議そうに返してきた。
《だって、レラさえなかったら、いーちゃんは大変な思いをしなくて済んだのに》
『そうだけど……』
……こんなふうになっていなければ、しーちゃんとお話ができなかったから。
なんてことは、さすがに恥ずかしくて言えなかった。
『ご祈祷』をされる頻度が増えるということは、それだけしーちゃんと話す時間がなくなるということだった。
『ご祈祷』の前と後には、祈祷師の信じる宗教についての長い説明が行われた。その神がいかに偉大で素晴らしい存在であるか。またその教義がいかに特別で崇高で優れたものであるか。怪我や病気や生まれながらの障害といった、さまざまな事情で苦しむ人々と、その人々が『ご祈祷』によって救われたいくつもの
その隣で母親が「まあ」「そうなんですね」「素晴らしいです」と合いの手を入れるのを、みのりは黙って聞いていた。
母親が介助をしてくれる間、祈祷師の話をすることが多くなった。
祈祷師の話の受け売りを、心の底から信じ切っている声音。時折、祈祷師の名前を口にするときの母親の口調が、熱に浮かされたように響くこと。
母親の目が、心の底から満ち足りた
「お母さん」
「なあに?」
「お姉ちゃんと、最近、話してる?」
「ええ? 話すわよ、そりゃあ」
「どんなこと話すの?」
「そりゃあ、普通のことよ。そんなことより聞いてよ、このあいだあの人がね……」
話したいこと、話すべきことを、話してくれないこと。
みのりは近頃、母親と言葉を交わしている気がしない。
あの日以来父親は、みのりの部屋を訪れない。
ある時思い切って、姉に聞いてみたことがある。
「お姉ちゃんは、あの人のことどう思う?」
「どうもこうもないわよ。今すぐ消えてほしい」
姉の言葉の思いがけない強さは、みのりを胸が空くような気持ちにさせた。しかしその反面、姉の願いが実現することによって傷付けられる人間の姿が、みのりの気持ちを重くした。
「……でも、それじゃお母さんが、」
「じゃあさ」
姉の口調が荒くなった。
「みのりはどうなるの」
みのりが一度も聞いたことのない、怒りに満ちた声だった。
「あいつも、お母さんも、お父さんもどうかしてる。一番苦しいのはみのりなのに。大人が全部子供に辛いこと押し付けて平気な顔してるのおかしい」
喉の奥から一息に吐き出された声は、しかし、すぐに勢いをなくした。
「……でも、あたしだって同じなんだ。みのりのためにできること、何もない。……ごめんね。本当にごめんね。お姉ちゃんなのに、みのりより大人なのに、助けられなくて」
姉がみのりの胸に顔をうずめた。自分の身体ではないはずの部分に触れた涙は、焼け付きそうなほど熱かった。
謝ったりしないでよ、と心の中で呼びかけた。
本当のことを伝えられず、家族に苦しみを押し付けているのは、全部自分だ。
絶えず後頭部のあたりにわだかまる鈍痛のようなものと、眉間に生じる鋭い痛みを、みのりは時々感じるようになった。
もうどうしようもないんだ、と言った父親の言葉が幻聴になって響いた。
お母さんもこんな風に苦しんでいるんだろうな、とみのりは思った。
こんな苦しみに耐えられなかったから、お母さんは、意味のわからないものに縋ったんだとわかってしまった。
みのりの家族を助けられる者は、この家にはいなかった。
そして今日もまた『ご祈祷』の時間が来る。
清潔な祈祷師の指が、美しい所作を以って、みのりの胸を差す時間が来る。
『怖いの』
指先から目を逸らし、長い説法に耳を塞ぎながら、震える『声』をみのりは届ける。
『どうすればいいのかわからないの。この人に、わけのわからないことをされていることも、お母さんがおかしくなっちゃったことも。しーちゃんとずっと話していたいのに、そのためには、ずっとこのまま我慢しなくちゃいけなくて、みんなに我慢、させなきゃいけなくて』
答えが返るより前に、沈黙を埋めるような『声』を投げ続ける。
『ねえ、わたし、我儘なのかな? もっともっとしーちゃんと遊んでいたい。こんなことされたくない。みんなに辛い顔させたくない。全部は駄目なの? しーちゃんか、みんなか、どっちかを絶対選ばなくちゃいけないの?』
祈祷師の白い指の長さに、切り揃えた爪の清潔さに、真剣な瞳の力強さに。
視界の端の壺の白さに、母親の瞳の輝きに。
それら全ての原因を作り出した、自分自身の心の醜悪さに。
嫌悪感が止まない。
『お願い、しーちゃん、助けてよ』
《――大丈夫》
優しい『声』をみのりは聞いた。
レラの『通信』によって、プレゼントの箱が送られてくる。みのりは飛び付くように箱を開けた。中には、小さな金色の鈴が入っていた。
《
鈴を手に取り、小さく振った。
りん、
と澄んだ音と共に祈祷師の手が消滅した。
一秒前まで手であったはずのものが――みのりの胸を指差していた爪の先と、長くて細い白い指と、その繋がる掌と手首の先までが、消し炭のような何かに変質した。
みのりの主観の上でしばらく宙に留まっていたその手首の形の物体は、やがて重力を思い出したように落下してみのりの胸に四散した。黒い無数の粒子が焼却炉の灰を撒き散らしたような放射状に広がった。やがてそれらは無数の蟻のようにうぞうぞと動き出し、みのりの胸の毛穴に群れた。涸れた大地を潤す雨のように、蟻たちは毛穴から体内に染み入り、やがて消えて行った。
吸い上げた粒子の体積の分、みのりの胸が膨張した。
失われた祈祷師の手首から水晶のブレスレットが落下した。
え、と祈祷師の口が半開きになり、やがてそれはじわじわと形を変えながら彼の表情を侵食した。意味のない呻きが絶叫に変わる。手が、手が、と叫ぶのを、みのりは黙って聞いていた。
母親は凍り付いたように動かなくなった。
祈祷師が怯えたような目をしてみのりを見ていた。
『――しーちゃん』
《どう、上手く行った? そいつまだ動いてる?
返事は返さなかった。
代わりに、祈祷師に向かって、はっきりと告げた。
「帰ってくれませんか。わたしなら大丈夫ですから」
「待ってください」
祈祷師は言う。
「これは……試練だ。私に向けられた、わが神の試練だ。きみは上位の悪魔に憑かれている。《教典》の断章、《グルとマイゼによる終末預言録》に記された七柱の大悪魔――ビオスキ、エルベラ、そうだ、奴だ。神の名に誓って、私が祓う」
目の焦点が合っていなかった。それでいて目の輝きが不釣り合いに力強かった。無くした手首の断面は焼かれた薪のように黒くなり、その奥から二種類の血液が混ざり合いながら滴り落ちていた。フィルタで濾過されたような澄んだ赤と、腐敗した墨を溶かし込んだように黒ずんだ色が混ざり合って、ふたつの見分けはつかなかった。
祈祷師は残された左手の人差し指を上げて、震えながらみのりの胸を差した。
みのりは再び鈴を鳴らした。
人差し指が消滅し、祈祷師が悲鳴を上げた。
「帰ってください。神様とか悪魔とかどうでもいいので」
みのりは言う。
「帰って」
祈祷師が立ち上がり、みのりの部屋から逃げ出した。
みのりの部屋のフローリングに、赤黒い幾つかの血痕が残された。
彼が信奉する神の名を、いつまでも繰り返し呼び続ける声が、少しずつ遠ざかっていき、やがて聞こえなくなる。
一部始終を見ていた母親の方に、みのりは目を向けた。
母親を目を見開いたまま、心の中に散逸した言葉を拾い集めているようだった。
「どういうことなの……?」
「説明するのは、とても難しいんだけど」
やがて絞り出された言葉に、みのりは答えた。
「でも、これだけはわかって。わたしの身体、ちゃんと直るから。こんなものに頼らなくたって、大丈夫だから」
部屋の床に残っていた水晶のブレスレットに向かって鈴を振った。
いつも視界の端を支配していた綺麗な壺に向かって鈴を振った。
ブレスレットと白い壺が黒い粒子に変わり、うぞうぞとみのりの胸に吸収された。
「だから、お姉ちゃんと仲直りしてよ」
伝えながらみのりは思う。
自分は、本当に我儘な『子供』なんだ、と思う。
だって、自分のために他人を傷付けて、何一つ後悔をしていない。
その夜、みのりはしーちゃんに伝えた。
『戻りたい』
元の身体に戻りたい。それで、みんな元通りになる。家族が全員幸せになって、前みたいに笑って暮らせる。
そっか、としーちゃんは答えた。
『排出用のモジュールができるまで、どれくらいかかるの?』
《もう出来てる》
『え?』
みのりが用意していた言葉が何も言えなくなり、しーちゃんも言葉を返さない。二人の間に『声』のない時間が横たわった。
言葉を持たない時間の後、ゆらぎのないしーちゃんの『声』が届いた。
《本当はね、とっくに出来てたんだ。初めていーちゃんと話した、すぐ後くらいに》
『え……』
みのりの心が冷えていく。
『できてなかったって、嘘だったの?』
《そうだよ》
なんで、と問おうとした。胸の奥がざわついていた。自分を助けてくれたしーちゃんが、嘘をついた理由を問いただそうとした。
『なんで、どうしてそんな、』
《いーちゃんと話せなくなる》
問いただそうとした言葉が、消える。
《私たちの間で『通信』ができるのは、レラの機構によるものだよね。異なる
本当は、薄々みのりにもわかっていたことだった。
考えないようにしていた、当たり前の事実だった。
『じゃあ……じゃあ、このままでいい。わたし、ずっとこのままで』
みのりは必死に『声』を伝えた。家族ならそれを許してくれる。みのりにはそんな確信があった。自分がこのままで構わないと言うなら。もう祈祷師はいないのだ。もう、誰も苦しむことはない。みのりさえそれでいいなら、きっとみんな納得してくれる。
しかし、しーちゃんの返答は否定だった。
《それは駄目なの。だって、あなたが独りになる。あなたのことを、私と同じ目には合わせたくない》
『しーちゃん?』
《よく聞いてね、いーちゃん》
しーちゃんの『声』が届く。
《私の星も、なくなっちゃったの》
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