4.秋
9月も終わりに近付くにつれて、風に甘い匂いが混じり始めていた。
夏の間あんなにも騒がしかった蝉の声もいつの間にか鈴虫や松虫の鳴き声に変わっていた。みのりは唯一動かせる首を横に倒して、窓から見える小さな公園に植わった大きな銀杏や楓の樹の葉が、少しずつ黄緑に色づいていくのを眺めていた。
あの時しーちゃんと知り合っていなければ、そんなものは退屈しのぎにもならなかったのだろうなと、一人のときに考えたりする。
《むしに、きに、はっぱ。いーちゃんの星には不思議なものがたくさんあるのね》
何しろ、そんな当たり前の光景について話をしても、しーちゃんはひとつひとつに関心を示すのだった。おかげでみのりにとっての日常のすべてが退屈しのぎどころか、しーちゃんとの会話をはずませてくれる大切なものに変わっていた。
『わたしからしたら、しーちゃんの星の方がずっと不思議だけどね』
《そう?》
話を聞く限り、彼女の星のすがたは地球とまったく違うようだった。星を取り巻いているのは空気ではなくヒアリアという物質――かどうかも定かではない何かで、どうやら海のようなものらしいが、しーちゃんはその中で暮らしているとのことだった。
『もしかして、しーちゃんは人魚なの?』
《さあ。自分がどんな姿をしているのかも、よくわからないから。なにしろこっちには『鏡』がないからね》
みのりが驚いたことには、しーちゃんには目にあたる器官がないのだと言う。どうやって周りを見ているのかと聞くと、パラスタでみんなわかると言われた。パラスタというものが一体何なのか理解するのにみのりは時間がかかったが、要するに超能力のようなものらしい。周りの状況を感知したり、誰かに気持ちを伝えたり、邪魔な生き物を追い払ったりできるそうだ。
『……もしかして、ハンドパワーも使える?』
《handopawaって何?》
ばかなこと聞かなきゃよかった、とみのりは思った。
しーちゃんの星の言葉をいくつか教えてもらった。銀河系がランディングリッド、今の自分が宇宙のどこにいるか(つまり実際上、自分のいる星の宇宙における座標)を示す言葉がシーガルパイント。しーちゃんの話には宇宙のことがとても多くて、みのりはそれらの言葉のもたらすスケールの大きさにくらくらした。
『しーちゃんの星は、地球からずっと遠くにあるんだよね』
《うん。実際の距離はわからないけどね。もしかしたら意外と近くにいるかもしれないね》
『そうなんだ。だったら嬉しいなあ』
本当にそうだったらいいのにな、とみのりは思う。もし、しーちゃんの星が簡単に地球と行き来できるくらい近くにあったら。今すぐは無理でも、自分が大人になった頃、気軽に宇宙旅行ができるような時代になっているとしたら……。そんなふうに想像を膨らませていると、自然に頬がほころんでいくのを感じた。
《本当に嬉しそうね。受信データがすごく振れてる》
『え?』
《レラのイメージ対話は通信情報に相手の感情が乗ってくるから。そういう機能があるのは知っていたけど、こんなふうになるのね》
イメージ対話。
その言葉が何を示しているのかは理解できなかったが、それでも、何かとても恥ずかしいことが伝わっているのはなんとなくわかった。
笑顔は一瞬で引っ込んだ。心臓がどきどきしている。それも知られてしまうのだろうか? 頬に手を当ててみると、普段より明らかに熱かった。
多分、今の自分の顔を見ると、相当に赤いと思う。
《ちょっと体温が上がったね》
「そ、そっ、そういうこと言わないのっ!!」
声を聞き咎めた家族が慌てた様子でやってきたので、「なんでもない……」と答えた。
《あのね、レラの排出用のモジュールのことなんだけど》
『うん』
《もう少し時間がかかりそうなんだ。つらいと思うけど、もうちょっと待っててもらえるかな》
『うん、大丈夫。そんなに急がなくてもいいよ』
心から申し訳なさそうにしーちゃんは言ってくれるのだが、みのりにはあまり気にならなかった。
しーちゃんの当初の口ぶりからすると、モジュールの調整というのは簡単に出来るものなのかなと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。初めのころはそこそこ頻繁に状況を尋ねていたけれど、最近ではあまり聞かなくなった。今みたいに時々、しーちゃんが気を使って報告してくれるのを聞くくらいだった。
身体が動かないことのつらさは、今ではそれほど意識することもなくなってきていた。それはもちろん、話し相手が出来たことが理由だった。
《たまには一緒に遊ばない?》
しーちゃんがそんなことを言い、しばらくするとみのりの頭の中に新しいプレゼントの箱が届いた。
中に入っていたのは白いプラスチック製の長方形の箱で、表面にはふたつの赤いスイッチがあり、側面からは細いコードが伸びていて、その終端には十字型のボタンとふたつの丸いボタンを持った薄い板がくっついていた。
自信はないが、ゲーム機にしか見えなかった。
『しーちゃん、ゲーム好きなの?』
みのりの家にはゲーム機がない。彼女とゲームとの関わりと言えば、小学6年生の三学期になんとかクエストというゲームが流行して、卒業までの一か月余りに男女の区別なく同じ話題で盛り上がっていたのを横目で見ていたくらいだ。また、中学校に入ってからも、クラスの男子が発売されたばかりの携帯ゲームを学校に持ち込んでいたのを思い出した。すぐに見つかって先生に没収されていたけれど。
何にしろ、みのりには縁遠いものだった。
《好きかって聞かれるとそうでもないかな。やることがないときに遊んでるだけだし。でも》
しーちゃんは言う。
《いーちゃんと一緒に遊べるのなら、楽しいだろうなと思って》
息が止まった。
《また体温が上がったね。大丈夫?》
『……それは、しーちゃんのせいだからね……?』
《どういうこと?》
不思議そうに聞き返されたが、説明する気にはなれない。
ゲーム機のスイッチを入れると、みのりの視界は淡い虹色で塗り替えられた。
気が付けばいつの間にか、オーロラのように絶え間なく色を変え続ける、それでいて遠くまで透き通った『海』の中にいた。
『ここは……』
みのりはすぐにピンときた。
『もしかして、しーちゃんの星?』
《うん。もちろん本物じゃないけどね》としーちゃんが言う。
《さっきのモジュールを使って、私の星の情報をいーちゃんに伝えているの。細かいところは違うけど、おおまかなところは本物と一緒》
みのりの感覚の中、すぐそばにしーちゃんの『存在』が感じられた。姿こそ目に見えないが、そこにいることはわかる。普段ならただ『声』が届くだけでそんなふうにはならないのだが、ゲームの機能なのか、普段よりもしーちゃんのことが『わかる』ようになっていた。
《この、私たちを取り巻いているものがヒアリア》
しーちゃんが周囲を指し示した。みのりが今いる『海』そのものがヒアリア。しかし地球の海とは違い、身体が濡れるようなことはない。試しにヒアリアをすくって口に運んでみたが、何の味もしなかった。
《あっちの方に行ってみよう。動き方はわかる?》
しーちゃんが遠くの方を指し示した。『大丈夫そう』みのりはそちらに向かってヒアリアの海を泳いでいく。ただそちらに行こうと考えてみるだけで、自分の身体が自由に動いた。
自由?
ということに違和感を覚え、しばらく考えて気付く。ここ数か月ずっと自分と共にあった胸の重みを感じなかった。身体が軽い。ゲームの世界だからなのだろう。それに伴って心もまた浮き立った。自分の姿が形をなくし、思考と輪郭だけを持った抽象的な何かになった気がした。
もしかしたら、しーちゃんもこういう感じなのかな。
身体を持たず、音もなく、ただ言葉のみにてコミュニケーションを行う生命体。
それってなんかいいな、とみのりは思いながら、先行するしーちゃんの『存在』を追いかける。
ヒアリアの海底がゆったりと視界をすべっていく。昔テレビで見たことのある、南の国の海の底に似た岩肌と白い砂の景色が眼下に見えた。
《もうすぐnierの群生地だよ》
先を行くしーちゃんの移動速度がだんだんゆるやかになっていく。やがて二人は、もこもこした巨大な石鹸の泡の塊のようなものが、いくつも散らばっている風景に出くわした。
《行こう》
しーちゃんが泡の中をすり抜けていく。みのりもそれに続いた。
通り抜ける間、ニエルが身じろぎするように細かく揺れていた。ふわふわしたものに優しく身体をくすぐられる、柔らかい毛布の森を潜り抜けるような感覚だった。
あるいは子供のころに想像したような、雲の上に乗ったときの感覚が、現実になったように思えた。
『気持ちいい』
《ふふ、良かった。他の星の生命体にとっても、やっぱりいいものなのね》
しーちゃんの『声』には、いつもよりも嬉しそうな雰囲気があった。
《あ、fravaが来た》
ニエルの上でみのりたちがいろいろな遊びを試していたとき、何かに気付いたしーちゃんが遠くの方を指し示した。そちらに意識を向けると、視界がわずかに霞むくらいの距離に、拳大のプランクトンの群れのようなものが漂っていた。
《やっつけちゃおう》
『やっつけるの? どうやって?』
《パラスタの応用》
しーちゃんの『声』とともに、フレーヴァの群れの中心で赤い火花が爆ぜた。密集していたフレーヴァがぱっと散った。
『なにあれ』
《パラスタを弾けさせて、フレーヴァをやっつけるの》
『フレーヴァって悪いやつなの?』
《悪いかどうかは知らないけど、フレーヴァはニエルを捕食するから、このままだとニエルがなくなっちゃうね》
『そうなんだ。それじゃあ、やっつけないといけないね』
ひまわりの茎や葉の裏に取りついたアブラムシを思い出した。みのりは心地良いニエルのソファから身を起こす。
『パラスタってどうやって使うの?』
《モジュールを使えば簡単にできるはずだよ》
みのりは手元にあるコントローラに目を落とした。右手側にあるボタンを押す。すると、みのりの目の前で青い火花が爆ぜた。
『うひゃあ!』
《あはは、気を付けないと危ないよ》
しーちゃんが笑う。
《パラスタの狙いをちょっとだけ遠くにつけて、もう一度やってみて》
『狙いって……』
ボールを投げつけるような感じかなとみのりは思う。あいにく球技は苦手だった。視界の中、瞼と瞳の間としか言いようのない位置に十字のポインタが浮かんでいるのに気付いた。左手の十字のボタンを押し込むとポインタが遠くに移動した。右手のボタンを押すと、その位置で火花が爆ぜた。
『うーん……ちょっとわかったかも』
みのりはフレーヴァが密集しているところにポインタを移動させてパラスタを放った。ぱちん! と綺麗な音がしてフレーヴァが散り散りになり、運悪く直撃を受けた個体がヒアリアの海を墜落していく。
『当たった……』
《いいね! 続けてやってみて》
みのりは十字のポインタを三次元的に振り回しながらいくつものパラスタを撃ち放った。右足の爪先の少し先で、左斜め前の伸ばした腕より遠い射程で、遠い視界の彼方で、ぱちんぱちんと青いパラスタが続けて爆ぜた。みのりの撃ち漏らしたフレーヴァはしーちゃんが的確に撃ち落としてくれた。赤と青の火花がヒアリアの海の中で連なって輝き、星座のような姿を描いた。
《気を付けてね、大きいのが来るよ》としーちゃんの警告。
『大きいの?』
大きいのがやってきた。
それは目のない鯨を連想させる姿だった。左右二対の手鰭に似たものや巨大な尾鰭をくねらせて、膨大なヒアリアを押し退けながら進んでくる。それだけ大きなものが頭の上にあるのに影が落ちてこないのをみのりは不思議に思ったが、すぐに理解した。しーちゃんの星には太陽がなく、したがって影もできないのだ。
みのりたちは何度も『大きいの』にパラスタを射掛けたが、何も堪えないようだった。
小さな生き物たちの攻撃などものともせず、『大きいの』がニエルの群生地に着地した。みのりの全身よりも何倍も大きな口には目の細かい鯨ひげが立ち並んでいて、ヒアリアの海の底を擦る勢いのまま、群生するニエルを海底の砂ごと削り取りながらすり潰していった。
周りを取り巻いていた無数のフレーヴァが素早くひげの周りに群がって、隙間に残ったニエルの破片をつつき始めた。
『うう、ニエルがかわいそう』
《しょうがないね。でも、また生まれてくるから》
しーちゃんの言葉に少し安心する。
《それに、この子たちも私の星の生命体だからね》
その言葉にはまるで、母親がわが子を慈しむような響きがあった。
そういうふうに言われてみれば、フレーヴァたちがニエルを食べている様がなんだか可愛らしくもあった。
それからしばらく遊んだ後、《そろそろ終わりにしよっか》というしーちゃんの提案を受けて、みのりはゲームの電源を落とした。それまで見えていたヒアリアの海が地球の景色に入れ替わり、みのりの胸が再び重くなった。
慣れたつもりだったけど、やっぱりこれはつらいなあ、とみのりは改めて思う。
《でも、思った通り》
その時届いたしーちゃんの『声』は、普段よりも少し柔らかい調子だった。
『なにが?』
《いーちゃんと一緒に遊ぶの、きっと楽しいだろうなって思ってたの。フレーヴァをやっつけるのも、ニエルの群生地を通り抜けるのも、『大きいの』と戦うのも》
さっきと同じようなことを言われたが、今度は呼吸も乱れなかった。
『それは当たり前だね。友達と一緒なら、何だって楽しいよ』
自然に口から言葉が出たのは、一緒に戦った仲間としての意識があったからかもしれない。
《……友達》
しーちゃんが呟く。
《それは、あなたの星の、大切な人のことを差す言葉だったね》
『う、うん』
自分の星の、と言われるとちょっと違う気がしたが。
あと、『大切な人』なんて言い方をされてしまうと、みのりとしても少し構えてしまう。もちろんその通りではあるのだが、言い方がこう、こそばゆかった。また体温が上がったとか何とか言われたらどうしようと焦ったが、返ってきたしーちゃんの『声』には、何一つそんな雰囲気はなかった。
《そっかぁ。いーちゃんは私の友達なんだね》
『うん』
《つまり、私はあなたのrusiaってことだね》
『ルーシア……』
それは、彼女の星の、大切な人のことを差す言葉。
みのりは今までしーちゃんとたくさん話をしてきたけれど、彼女の住んでいる星のことは想像することしかできなかった。だが今日、少しだけその暮らしのことを、実感を持って理解した。
昨日までよく知らなかった、今日になって少しだけわかった星の、その言葉を噛み締めるように、みのりはしーちゃんに『声』を届ける。
言葉以上の気持ちが、届いていればいいなと思う。
『うん。しーちゃんはわたしの、大事な
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