3.しーちゃん

「じゃあ、お母さんもう下行くからね」

 みのりの口からスプーンを抜くと、母親はトレイを手に立ち上がり、娘の部屋を後にした。

 見慣れたドアが開いて閉じる一部始終を見送った後、みのりはのろのろと天井を見上げた。

 枕元では姉の用意してくれた携帯ラジオが光GENJIの『ガラスの十代』を流していた。彼らの曲は一日に何度も聞くので聞き飽きてしまっていたし、今の気分に合う曲調でもなかったので、腕を上に伸ばして電源を落とした。一人の部屋が静かになって、何の音もしなくなった。


 首から下については努めて見ないようにしている。

 胸は今や部屋の半分以上を占めるほどに肥大していた。重たすぎて寝返りも打てないほどだった。自力では立ち上がることもできず、家族全員で支えてもらっても数歩歩くのがやっとだった。病院にも行くことができないから代わりに写真を見せに行ってもらったが、原因はやはり不明、こんな状態では手術のやりようもなく、ただ経過を見守るしかないとのことだった。

 手術ができないと聞かされたとき、みのりはほっとしたのだ。しかしそれが間違いだったことをすぐに思い知らされた。ちょっと安心したよねぇ、と冗談を言おうとして顔を上げた瞬間、母親の、今まで一度も見たことのない、今にも壊れてしまいそうな表情を見てしまったから。

 その日以来、笑顔を作るのが少しだけ怖くなった。


 生活の介助は母親と姉に任せざるを得なかった。仕事が終わった後や休みの日など、父親も心配そうに顔を見せるが、母親と姉が追い払ってしまうので長居することはなかった。みのりとしては申し訳ない気持ちが半分、ありがたい気持ちがもう半分、という具合だった。

 学校で仲の良かった同級生が何人か見舞いに来てくれたのだが、彼女の姿を見た途端に誰もが言葉を失ってしまった。

 夏休み前によくみのりをからかっていた前の席の男子も一度だけだが来てくれたことがあった。みのりの部屋のドアを開け、彼女の姿を見て「……は?」とつぶやいたきり、何も言わずに帰って行った。

 何ひとつ言葉が生まれる事のなかった10分とすこしの間に、彼が何を考えていたのかはわからない。

 みのりに唯一わかったことは、彼がみのりのことを好きだと言った、クラスメイトたちの見立てが間違いだったということだ。本当に好きな相手に対することなら、もっと違う態度を取るに決まっていた。


 ひとりの時間が増えるのと同時に、『声』が聞こえる頻度も増えた。

《――re》

 聞こえるというのは正確ではなく、頭の中というか、視界のどこか瞼の裏側みたいなところに文字が現れては消えていく感じが近い。昔、家族で蛍狩りをしたときの光景に似ていた。暗闇の中に不規則に現れては消えていく、淡くて儚い光の軌跡。どうして脈絡もない光景を懐かしく思い出してしまうのかな、こんな生活が続いているせいで、わたしおかしくなっちゃったのかな、とみのりは思う。

「そりゃ、おかしくもなるよねぇ……」

 声に滲むのは悲しみでも憤りでもない、諦めと呼ぶのが近い響きだ。

 溜息をひとつ吐き出して、みのりは脳裏に言葉を思い浮かべる。どうせもう何もできないのだし、空想の世界で遊ぶのも悪くないかなと思った。

『あなたはだれ?』

 そんな風に、投げやりな気持ちで問いかける。


 『声』がひととき、すべて止んだ。


《wouf, deere!?》

 そして凄まじい勢いでみのりの脳裏に『声』が広がった。

 満天の星空のすべてが一斉に発光したような、視覚のすべてを眩ませ消し飛ばしてしまいそうなほどの膨大な情報が、輪郭のない景色と耳を聾する無音と鼻を突く無臭と口中に広がる無味と全身を包み込む綿のような圧力と、みのりがこれまで経験してきたあらゆる感覚に於いても何一つ知覚できない何かが押し寄せて一瞬――意識が飛んだ。

《nier nier deere? nier ere randinglid? nier ere siegalpaint? deer ainsain "nier hereade"? nown jemn densen-redumo?》

『な、な、何??』

《...ier, densen cooniack.》

 『声』に続いて、頭の中に何か、ひとかかえ分くらいの物体が現れた。

 みのりには大きなプレゼントの箱のように思えた。リボンの紐を解くと、果たして中に入っていたものは巨大なクマのぬいぐるみだった。背中に平べったいダイヤルがついており、回すとラジオのようにぐちゃぐちゃした音がする。チューニングを続けていると、ある一点でクマの口から『声』がした。

《言ってること、わかる?》

『あっ……わかる!』

《良かった、翻訳モジュールはちゃんと機能するみたいね。あなたがどの星系に住んでいるのか、わからないけど》

『せいけい……?』

 せいけい、とは何だろうか。顔の手術のことだろうか?

 何か言葉を返そうとして、その次に続く『声』で、みのりの思考はまた止まった。

《最初に聞くね。あなたの身体は、今、どうなってる?》


全宙域適応型生命維持機構レラ、っていう名前らしいんだ》

 『声』はゆっくりと落ち着いた調子で、極めて短い、それでいてとても長い意味の言葉を伝えてきた。

《例えば宇宙空間みたいな過酷な環境でも、生きていられるような工夫。既に存在する生命を、ありえないくらい短い時間で急速に変化させる方法――宇宙のどこかで、それが生み出されたの》

 みのりは相槌を打つこともできず、ただ聞いているだけだった。

《誰かが意図して生み出したのか、偶然に生まれたものかはわからないけど。とにかく、レラはあちこちの銀河に流れて行って、流れ星みたいに、さまざまな星に降り注いだ……。そしていくつかの生命が、姿を大きく変えてしまったの》

『じゃあ……わたしも?』ようやくそれだけ口を挟む。

《そう、あなたも》と声が返る。

《これには大きな問題があってね。レラの齎す変化には終わりがない、つまり、レラを受容した生命は際限なく肥大化するの。やがて増え過ぎた質量に、その生命が属している星の方が耐えられなくなる。つまり――星が破壊される》

『破壊……』

《うん。だから止めなくちゃいけない。そして止める方法は、私が教えられる》

 そう言われてもみのりにはピンと来なかった。イメージが何一つ湧かなかった。

 それに、彼女にとって気になることは目下、ひとつだけだった。

『じゃあ、その、レラっていうのを止めると消えるの? わたしのおっぱい』

《oppai?》

 『声』に困惑が混じる。あ、もしかして、わたしの姿がわからないから、と思い至る。

『その……、身体の一部がすごく、大きくなっちゃってて』

《肥大化が進んでいるのね。わかった、それなら急いだ方が良さそうね。今からひとつモジュールを送るから、使ってみて》

 みのりの頭の中にまた大きなプレゼントの箱が現われた。今度の中身はさまざまな色をした積み木だった。赤と青と緑と黄色と、いくつもの色がばらばらに取り混ぜられているようでいて、不思議と調和が取れている。自分がずっと小さかった頃に遊んだ記憶がかすかに、あるようなないような、そんな気がした。

 触れようとしたら積み木がひとりでに浮き上がって組み変わり始めた。平面を敷き詰めながら横に広がり縦に並んで立体を構築したそれは、優美な城か何かに似たいくつかの建物を模しているようだった。ものの30秒ほどで組み上がった即席のおもちゃの街が、やがてきらきらと光を放って、蝶のようにはためく粒子を空の彼方に送っていった。

《うん、届き始めた》

 最初の蝶の姿が見えなくなったあたりで、代わりに『声』が届いた。

『これ、何なの? 綺麗だけど、おもちゃじゃないよね?』

《omocha……? えっとね、あなたの星の情報を送ってもらっているの。レラを排出するときに、あなたの身体をもとに戻す必要があるけど、そのために必要なもの》

 『声』は言う。みのりは、はあ、と言うしかなかった。

《大気の組成、気温、重力……。へえ、あなたの星、重力がすごく小さいのね》

『小さい……?』

 みのりは数か月前に受けた学校の授業を思い出しながら答えた。

『確か、月の重力が地球の6分の1だから、そんなに小さくないと思うけど』

《ん……確かにそうかもね。基準が違うから勘違いしちゃった》

 『声』にはどことなく、微笑んでいたような雰囲気があった。

 おもちゃの街から送られる光が収まった頃、《うん、大体集まったね》と『声』が届いた。

《あとは、あなたの星のパラメータに合わせて、排出用のモジュールを調整するだけ。しばらく待っててね》

『うん。治るんだ、良かった』

 良かった。

 と心の底からみのりは思った。それとは別に、胸の奥がこそばゆいような、嬉しい気持ちもあった。家族でもない人からこんな風に気遣われたのは久しぶりだった。

《じゃあ、私は調整を始めるから》

『あ、待って……、わたし、まだ大事なこと聞いてない』

 『声』が途切れてしまいそうな気がして、あわててみのりは問いかけた。《大事なこと?》と『声』は不思議そうに返してきた。

《必要なことはみんな伝えたはずだけど》

『名前、なんて言うの?』

《ふぇ?》

 完全に虚を突かれた『声』だった。

 そんな言い方が返ってくるのはみのりにも予想外で、思わず吹き出してしまった。


 名前を聞くと、シーで始まるとても長い答えが返ってきた。何度試してもみのりにはうまく『発音』できなかったので、しーちゃん、と呼ぶことにした。

 しーちゃん、という響きをしーちゃんはとても気に入ったようだった。どうして「ちゃん」を付けるのかと尋ねられたので、女の子にはちゃんって付けるものなんだよ、と答えた。そのこと自体はぴんと来ていないようだったが、それはさておき、《しーちゃん、いいね、しーちゃん》と嬉しそうにつぶやいていた。

 また同じように、あちらはあちらで「みのり」と上手く言えないようで、

《いおり?》

『みのり』

《い、ろ、り?》

『み、の、り、だよ』

《……難しいから、いーちゃんって呼んでいい?》

 との会話を経て、お互いの呼び名が決まった。

 いーちゃん、いーちゃん、と何度か繰り返して名前を呼ばれた。そんなふうに弾んだ様子で名前を呼ばれたことは今まで一度もなかったから、みのりはまたこそばゆい気持ちになった。

 多分あっちが「ちゃん」と言うのが楽しいだけなんだろうなとは思ったけれど、それでも嫌な気分ではなかった。


 どこに住んでいるのか、何歳なのか、友達はいるのか。続けざまにそのようなことを質問した。

 しーちゃんは地球から遠く離れた星に住んでいるそうだ。その星が宇宙のどこにあるのか、一応聞いてはみたがさっぱりわからなかった。年齢についてはそれとなくはぐらかされた。なるほど、年を聞かれたくないのは宇宙人でも同じなんだなあ……とみのりは思った。自分の母親も友達の母親もその傾向があったから、しーちゃんも自分よりはずっと年上なんだろうなと推測した。

《tomodachiというのは?》

 みのりが驚いたことは、友達という言葉が通じなかったことだった。それはね、と即座に意味を伝えようとしたが、いざ言葉にしようとすると詰まってしまった。

 ……友達ってなんだろう?

 いつも一緒にいて、一緒に遊んだり、どんなことでも話したりできる相手のこと?

 長らく考えてようやく伝えたのはそんな内容だった。そうなんだ、としーちゃんは言い、続けてこう言った。

《それは、私たちにとってのrusiaってことだね》

『ルーシア……』

 その言葉が、しーちゃんたちの言葉では友達を指すものらしかった。その響きはどこかみのりの耳に心地よかった。

『きれいな言葉だね』

《そうなの? よくわからないな。あなたの星の生命体なら、みんなそういうふうに感じるのかな》

『さあ……。わたしだけかも。友達によく変わってるって言われるから』

 ともだち、ともだち、とまたしーちゃんは繰り返していた。

 みのりもしーちゃんの真似をして、ルーシア、ルーシア、と心の中で繰り返した。


『しーちゃんって、どんな顔してるの?』

 次に聞いたのは姿のことだ。言いながら、なんだか好きな相手を口説いているみたいだと思ったが、あまり面白い冗談とも思えなかったので伝えはしなかった。

《kao? なに、それ?》

 しかし、返ってきた答えはまたしてもみのりの想定の外だった。

『顔は顔だよ、鏡見たことないの?』

《……全然わからない。kao、というのが、kagamiに値するの?》

『??? 顔が鏡……?』

 しーちゃんの言うことがわからなくてみのりは混乱した。鏡を見たことのない女の子なんているんだろうか。

 どう言えば伝わるのだろうかと眉間にしわを寄せながらみのりは必死で考え、地球には鏡というものがあり、それに映るものが自分の顔なのだ、ということを説明した。だがしーちゃんの反応は芳しいものではなかった。

《うーん、難しいなあ……。イメージ対話でも、何でもわかるわけじゃないんだね》としーちゃんが言う。

《いーちゃんが当たり前に知っていることでも、わたしの知らないことは理解できないし、その逆も一緒ってことか》

 何度か言葉を交わしてわかったことは、しーちゃんの星には鏡が存在しないということだった。

『相手の姿が見えないの? 友達と話すときはどうしてるの?』

《ん、どうしてるって言われても……parastaを使うんだけど》

『え……パラ……? なに……?』

 みのりの混乱がまた深まってしまった。

 どうすればいいのかとしばらく頭を回転させたが、何もいいアイデアは出なかった。

 そしてみのりはすべてを諦めた。

『よし、話を変えよう』

《そうだね。住む星が違うと、話をするのも難しいね》

 本当にそうだなあとみのりは思った。

 

 やがて夜が来るまでおしゃべりに興じた。

 夜だから話を終わりにしよう、ということを伝えるのにも一苦労だった。なにしろ、昼の後には夜が来るのだということについても、しーちゃんには伝わらなかったからだ。たくさん話をしてくたびれていたから説明をするのも億劫で、またこっちから連絡するから、ということにして『通信』を切った。

「すっごい、長電話だったなぁ……」

 口に出してみる。レラの『通信』と違って、自分の声が音として響くのが不思議に思えた。それくらい長い時間の『通信』をして、まるでそっちが当たり前だったみたいに、身体が慣れてしまっていた。

 ノックの音がして、夕食を持った母親が部屋に入ってきた。

「どうかしたの? なにか、楽しいことでも考えてた?」

 顔を見るなり母親はそんなことを聞いてきた。

 よくそんなことわかるなあ、さすがはお母さん……と思った後で、気付いた。

 それはつまり、今の自分が外から見てわかってしまうくらいには楽しそうな顔をしているんだということに。


 みのりはシーツを引き上げて、頭を縮こませながら答えた。

「ないしょ」

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